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弱小。BL野球部  作者: 一般人凡人
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第一章 弱小。ボーイミーツガール

第一章 弱小。ボーイミーツガール


 八月一日。

 気温は三〇度をゆうに超え、太陽のギラギラとした紫外線が美容を気にするアバズレ共の肌を焼きつくす。そんな夏の真っ盛りだ。

 そして、学生にとっては至福の期間の始まりである。

 そう。夏休みだ。

 冷房の利いた部屋で一人ゴロゴロするも良し。避暑地で友達と有意義な時間を過ごすも良し。だというのに、

「フフンフフンフンフーン♪」

 (ふじ)()(りゅう)()は上機嫌に鼻歌を歌いながら学校の制服に着替えていた。終業式は、ついこの前終わったばかりだというのに。

 身だしなみが整うと、机に置いてあったカバンを手に取り部屋を出る。すると、

「あれ? なんで制服?」

 ちょうど部屋の前を通りかかったパジャマ姿の少女と出くわす。

 クリクリとした大きな目に、小さな体躯が特徴的で、小動物を連想させるような可愛らしい少女。

 (ふじ)()(のどか)。龍示の妹で中学二年生だ。

 ちなみに龍示は高校一年。

「数学の補習だよ。赤点とったから」

「うわ……情けない……」

 二人は顔を洗って歯を磨いてから、一緒に食卓へ。

「おはよう。って、龍示も? 珍しいわね、こんな早い時間に。なんで制服着てるの?」

 台所で洗い物をしていたアラフォーの女、龍示の母が二人に気づいて声をかけた。

「おはよう。その……学校の行事のアレで……」

「補習だって」

 母親にチクる和に、龍示は恨めしそうな視線をプレゼント。

「へぇ、楽しそうな行事ね。ったく……勉強していい大学行けとまでは言わないけど、最低限のことだけはしときなさいよ?」

「気をつけるよ」

 龍示は母の忠告を聞き流し、手早く朝食を済ませ、再び歯を磨いてから家を出た。

 外に出るとムワッとした熱気が龍示の全身にまとわりつく。

「うわっ……暑いな……」

 本来なら冷房の利いた部屋でゴロゴロと惰眠をむさぼっている時間だというのに、というような不満が湧いてくるところであるが、今の龍示の心境は少し違う。その証拠に学校へ向かう龍示の足取りは軽やかだ。それはなぜかというと、

(……楽しみだなぁ……今日の補習……あの憧れの美少女……(さぎ)(さき)さんと二人っきりだもんなぁ……クラス違うから、まともに話したことねぇけど……)

 そう。女だ。

 事前に先生から聞いた情報によれば、補習を受ける生徒は龍示を含めて二人だけ。相手は前々から龍示が憧れていた美少女で、名は鷺咲という。

龍示は直接彼女と話したことはなく、せいぜい遠目で見るくらいで、どうにかしてお近づきになれないかと悶々と苦悩していた。そんなところに期せずして舞い降りた今回のビッグチャンス。テンションがどうしても上がってしまう。

 鷺咲とのピンク色な妄想に没頭していると、あっという間に学校に到着。龍示は踊るような足取りで校門をくぐると、

「あれ? 龍示じゃん!」

「?」

 背後から女の声。龍示は振りかえる。

 そこにいたのは龍示と同じ学校の制服に身を包んだ少女。栗色のサラサラした髪の毛に、パッチリとした形の良い目。スラッとしていて引き締まった美しい体躯。活発そうな印象の美少女だ。

「どうしたの? もしかして補習?」

「正解だ。さすがは付き合いが長いだけあるな、()(やま)桜(桜)」

 桜は『なんでフルネーム?』と、ちょこっと首を傾げたが、追及はしなかった。

 深山桜。龍示の近所に住んでいる、昔からの友達だ。

「前に赤点取ったって聞いたし。付き合い云々は関係ないよ」

 桜はクスッと笑って言う。

「でも、補習の割には機嫌よさそうじゃん。なんで?」

 龍示はフフンと鼻を鳴らしてから、

「何組の子かは知らねえんだけど……俺らと同学年の女子……鷺咲さんって知ってるか?」

「鷺咲さんって……まあ知ってるけど……どっちの?」

「え……? どっちのって……?」

 今度は龍示が尋ね返す番だった。

桜は鷺咲という名字に心当たりが二つあるらしい。

「鷺咲さんって双子の姉妹じゃん。姉の沙希さんはうちのクラスだけど、妹さんは別のクラスだから面識はないんだよね……」

「双子だったの!?」

 そんなの初耳だった。

「逆に知らなかったの!? 双子の美人ってなると皆食いつくから、よく話題にもなると思うんだけど……友達からそういうの聞かない?」

 龍示は首を横に振って否定した。

「それで? 話戻すけど、鷺咲さんがどうかしたの?」

「今日の補習、俺と鷺咲さんの二人っきりなんだよ。これを機に仲良くなれたらなぁ~なんて! 甘酸っぱい思い出なんかできちゃったりして~なんて! でゅふふふ……」

 美少女と二人きりの状況なのだ。話す機会などいくらでもあるはずだし、親しくなるチャンスはきっといっぱい転がっているはずだ。千載一遇のこの状況、逃してたまるものか。

 しかし、そんな龍示の甘い幻想は桜によってぶち殺されるはめとなる。

「水を差すようで悪いんだけど……それ……ハズレの鷺咲さんじゃない?」

「? ハズレって?」

「妹さんの方。(さぎ)(さき)(みさき)さん。人格破綻者の方」

「……え?」

 人格破綻者とな。

「うちのクラスの鷺咲さん……()()さんは外見も内面も凄く良いんだけど……妹さんの方は内面が残念なことになってるって……人として終わってるって噂なんだよ。補習になるくらいに勉強ができないってなると、妹さんの方じゃない?」

「つーか、人として終わってるってどういうこと?」

 桜は上を向いて、噂話を思い出しながら言う。

「聞けば……授業中に突然奇声を発したり……わけもなくケタケタ笑い出したり……とにかく変わった人らしいよ。他には男子の着替えを盗撮したりするんだって」

「本当に終わってるな。特に……いや全部」

 桜の話が本当なら、岬という少女は警察にお世話になるレベルの問題児だ。

「どこまでが本当かは分からないのに悪く言っちゃったけど……火の無い所に煙は立たないっていうしね……」

「ふぅん……まぁ、いいや。双子なんだからきっと外見はいいはずだろ? ハズレの方だとしても外見がいいならそれだけで目の保養になるし」

「そう? っと、こんな時間……。じゃあ龍示、補習頑張ってね。あたし生徒会の仕事あるから」

「おう。桜も頑張れ」

 龍示は桜と別れて補習が行われる教室を目指して歩いていく。

 校舎の中は冷房が利いておらず、外と変わらない蒸し暑さだった。

 にしても、と龍示は先ほどの会話を思い出す。まさか、かの鷺咲さんが双子の姉妹だったとは思いもしなかった。

(俺が見た鷺咲さんはアタリの方だったってわけか……)

 双子で外見がそっくりとはいっても、変人には変人なりのオーラというものがあるはずだ。龍示が目にした『鷺咲さん』は少なくとも男子の着替えを盗撮するような変態には見えなかった。

(けど、これから会うのはハズレの妹の方……)

 龍示は補習の教室の前に到着。ドアの前に立って一つ深い息をつく。

(どんな変態が待っていることやら……)

 モヤモヤした気持ちのままドアを開けると、

(!)

 そこには小難しい顔で教科書とにらめっこしている少女が一人。

 可愛らしいパッチリとした大きな目。人形のような端正な顔立ちに、チャーミングなポニーテール。大人の色気をまといつつも、子供のようなあどけなさを残したような不思議な魅力の美少女だった。

「!」

 少女と視線がぶつかる。何か言わなくては、と龍示は必死に言葉を探す。しかし、言葉が見つかる前に少女の方から口を開いた。

「えっと……おはようございます」

 龍示はいきなり美少女に声をかけられたことで情けなくうろたえる。

「うぇ? お、おはようございますぉ」

 噛んだ。

「……ぷっ、ご、ごめんなさいっ」

 少女は堪え切れずに笑ってしまった。

(俺の馬鹿ぁあああああ! なに噛んでんだよ!? 動揺するな! 俺!)

「もしかして、補習ですか?」

 動揺する龍示にかまわず、少女が話しかけてきた。龍示はこれ以上みっともない姿をさらすまいと平静を装って答える。

「は、はい。そちらも補習ですか?」

「はい、恥ずかしながら。私、(さぎ)(さき)()()っていいます。よろしくお願いします」

「!?」

 ちょっと待て。この少女は今、何と名乗ったのか。龍示は慎重に確認を取ってみる。

「鷺咲……沙希さん……?」

「はい。双子の姉妹で二人ともこの学校に通ってるんですけど……私は姉の方です」

「………………」

 龍示は脳内で確認する。人格破綻者は確か、妹の方だったはずだ。ということは……

(アタリきたぁあああああああああああああああ! なんで!? マジで!? 話の流れ的にハズレが来る場面なのに!)

 歓喜の気持ちを必死で抑える。ここではしゃいでしまえば沙希に『変人』のレッテルを貼られてしまうかもしれない。初対面の印象は大事だ。

「どうも。俺は藤田龍示っていいます。補習、一緒に頑張りましょう」

 龍示はニカッと爽やかな好青年を装って言った。

 沙希の方も柔らかい笑みを浮かべて応える。

「はい。私一人だったらどうしようって思ってたんですけど、仲間がいて良かったですっ」

「そうですね! 仲間ですね!」

 龍示は沙希の隣の席に腰かけて筆記用具とテキストを取り出し、補習の準備をする。

そこへ、ガラガラと粗い音を立てて教室のドアが開く。そこから現れたのは三〇歳くらいの男。

「……ちゃんとサボらずに来たようだな、おまえら。特に龍示」

 龍示はニコリと笑顔で、

「よろしくお願いします、武山先生。本日は僕達のために暑い中わざわざ学校へお越しいただいて申し訳ありません」

「!? どうした!? その言葉遣い! 頭でも打ったか!? それとも薬か!? 変な薬に手を出したんじゃないだろうな!? いつものナメた口はどうした!?」

 男はツチノコでも発見したかのような驚きっぷりで龍示に言った。

「ふふ、御冗談を。僕が尊敬する武山先生に失礼な口をきくなんてありえません」

「ウソつけぇえ! おまえ、期末テストの空欄に全部『死ね武山』って書いてたろ!? 今さら良い子ぶってんじゃ――」

 そこで武山の視線が、キョトンとしている沙希へと向かい、

「……そういうことか。ったく……」

 武山は追及をやめて教壇へと向かい、補習の準備に取り掛かる。

「じゃあ最初に期末テストの解説をする。一応、授業でも解説はやったが、おまえらのことだ。分からないまま置いてきぼりになったはずだ。今度はおまえらのペースでやるから安心しろ。とりあえず期末の問題用紙と解答用紙を出せ」

二人は言われた通りそれらを机に置き、バツだらけの解答用紙を改めて目にして、揃って苦い顔になる。

「問一のa。単純な計算問題だな。鷺咲、おまえこれはできたか?」

 沙希が申し訳なさそうに、

「……空欄です」

「龍示。おまえは?」

 龍示の解答欄には例の『死ね武山』の四文字。しかし龍示は、

「…………空欄です」

 武山は眉根を寄せて、

「……これは解説以前に基礎を一から説明しなくちゃだめだな……。やっぱテストの解説は中断だ。教科書をやろう」

 武山は懇切丁寧に教科書の基礎を復習させた。

説明を進めるにあたって、細やかに区切りを入れて『ここまでは分かるか?』と確認を入れ、質問があれば生徒が分かるようになるまで説明した。

 沙希は要領が悪いものの、分からないところは分かるようになるまでの根気を見せた。龍示はそんな沙希の一生懸命な姿勢に、隣でキュンキュンしていた。

 対して龍示は沙希に比べてだいぶ要領が良く、教科書と武山の説明で一応の理解を示し、つまずくことはほとんど無かった。

そんなこんなで本日の補習は終了。

「二人とも、基礎はそこそこ分かるようになってきたな。鷺咲も腐らずによく頑張った」

「ありがとうございます……」

 沙希は慣れない勉強のしすぎのせいか少し憔悴している。

「龍示、おまえは逆に普段から腐りすぎだ。要領は悪くないんだから、もう少し根性見せろ。仮にも元天才ピッチャーなんだろ? あの時の輝きはどうした?」

「うるせえ消えろ武…………田」

「今、明らかに『武山』って言おうとしたよな? つーか誰だよ、武田って。なあ? おまえそんなに俺が嫌いか?」

「まさか。僕が人を嫌うだなんて。ははっ」

「ちっ、白々しい……。じゃあな。二人とも、気をつけて帰れよ?」

「「はい」」

 武山は一足先に教室を後にした。

「………………」

「………………」

 静かになった教室で沙希と二人きり。落ち付きを取り戻していた心臓が再び早鐘を打ち始める。

(どうしよう……なんか話さなきゃ……つっても何を……?)

 そう龍示が悩んでいるうちに、

「あの……」

「へ?」

 沙希の方から声をかけてきた。

このチャンスを逃してなるものか。どんな言葉にも完璧な受け答えで返してやる。龍示は沙希の言葉に慎重に耳を傾ける。

「野球……やってらしたんですか……? 天才ピッチャーって……」

「え、ええ。まあ。昔の話ですけど」

 なんだ。そんな話か。龍示は肩を透かされた気になった。この話題に関してはどれほど頭をひねっても面白い切り返しなどできないから。

「てことは今はもう……」

「はい、やめました。ピッチャーだったんですけど、中学入ってすぐに肩壊しちゃって。それきりです」

「ご、ごめんなさい! 失礼なこと聞いちゃって!」

 沙希は頭を深く下げて龍示に謝罪した。

 龍示は手をパタパタと振って、

「いえいえ。というか、ケガはあくまできっかけに過ぎないっていうか。単純に飽きちゃったんです。野球に。ケガしたとはいえ、もう完治してますし、打者としてやる分には全く問題ない体だって医者に言われてますし」

「そう……ですか……」

 沙希は複雑そうな顔になった。

「もう一度野球をやろうって考えは……?」

「正直……無いです。野球に関してはもうやることはやりきったって感じですから」

 これはもう、とっくの昔に決着のつけたことだった。

打者としてもう一度頑張ってみろだとか、頑張れば投手としてもう一度舞台に上がることができるかもしれないだとか、そういう話は周りから散々された。

それでも龍示が嫌だというと、皆、口をそろえて同じことを言うのだ。『もったいない』と。

そして、そう口にする時の人間の表情が龍示は大嫌いだった。まるで自分が物として扱われているような、野球をしない龍示には何の価値も無いと口にされているような気がしたのだ。そんな人間に対する反骨精神が、野球をやめる決意をより一層固くさせたのだった。

今となっては龍示の野球への熱は完全に冷めていた。そんなこんなで、龍示にとって野球をやるかやらないかということは、割と根の深い問題だったりする。

沙希は龍示が野球をしないということを受けて残念そうに笑った。

「そうですか……ちょっと残念です。私、野球部のマネージャーをやってるんですけど、この学校の野球部ってひどい有様ですから……藤田君みたいな誠実な人が部員にいたらなって思ったんですけど……」


「やりましょう! 野球! 入ります! 野球部!」


「…………え!?」

 龍示は美少女に屈した。

「え? え? で、でも! というか、いきなりどうしたんですか? さっき野球は飽きたって……」

 こんな可愛いマネージャーがいるのなら話は別だ。龍示は掌を返すように言葉を並べていく。

「いやぁ! 久しぶりにやってみるのもいいかなって! いいですよね! 野球! 青春って感じで! 甲子園とか憧れるなぁ! あはは!」

 そんな勢いだけで心のこもっていない龍示の言葉に、

「ですよね! 私も甲子園に憧れてるんです!」

 沙希は、あっさりと騙されて龍示に強く同意した。そして両拳をギュッと握って熱弁をふるう。

「あの場所には素敵なドラマがたくさんつまっているんです。もちろん、嬉しいドラマだけじゃありません。悔しかったり、悲しかったり、そういう辛いドラマだってあります。むしろ、後者の方が多数派かもしれません。ですが、あの場所には数えきれない人の数えきれない大きな想いが詰まっています。それってすごく素敵だと思いませんか?」

「お、思います! 俺もその……あれ……素敵だと思いますハイ!」

 絶対に思ってないことは明白なのだが、テンションの上がっている沙希にはバレていない。

「時々……というか、しょっちゅう想像するんです。もし自分の学校が甲子園に行けたらって。夢なんですよ! 自分の学校が甲子園に行くの!」

「ふっふっふ、任せてください! 鷺咲さん! その夢、この藤田龍示めが叶えてさしあげましょう!」

「それは……無理です……」

「へ?」

 一転して、沙希の熱が急に冷め、龍示はポカンとした。沙希のテンションの高低差に耳がキーンとなってしまう。

「さっきも言ったように……ひどいんです。うちの学校の野球部。練習をする人なんてほとんどいませんし……顧問の先生もやる気なんて皆無ですから」

「……マジですか?」

 それはもう野球部とは言えない。

「私も皆に練習を頑張ってくれるよう頼んではいるんですけど……誰もそんなこと聞いてくれませんし……」

「えぇ!?」

 こんな美少女の頼みごとを断れる男なんているのか、と龍示は驚愕した。龍示は絶対に従う。『あそこのおばあちゃんを包丁で刺してきて』と頼まれても龍示は喜んで従う。『練習して』と頼まれれば筋肉がぶち切れるまで練習するくらいの気概だって持てる。

「それに、藤田君が野球部に入ったら大変なことになると思います……。皆から目をつけられて大変な目に遭っちゃいますよ」

(? もしかして野球部ってヤンキーの集まり……?)

 龍示は自分の学校の野球部について無知だった。何やら問題を抱えているらしいが。

「大丈夫です。俺、護身術は心得てますから。それより、一緒に頑張りましょう。野球部の立て直し」

「でもでも! 本当にいいんですか……?」

「任せてください! じゃあ俺、職員室で入部届けもらってきますから! 明日から練習に行きますんで! それでは!」

 龍示は沙希に別れの挨拶をすると同時に、駆けるようにしてこの場を後にし、職員室へと向かった。

 そして、職員室へ向かう道すがら、

「ん? 龍示、どうした? そんなに慌てて」

 補習を終えて職員室へと向かう武山と再び出くわした。

「おぉ、武山ぁ」

「先生をつけろ馬鹿! さっきまでの殊勝な態度はどうした!?」

「……そっちも分かってんだろ? 俺が鷺咲さんの前でボロを出すわけにはいかないって」

「ふん、どうせ少しつつけばすぐにボロが出るさ。おまえのような欠陥住宅」

 ピキッと龍示の額に青筋が浮かんだ。

「誰が欠陥住宅だ、この片玉野郎。もう一個の玉も使いものにならなくしてやろうか? あぁ?」

「うぐっ!」

 そう。何を隠そう、武山は片玉なのだ。

 武山は自身のコンプレックスを龍示に持ちだされて呻いたが、すぐに反撃に転じる。

「未来永劫、使いどころの無いおまえの玉より何倍もマシだコラぁあ! つうか、おまえのせいで俺が片玉だって情報が広がっちまったんだからな!? おかげで生徒にからかわれまくりだ馬鹿野郎!」

「? 全然身に覚えが無いんすけど~?」

「俺の授業の前に、黒板にデカデカと『片玉の貴公子武山』って書いたのはテメェだろうが!」

「あっはっは! 皆、超笑ってたよな? あれ!」

「それだけじゃねえ! この前、俺の名前使って『玉、探してます』って張り紙したのもおまえの仕業だったよな!?」

「いいじゃん。子供の悪ふざけくらい大目に見ろよ」

「子供の悪ふざけの域を完全に超えてるっつってんだよ! いくら昔からのよしみっつっても限界なんだよ! このクソガキが!」

「はいはい。つーか、ちょうどいいから少し付き合ってほしいんだけど。入部届けって、やっぱ職員室でもらうんだよな?」

「? おまえ、部活始めるのか?」

「うん。野球部」

「………………」

 数秒の沈黙があって、

「はぁああああああ!? 嘘だろ!? えぇえ!? 本気か!?」

 武山は驚きの叫び声をあげた。幸い、人一人いない場所だったので誰にも迷惑はかからなかったが。

「本気……とは言えないけど、少なくとも途中で投げ出すような半端な真似をするつもりはない」

「いや、でも今まで散々嫌がってたろ? いや、でも、本人にやる気があるのに何か言うのも変か……。けど、なんで今更……? もしかして、さっき俺が『昔のおまえは輝いてた』とかなんとか言ったことを気にしているのか?」

「違う。自意識過剰。足臭い」

「今足臭い関係ねえだろ! じゃあなんで…………もしかして鷺咲か」

「……うん」

 龍示は顔を少し赤らめて武山から視線を逸らした。

「なに急にしおらしくなってんだ気持ち悪い。いったいどんな口車に乗せられたんだ? おまえの野球嫌いは相当だったはずだろ?」

「口車とかそんなんじゃない。それに野球自体は飽きたってだけで別に嫌いってわけじゃなかったし。野球をする俺に群がってくる大人達が嫌なだけだったんだよ」

「ふぅん……けどピッチャーはできないんだろ? てことは打者としてやるのか?」

「おう」

「……そうか。話は分かった。けど、うちの学校の野球部はやめとけ。野球をやるならどこか他のとこにしておけ。その方が真剣に打ち込める」

 武山は沙希の言っていた野球部の『ひどい有様』というのを知っている口ぶりだった。

「いや、鷺咲さんにはうちの野球部をまともな部に立て直すって約束したんだ。だからそれはできない。不良の集まりだかなんだか知らないけど、俺がなんとかしなきゃ駄目なんだよ」

 武山はヤレヤレと呆れるような溜息をつく。

「不良の集まり……ねえ。それならどれだけマシなことか。おまえ、うちの野球部について何も知らないだろう?」

「……? なんだよ?」

「まあ、いい。何か言っておまえの覚悟を鈍らせるのは野暮ってもんだ。知らないなら知らないまま飛び込めばいい。あれこれ悩むのはそれからだ」

「……ちっ」

 龍示は武山の意味深な言葉が胸に引っかかり、少し気を悪くした。いつまでたっても子供扱いされるのは悔しい。

 それきり野球部に関する話題は終わり、二人は職員室へ。

 武山は龍示を適当なイスに腰かけるよう促し、入部届けの用紙を取りに行った。

「あぁ……涼しい……」

 龍示はここが我が家であるかのように、体を大きく広げてリラックスしはじめる。そこへ、

「ほら、入部届けだ。それを書いたら顧問の先生に渡せ……って、いないか。じゃあ、俺が代わりに渡しておいてやるから書いたら俺に渡せ」

 武山先生は用紙とペンを龍示に渡して、自身もイスに腰かける。

 龍示はサラサラとペンを走らせて、

「えらく殊勝な態度じゃねえか片玉さんよぉ、えぇ?」

「誰が『片玉さん』だぁ! おまえは素直に礼も言えんのか!?」

「借金、残り六三〇万」

 龍示は魔法の言葉を唱えた。

「すんませんした!」

 武山に九九九のダメージ。武山は謝罪した。

「高校生に多額の借金をしている中年男性……これ、社会的に見てどう思う?」

「カッコいい」

「ある意味な!」

 龍示は必要事項を書き終え、武山に借りたペンと一緒に渡した。

 武山は用紙の記入欄に漏れが無いかを確認してから、

「オッケーだ。これでおまえも立派な性犯罪者……じゃなくて野球部員だ」

「おう。じゃあ、今日は帰るわ。それ、頼むな?」

「おまえこそ、その……これから気をつけろよ?」

「? なに? 気をつけろって」

「……いろいろだ」

「? まぁ、分かった。じゃあな」

「おう」

 こうして、龍示は正式に野球部員として入部を果たした。

「本当に……気をつけろよ……」


***


 龍示は家に帰って昼食をとると、すぐに着替えて再び暑い外へと出かけた。

目的地は最近出来たらしい駅前の大きなショッピングモール。その中でもスポーツ用品店だ。グローブやスパイクなど、野球部で必要な物をそろえるためだ。

 龍示の家から駅前までは歩いて一五分ほど。大した時間はかからない。

それにしても、夏はどうしてこんなにも暑く感じるのか、と龍示は気になった。気温が高いとかそういう話ではなく、暑いと感じさせる存在の話だ。例えばセミ。あの鳴き声は聞いてるだけで暑苦しい気分になる。例えばデブ。見ているだけで暑苦しい気分になる。このように夏には夏の暑さを助長させるような存在がゴロゴロと転がっているように龍示は思う。

(……暑い)

なのに、これらの存在が暑さを助長させる効果を発揮させるのは夏の間だけだ。冬にセミの鳴き声を聞いても温かい気分になれるわけでもないし、デブを見ても特に何も感じはしない。これらが効果を発揮させるのは夏だけなのだ。水道の水にしたって、夏は温い水が出て、冬は冷たい水が出てくる。物事というものはどうしてこんなにもうまく噛みあわないのか。どうしてこの世から戦争が無くならないのか。どうして脱法ハーブに手を出す若者が出てくるのか。そんなことを考えながら龍示は駅前を目指して歩いていく。

(あれ? 俺、何考えてたんだっけ……?)

 脳味噌が暑さでやられてしまったのでは、と危惧した龍示は近くの自販機でペットボトルの冷たいお茶を購入。パキッと蓋を開けてゴクッと喉を鳴らしてそれを飲む。

「ぷはぁ」

 龍示の表情が腐っていたそれから、生き返ったように活力を取り戻した。

 暑い中で飲む冷たい飲み物というのは格別だ。

Mっぽい考えになるが、辛い思いというのは、喜びを大きくするスパイスのような感じがする。辛い思いをした分だけ喜びが大きくなる、と言うと安っぽく聞こえるかもしれないが、辛い思いをしなければ喜びには気づけないのはまぎれもない事実だ。なぜなら喜びの状態が当たり前の状態になってしまうから。当たり前のことに、人はいちいち喜びはしない。そうして当たり前の喜びを忘れた人間は欲に従い、更なる不要な喜びを求め始め、争いを起こしていくのだ。そう、『慣れ』と『欲』という人間の機能こそが戦争を引き起こす要因ともなり、『慣れ』と『欲』こそが若者を脱法ハーブの道へと――

(ヤベぇ! 頭が!)

 龍示は慌てて冷たいお茶を喉に流し込んだ。何を考えているのか分からなくなってボヤけた頭がスッキリしていくのを感じる。

「……おぉ、着いた」

 大きなショッピングモールの前に到着。

 龍示は冷房の恩恵にあやかろうと早足でモールの中へと入っていった。

(エアコン発明したやつって天才だよな……ダイナマイトよりよっぽど有意義な発明だよ)

 モールの中はほどよい冷気が充満しており、龍示の体を癒すように包み込んだ。平日ということもあって混雑こそしていないものの、閑古鳥が鳴かないくらいには賑わっていた。

 龍示は出入り口に掲示されているフロアの案内を見て、スポーツ用品の店を探す。ついでに、どこか面白そうなところがあれば寄ろうかと思ったが、特に何か欲しい物があるわけでもないので無理して欲しい物を探すことに時間をかける必要もない。そう結論づけてフロア案内の場所から離れた。いざスポーツ用品店へ。

 店のスペースは割と大きく取られており、広いフロアの四分の一くらいのスペースがあった。品揃えも豊富そうだ。しかし、

(客少ねえな、オイ)

 ガラガラだった。店の通路でキャッチボールをしたとしても店員以外に迷惑する人はいなさそうだ。

 龍示は他のスポーツ用品のコーナーに目移りすることなく、真っすぐに野球のコーナーへと向かう。

 龍示の買い物はとても早い。特に品物を吟味などすることなく、あっという間に決めてしまう。買い物好きの女子としては許せない光景であろう。二〇分程で買う物は全て揃い、レジへと向かう。

「いらっしゃいませ~」

 アルバイトの兄ちゃんが愛想良く会計を進めていく。少しして怪訝な表情になって、

「お客さん……どこかで見たことある気がするんですけど……どこかで会いましたっけ?」

「……えっと……初対面だと思います」

「そうですか……?」

 店員はまだ心に引っかかりを覚えているような顔だった。

「お会計、××円です」

 さすがに高い。少なくとも高校生がすんなり払える額ではないのだが、

「カードで」

 親から勝手に持ち出したクレジットカードでそれをクリア。犯罪だ、と言いたいところだが、親も親で龍示の多額の貯金を隠れて搾取していたりするので、お互い様なのだ。

龍示は買い物を終えると寄り道一つせず、すぐにモールを去った。


***


「ただいま」

 龍示は家に戻ると水分を求めて真っ先に台所へと向かう。すると、

「おかえり~龍示。遊びにきてるよ」

「おかえり。兄さん」

 リビングでテレビゲームに興じていた桜と(のどか)はゲームを中断して龍示に声をかけた。

 桜はテーブルに置いてあった飲み物のコップを手に取ったところで、龍示の持っている大きな買い物袋を目にして尋ねる。

「どうしたの? それ」

「ああ、俺、野球部に入った」

 龍示の短い答えに、

「ブフゥーッ! ケホッ……コホッ……」

 桜はお茶を吹き出して、苦しそうに咳き込んでしまった。

「だ、大丈夫? 桜ちゃん……」

 和は桜の背中をさすって気遣う。

 龍示は桜の様子に戸惑いながらも台所から拭く物を取ってきて、桜がテーブルにぶちまけたお茶を拭いていく。

 桜は若干涙目で咳き込みながら、ゴメンと弱々しく謝罪した。そして、

「正気なの……? 龍示……」

「ああ。正気だよ。つーか、そんな意外だったか? 俺が野球部に入るの」

「誰が予想できるの!? え? だって龍示、今朝までノーマルだったじゃん! 鷺咲さんに……ちゃんと女の子に興味持ってたじゃん!」

「「?」」

 龍示と和は桜が何を言っているのか分からず、そろって首を傾げた。

「おまえ何言ってんの?」

「だから! 龍示、野球部入るんでしょ!?」

「だから、そう言ってんじゃん。俺が言いたいのは、なんで野球やるって話から女の子がどうのって話になるのかってことなんだけど?」

「……え? 龍示、野球すんの……?」

「……野球部入るって言うやつに対してその質問は無いだろ」

 和も龍示に同意してコクコクと頷いていた。

 そんな龍示の答えに、桜は脱力して深く息をついた。

「あ~良かった~。龍示があたしの手の届かない龍示になったのかと思ってヒヤヒヤしたよ……」

「なんだよ、それ……」

 桜は少し心配そうな顔になって言う。

「察するに龍示さ、うちの野球部について何も知らないでしょ?」

「何もって程じゃない。大雑把には知ってる。なんかひどいんだろ?」

 桜も武山と同じようなことを言ってくる。

「大雑把すぎ……どうひどいかは知ってる?」

「練習する部員がいないって鷺咲さんが言ってた。あ、そうそう。補習に来てた鷺咲さん、しっかり者の方だったぞ」

「マジで? そうなんだ……。すっごい意外。あの子勉強できなかったんだね。って、そんな話はいいや。つまり、龍示は野球部の歪んだ事情を知らないわけだ……」

「? 武山も思わせぶりなこと言ってたけど……なんだよ? その歪んだ事情って」

 桜は露骨に顔を引き攣らせる。

「……ま、まぁ、その……あれ! 何でもいいじゃん! それより、あたしに協力して欲しいことがあったら言ってね! 生徒会のメンバーとしてのことはもちろん、元チームメイトのよしみとして練習の手伝いくらいならできると思うから! あははっ!」

 またしても、はぐらかされた。龍示は改めて野球部の『歪んだ事情』とやらが気になる。

「それはありがたいんだけど……まぁ、いいや。言いたくないなら。行けば分かるし」

「変に教えて、やる前からやる気を削ぐようなことはできないもんね」

「! そうだ! 練習の時間聞いてねえ!」

「それなら、あたしがグラウンドを使う部を調べておいてあげる。分かったらメールするね」

「おぉ、ありがとう。おまえは本当に頼りになるなぁ……」

「ふふっ。そうでしょう、そうでしょう。じゃあ、悪いけど(のどか)。あたし帰るね?」

「うん。じゃあね、桜ちゃん」

 桜は手ぶらで来ていたようで、そのままリビングを去り、二人は玄関まで桜を見送った。

 桜が出て行った後、和は隣の龍示を見上げて、

「兄さん、どうして、また野球する気になったの? あれだけ嫌がってたのに……」

 武山と同じことを尋ねられた龍示は、

「……少し青春してみるのもいいかなぁって思っただけだよ。野球はぶっちゃけ二の次って感じだ」

「……もしかして……女?」

「正解だ」

 和のくせにカンがいい。

「女子マネージャーの鷺咲さんって子が可愛くてなぁ……俺が野球部を真っ当な部に立て直して鷺咲さんに褒めてもらうんだ」

 龍示はクフェフェと気味の悪い笑顔を浮かべて妄想の世界にダイブする。

「『藤田君、素敵ですっ! 私のためにここまで頑張ってくれるなんて……私……なんて言ったらいいか……』『いやいやぁ、気にしないでください! 鷺咲さん! 俺は当然のことをしたまでです!』」

「気持ち悪い妄想を口に出さないでよ! ていうか、それを聞かされるアタシの身にもなって!」

 和は叫ぶように言ったが、龍示のピンク色の頭の中までは届かない。

「『藤田君……。私、さっきから胸がおかしいんです……。さっきから……ドキドキが鳴り止まないんです……』『え、えぇ? そ、そうなんですか?』『……た、確かめてください。藤田君……!』『え? ……ど、どうしたんですか? いきなり俺の手なんか握って……』」

 龍示の左手が見えない誰かに引き寄せられるように、何もない前方の空間へと導かれた。

「『さ、鷺咲さん……? い、いきなり何を……ほわぁあ! む、胸に手がぁ!』」

「いやぁああ! 帰ってきて! 帰ってきてよぉお!」

「『ドキドキ……いってますよね?』『ぐへへぇ……。ん? ん~? ちょっと服越しだとよく分かりませんなぁ~……クカカ……』『そ、それならっ! こ、こうして……』」

「ほぁああたぁあああああ!」

「ぐべらっ!?」

 和のアクロバティックなドロップキックが龍示の頭部に炸裂。龍示は吹っ飛んだ拍子に壁に叩きつけられ、ズルズルと壁を引きずりながら床に倒れた。

 龍示は目をパチクリとさせて起き上がり、キョロキョロとして、

「戻ってきた?」

「なんか……幸せな夢を見ていた気がする……」

「アタシは兄のとんでもない醜態を見ていたけどね。トラウマだよ。本当にもう……」

 和はゲンナリとした様子でリビングへと戻っていった。龍示も和の後に続いてリビングへと向かう。

「男って、いつもああいう気持ち悪いこと考えてるの? それとも兄さんだけ?」

「俺を含めた一部の男だけだよ。つーか、その歳で男に幻滅するのは早いぞ。妹よ」

「兄さんが幻滅させてきたんじゃん! 本当……昔はこんな変態じゃなかったのに……」

「変態じゃない分、クソ生意気だっただろ? 昔の俺がこの場にいたら即座にぶっ殺してるね。世の中ナメてんじゃねえって」

 龍示はリビングを抜けて台所の冷蔵庫へ。思わぬ来客のおかげでしばらく飲み損ねたお茶をグラスにそそぐ。

「だね。小六にして中二病患ってたもんね。兄さん」

「まあな。つーか、おまえ今中二じゃん。そういうのないわけ? ノートに変なポエムとか書いたりしてないわけ?」

「ないよ。そんなことしてたら大人になって恥ずかしい思いをするに決まってるじゃん」

 中学二年の割には、しっかりとした妹であった。良い意味で後先を考えることができている。

 龍示はコップに注いだお茶を手に持ちながらリビングのソファへと腰をおろし、来客である桜に用意していた余った茶菓子をつまみながら和と談笑し始める。

「……桜にはそのこと言ってやるなよ? あいつ多分今でもこっそり恥ずかしいポエム書いてんだから」

「……へぇ? 桜ちゃんが……。まぁ、桜ちゃん、乙女っぽいとこあるもんね。てか、なんで兄さんが知ってんの?」

「中三のとき……去年か。あいつのポエムの書かれたメモ帳を教室で拾ったんだよ。同じクラスだったから偶然にな」

拾ったメモ帳にポエムが書いてあるということを龍示が知っているということは、龍示が勝手にメモ帳の中身を見たことを意味する。

「うわぁ……中身見るとか最低じゃん。で? それでそれで? どんなこと書いてあったの?」

 和は興味津津といったように龍示に問い詰めた。中身見るの最低とか言っておきながら自分もちゃっかり中身を知ろうとしている。自分も最低だということには無自覚らしい。

「ん~……詳しくは覚えてないんだけどな。愛とか恋とか女同士の友情が主なテーマだったな。なんつーか……劣化版西野カナみたいな感じ。ちなみにそれを見た俺は笑いすぎて腹筋が崩壊した」

「うっわ~超気になる! アタシにも見せてくれれば良かったのに! コピーは?」

「無えよ」

「兄さん最低! 自分だけ面白いこと独り占めするなんて!」

「他人の秘密のコピーなんて取れるか。悪質だろ?」

「他人の秘密をペラペラ喋った後でそのセリフはないでしょ兄さん。人殺した直後に平和主義を唱えてるようなもんだよ。ジョン・レノンが核弾頭撃ってくるようなもんだよ」

「前者はともかくジョン・レノンの例えに関しては何言いたいのか分かんねえよ……」

 龍示はクッキーをモシャモシャと咀嚼しながら、テレビのリモコンを手に取って適当にチャンネルをまわし始めた。そして、思い出したように和に話を切り出す。

「そうだ。これからもう少ししたらロードワーク行くんだけど、おまえも来るか?」

「えぇ……? この暑い中……?」

 和は顔を歪めて分かりやすくノリ気じゃないというサインを出した。

「嫌ならいいけど。知らねえぞ? ダラダラして太っても」

 龍示の安い挑発に、和の表情がムッと変わる。

「行くよ。行けばいいんでしょ? 言っておくけど、ダラダラしまくってた兄さんよりアタシの方が体力あるかもしれないんだよ? 一応、現役のバスケ部員だし」

「フッ、バスケぇ? そんな軟弱なスポーツやってて体力で俺に勝てるとでも?」

 龍示はバスケというスポーツを全く知らないのをいいことに好き勝手言った。

「つーか、おまえって勝負事で俺に勝ったことってあったっけ? 無いよな?」

 昔は兄妹で競争だのなんだのをすることがちょくちょくあったのだが、龍示の記憶では和に負けたことは一度たりとも無く、和の記憶においてもそれは同じだった。和は勝負事で龍示に勝ったことは無い。だが、

「ふふっ……そんなに言うなら勝負する? 持久走で」

 和は自信たっぷりに挑戦的な笑みを浮かべて龍示に勝負をもちかけた。

「ククク……妹の分際でよく吠えるわ……。もし俺が負けたらリストカットしてやる」

「しないでいいから! その代わり……そうだなぁ……ベタだけどアタシの言うこと何でも聞くってことで。逆にアタシが負けたら兄さんの言うこと何でも一つだけ聞いてあげるよ」

「いや、おまえが負けても俺は何も言わねえよ。大人げないからな」

「じゃあ、川沿いのサイクリングロードで走ろうか」

「了解だ」


***


 二人はそれぞれの部屋で動きやすい運動着に着替えて、歩いて三分程の川沿いのサイクリングロードへと向かった。

 買い物に出かけるときとは違い、トレーニングに励むという目的を持っていると、二人は自然と暑さが気にならなくなっていた。

 二人はそれぞれ体を伸ばしてほぐしていく。二人の準備運動はなんというかサマになっていて、運動部員独特の空気があった。

「ゴールは二つ目の橋まででいいよね?」

 今二人のいるスタート地点から二つ目の橋までは大体四キロ近くある。

「おうよ。つーか、ハンデは?」

「さっきまでの威勢はどうしたのさ……。まぁ、欲しいって言うなら少しはいいけど……」

「ちげえよ! 俺がおまえにハンデやろうかって言ってんの」

「なんだ。アタシは必要ないよ」

 和は軽く笑って答えた。和の顔からは余裕すら感じられる。

「昔は一緒に走ると『兄さん待ってよ~』って泣きながら置いてきぼりくらってたやつが一丁前の口聞くようになりやがって……」

 龍示は自分の知らないところで妹は成長していたのだなと感慨深い気持ちになった。もちろん、自分がこの勝負に負けるとは思えないが。

「勝負だよ……! 兄さん……!」

「フッ、全力でかかってこい。妹よ」

 二人はスタート位置について準備する。

「位置について……」

「よーい……」

「「どん!」」

 二人は地面を蹴って、飛び出した。数年ぶりの兄妹対決の火蓋が切って落とされる。


***


 龍示がアスリートとして復活を遂げ、記念すべき初めての勝負の結果は――――

「ぜはぁっ……ぜはぁっ……ぜひゅっ……! お、おま……速すぎ……! ぜはぁっ……はぁっ……! うぷっ……! ……ぉ……おぇえっ……! ッゲボロロロロロ! オェロロロロ!」

「きゃぁあ! 兄さん! 汚いっ!」

結果は和の圧勝だった。

 ゴール地点では汗をタオルで拭っている和と、青白い顔で四つん這いになって吐瀉物(としゃぶつ)を撒き散らしている龍示の姿があった。

スタートをしてからすぐ、龍示は和のスピードが速かったことに面食らったが、どうせすぐにバテてペースが落ちるだろうとタカをくくっていた。龍示は和のすぐ後ろをピッタリついていくように走って、和のペースが落ちたところで嫌味の一つでも言ってやろうとニヤニヤしながら企んでいたのだが、いくら走っても和のペースは落ちなかった。そうして和のペースに付き合っている内に龍示が先にバテてしまったわけだ。

 和は龍示から十分に距離を取ってから兄を気遣う。

 和の体力は自分で言うだけなかなかのものだったが、龍示の衰えは思った以上に酷い有様だった。成長期とはいえ、三年間もダラダラしていたのだ。常に体を鍛えている和と勝負になるはずもなかった。

「兄さん……大丈夫?」

「ぉえぇっ……! ゴハァっ……! ケホッ……コホッ……! おまえ……気ぃ遣えよ……。兄のペースが落ちたと思ったらおまえもペース落とせバカ……。おかげで俺は……お、俺……おぉえええっ!」

「ごめんごめん。兄さん、水いる?」

「頼む……」

 和は龍示に近づくことはせず、遠くからペットボトルをヒョイと投げて龍示に渡すが、龍示はキャッチできずにガツンとヘディングしてしまった。

「「………………」」

なんというか、いたたまれない絵ヅラだった。

 龍示は地面に転がったペットボトルを拾って水をグビグビと飲む。

「ぷはぁ……ちょっと生き返った……」

「兄さん……衰えすぎ……。初めて兄さんに勝負事で勝ったけど……全然、喜べない……。てか、臭い……」

 龍示はヨロヨロと立ち上がって、

「強うなったな……清盛……」

「冗談言えるくらいには回復したみたいだね。ちょっと安心」

 和はフフッと笑った。

 回復した龍示は自身の()(しゃ)(ぶつ)の不快な臭いから逃れるように場所を移そうと和に提案した。二人は橋の側にある自販機を目指して歩いていく。家から持ってきた飲み物はすでに龍示が飲み干して無くなってしまっている。

「兄さん、アタシの言うこと聞いてくれる約束覚えてる?」

「うぐっ……覚えてるよ。まぁ……なんだ? おまえが初めて俺に勝負事で勝った記念ってことで遠慮無く何でも言うがいいさ」

「じゃあジュース奢って。アクエリアスがいい」

 和はあっけらかんといった感じで言った。

 龍示は目をパチクリとさせた。こういう年頃の女は『気になっていた服がある。買え』とか『新しいバッグが欲しい。買え』とか背伸びしてお高いファッションアイテムをせびってくるかと思っていたのだ。

「……そんなんでいいのか?」

 龍示はそう確認を取るが、

「うんっ。ジュースがいい」

 和は笑顔で答えるのだった。

「分かったよ」

 龍示は和のジュースを買うついでに自分の分の飲み物も購入した。

 和が飲み物を受け取ると、龍示とそろってペットボトルの蓋を開け、中身をグビグビと飲みほしていく。

 運動後のガブ飲みは悪いとされているが、いくら飲んでも気持ちいいものは気持ちいいのだ。冷たい飲み物が二人の乾いた喉を潤していく。

「「ぷはぁ」」

 二人は仕事帰りのおっさんがビールを飲んだ時のように、『たまらない』といった感じの笑顔を浮かべた。飲み物の心地よい冷たさが火照った体の中を伝っていく。

「運動した後の飲み物って、なんでこんなにうまいんだろうな?」

「『頑張ったね』っていうご褒美じゃない?」

「……なかなか面白い考えだ」

 二人はジュースを飲み終えると、

「それ貸せ。一緒に捨てるから」

 龍示は和に手を差し出して空になったペットボトルを受け取ろうとしたが、

「ダーメ」

 和は空のペットボトルを両手でギュッと抱きしめて龍示の手を拒んだ。

「?」

 困惑する龍示に、和はニッと笑って、

「これは、アタシが初めて兄さんに勝った記念なの。トロフィーみたいに部屋に飾っておくんだから」

 どうやら、この空のペットボトルは和にとってのトロフィーらしい。ゴミ同然の空のペットボトルを、和は宝物のように大事に大事に抱きしめる。

「……汚くね?」

「ちゃんと洗うよっ! バカ!」


***


 龍示はあの後、軽い筋力トレーニングと柔軟を行い、和と二人でキャッチボールをしてその日の自己練習を終えた。肩の具合は快調で、キャッチボール程度では違和感は全く無かった。ちょっとくらいなら全力投球しても大丈夫なんじゃないか、とも思ったが、龍示はその衝動を堪えた。

 夕飯を食べ風呂に入り終えると、龍示は湯冷めしない内にリビングで柔軟に励む。

(やっぱちょっと硬くなってるな……)

 といっても、一般的に言えば十分柔らかい部類には入るのだが。

「……?」

ふと視界界の中に淡い小さな光が点滅していることに気付いた。それは龍示の携帯スマートフォンではないが発していたもので、着信、受信を意味している。

 龍示は柔軟を中止し、携帯に手を伸ばし、中を見てみる。

桜からのメールだった。用件は明日の野球部の練習予定。開始時刻は一二時からとなっている。末尾には『頑張って♪』と、ちょっとした応援メッセージ。

(一二時か。補習が終わってすぐだな)

 龍示は携帯をパタンと閉じて再び柔軟に励んだ。風呂上がりということもあって、昼にやった時と比べて体が少し柔らかくなっている。

 柔軟を終え、冷蔵庫のお茶をコップ一杯飲み干すと龍示は自分の部屋へと戻った。

 龍示は明日の準備がしてあるのを確認する。補習の教材、オッケー。野球道具、オッケー。龍示は確認を終えると軽く息をついた。

(いよいよ……だな。待っててください、鷺咲さん……! この俺が必ずや野球部を立て直してみせます……!)

 鷺咲沙希。龍示の頭は彼女の魅力にやられてしまっていた。

 子どものようなあどけない笑顔。甲子園について夢中になって語る表情。勉強が難しくて困った表情。今日、目にした彼女の素敵な表情が龍示の頭に浮かんでくる。

「く、」

 龍示の口から笑い声がこぼれる。沙希のことを考えるだけで、心がフワフワしていく。

「くか、」

 もし彼女と親しくなることができたら。そんなことを考えるとますますウキウキした気持ちになっていく。

「くかき、」

 龍示の笑い声は次第に歯止めが利かなくなっていく。

「くかきけこかかきくけききこかかきくここくけけけこきくかくけけこかくけきかこけききくくくききかきくこくくけくかきくこけくけくきくきこきかかか―――――ッ!!」

 ドンッ!

 龍示の部屋の壁が強く響いた。

『兄さんうるさい!』

 壁越しから和の怒鳴り声。

「……すみません」

 龍示はボソリと謝罪してから、部屋の電気を消し、ベッドの中で寝転がった。それでも楽しい妄想は止まらない。

「ぐひぃ……けけけけ……くかか……鷺咲さ~ん……かひゅっ……」

 龍示は楽しそうに奇声を発しながら自分が眠りにつくのを待った。明日になるまでの時間が長く感じられた。


***


 龍示が補習の教室に入ると、そこには待ち望んだ彼女の姿があった。補習が始まるまでには、まだ、かなりの時間があるのだが、どうやら沙希は早めに来て今日の分の予習をしていたらしい。

「お、おはようございます! 鷺咲さん!」

 龍示はニカッと爽やかさを意識して笑顔を浮かべた。

「あ、おはようございます。藤田君」

 沙希も笑顔で挨拶を返してくれる。龍示は嬉しさの余りの奇声を発しないように堪えた。

「藤田君、今日は荷物が多いんですね?」

 龍示の鞄は昨日のスクールバッグとは違い、大きなエナメルバッグになっていた。

「ふっふっふ。これですか?」

 龍示は得意げな笑みを浮かべて、中身の一つを取り出し、沙希に見せる。

「ジャーン! ポケットティッシュです!」

「え……? は、はい?」

「………………」

 龍示の冗談は見事にスカされた。龍示はすみませんと小声で謝ってから、グローブを取り出して沙希に見せた。

「これ……グローブ……」

「はい。今日から俺も野球部でお世話になります。入部届けはもう出しました」

「ほ、本当に入るんですね……」

 沙希はまだ信じられないといった感じで、間の抜けた顔で龍示を見た。

「藤田君……本当に大丈夫ですか……? 私が言うのも変ですけど……危険……ですよ? 藤田君……整った顔立ちをしていますから……」

「っ!? ほ、本当ですか!?」

 龍示は目を見開いて笑顔を浮かべた。何がどう危険だとか、そういう話はどうでもいい。沙希が自分の顔を整っていると評してくれたのだ。これを喜ばずして何を喜ぶというのか。

「……野球がしたいのなら、他の場所でした方が良いと思います。うちの野球部は……ダメダメですから……」

 沙希は諦めたように笑って言った。

 龍示はそんな沙希の表情に胸が締め付けられる思いをした。この子にこんな寂しい笑顔をさせてはいけない。龍示はそう強く思うと同時に、野球部に入るという自分の選択を間違っていないと再確認した。

「俺は野球がしたいんじゃありません」

「……え?」

「鷺咲さんと一緒に頑張りたいから野球部に入ったんです。野球部、立て直すんでしょう?」

「ぅえ!? そ、それって! あ、あ、も、もも、もしかして……こく、告白……だったりしますか……?」

 沙希は忙しなく目を泳がせて、億劫そうに龍示の顔色を窺った。

「ちが、ちゃげ、違いますよぉ!? 何言ってるんですかはぁあ!? ワケわけんねぇです! 嫌だなぁ! 鷺咲さんったら! 早計なんですから!」

「ごごっご、ごめんなさいっ! 私、すごい失礼なことを! そうですよね! そんなワケないですよね!」

 沙希は頭をブンブンと下げてヘッドバンキングするように謝罪した。そしてすぐに、激しい自己嫌悪に(さいな)まれる。

「うわぁ……私自意識過剰だぁ……めちゃくちゃ恥ずかしいバカじゃないですか……。藤田君に顔を合わせ辛いです……」

「気にしてませんから! 俺の方こそ、鷺咲さんに気があるみたいな言い方したのも事実ですから。鷺咲さんが恥ずかしい思いをするのはお門違いです」

「うぅ……ありがとうございます……」

 沙希はペコリと龍示に礼を言った。

沙希の仕草はいちいち可愛くて、龍示はドギマギしないように気を張った。

「俺が鷺咲さんと頑張りたいって言ったのは、鷺咲さんが俺の同志だと思ったからです」

「……同志……ですか……?」

 沙希はキョトンと首を傾げてオウム返しで龍示に尋ねた。

「『甲子園』ですよ」

「あ……」

「言ってましたよね? 自分の学校の野球部が甲子園に行けたらって。俺、それに感激しちゃって……その夢を一緒に見てみたいなって……そんな風に思っちゃったんですよ。こういう夢を持った人と甲子園に行けたら、すっごい素敵だなって思ったんですよ。そんな具合で、一度消えた野球への熱がまた出てきちゃったんです」

 『嘘だけどな』と龍示は心の中で付け足した。もちろん、沙希が喜ぶ姿は見てみたいが、甲子園に行くのは無理だ。この学校の野球部は練習などしていない上に、他の学校は優秀な選手が集まって死ぬほどの練習を重ねているのだ。仮に野球部を立て直して皆で練習に励んだとしたって、そういう連中に試合で勝てるとは到底思えない。

「藤田君……」

「だから、この学校の野球部じゃないと意味が無いんですよ。分かってくれましたか?」

「う……うぅ……」

 突然、沙希の目が涙で滲みだした。

「えっ!? ぉえ!?」

 龍示は『なんか地雷踏んだ!?』と、沙希の突然の涙にひどく狼狽した。原因が全然分からない。沙希の気持ちが全然分からない。

『馬鹿にしないでください! 内心、無理だって分かってるくせに!』

『人の気も知らないでキレイごと並べないでください!』

 そんな自分を責める沙希の言葉が、龍示の頭の中で木霊した。

 沙希はゆっくりと口を開いて言う。

「嬉しいです……藤田君……!」

「は?」

 龍示は沙希から出てきた言葉の意味が分からず、素っ頓狂な声を上げた。

「今まで、私が甲子園に行きたいっていう夢を口にすると、全員に笑われてきました。『無理に決まってるだろ』とか『最近興味持ったばっかりのくせに何を言ってるんだ』とか、皆、顔がそう口にするんです。藤田君みたいに、私の夢を受け止めてくれた人は初めてなんです。受け止めるだけじゃない……応援してくれるだけじゃない……一緒に頑張ろうって言って夢を共有までしてくれました……! それがすっごく嬉しくて……感激してしまいました……!」

「……!」

 龍示の心が鈍く痛んだ。

 嘘だよ。

 心の中は君の言う皆とほとんど一緒だ。

 こんな薄っぺらい上辺だけの言葉に、そんな真摯で切実な言葉を返してくれるな。

 そんな簡単に人を信じたら駄目だ。

 勝手な期待をするんじゃない。

「藤田君……?」

 急にしんみりと黙りこんでしまった龍示の顔を沙希が心配そうに窺ってきた。

「…………っ」

 そんな期待をされてしまったら応えなくてはいけないじゃないか。

 自分は君と仲良くなれればそれで良かったのに。

 これから、死ぬ気で頑張らなくてはいけないじゃないか。

「…………そう言ってもらえて俺も嬉しいです。その言葉が聞けただけでも野球部に入った甲斐がありました。ははっ」

「私も……嬉しいです。一緒に頑張りましょうね?」

「はい。これからよろしくお願いします」


***


「早いけど、今日はこの辺にしておくか」

 武山が時計をチラリと見てから、そう告げた。

 時刻は一一時半前。

「? いいんですか? 片た……武山先生」

「一二時から部活なんだろ? 何か腹に入れておく時間も欲しいんじゃないのか?」

 龍示と沙希は武山の気配りに礼を言った。

「それにしても、おまえが野球部ねぇ……」

 武山は改めてといった感じで龍示の顔をジロジロと見る。

「先生、私達、甲子園を目指すんですよ」

 沙希は先ほどの龍示との会話で気を良くしたのか、武山に夢の話題を持ち出した。

「無理だな」

「うぅ……そんな即答しなくたっていいじゃないですかぁ……」

「あんな野球部が甲子園行ったら奇跡というより理不尽の域だ。他所の真面目な高校球児に対する冒涜だ」

 武山は『もっとも……』と続けて、

「こいつがピッチャーだったら分からないけどな」

 武山先生は意味ありげに龍示の顔をニタニタと見て言った。

「? 藤田君が……ですか?」

「知らないのか? 鷺咲、こいつは「余計なこと言うともう片方も潰すぞ」なんでもない」

 武山先生は言いかけて龍示の物騒な脅迫に屈して取り消した。

「そんな……気になります。もしかして、藤田君って、すごいピッチャーだったんですか?」

 沙希は龍示に興味津々な視線を向けて尋ねた。

 龍示は美少女である沙希から好奇の視線を向けられてデレデレとしてしまう。

「いやぁ~そんなことないですよ。せいぜい中の上くらいのレベルって感じ~みたいな感じ~みたいな。グヘヘヘ……」

「そうなんですか……?」

 武山の言い方とは食い違っている。だが、どちらにしても龍示はもうピッチャーはできないという話なので考えても仕方の無いことだ。

「じゃあ、藤田君ってバッターとしてはどんな感じだったんですか?」

「「です(だな)」」

 龍示と武山先生がハモって答えた。

リトルリーグのレベルで並ということだから、高校レベルではどう考えても通用しそうにない。

「そうなんですか。もしかしたら藤田君ってすごい人なのかなって思っちゃったから……ちょっと残念です」

(ガーン!)

 龍示は沙希に失望された気がしてショックを受けた。が、ただちに取り繕う。

「だ、大丈夫ですよ! 実は俺、ピッチャーの他にバッターとして隠された取柄があるんですから!」

「? やっぱり藤田君ってすごい人なんですか?」

「えぇそうですとも! これに関しては全国レベル……いえ、プロ……いえ、メジャーリーグでも通用するといっても過言ではありません!」

「初耳だぞ」

 武山先生は冷静にツッコんだ。

「ふっふっふ。俺のこの必殺技の前ではランディ・ジョンソンもハルク・ホーガンも赤子同然でしょうね。ハハッ」

「ハルク・ホーガンはプロレスラーだ。それも昭和の」

「すごいすごい! 必殺技って! なんかマンガみたいでカッコいいです!」

「そうでしょうそうでしょう!」

「それでそれで? それってどんな必殺技なんですか?」

「………………」

 龍示は急に無言になった。そして、

「………………」

「なんでこっちを見るんだよ? 俺はそんなん知らないんだから」

 武山に無言の助けを求めたが、あっさりと突き放されてしまう。沙希の顔が胡散臭そうになそれになってしまう前に、

「ひ・み・つ……です♪」

 龍示は茶目っ気を利かせた顔(見ていてぶっ殺したくなる)で、誤魔化すように言った。

「えぇっと……」

 沙希は困ったように笑って、

「期待……してますね?」

「は、はい! 任せてください!」

 武山は呆れたように笑って、

「じゃあ、俺はもう職員室に行くから。それから龍示」

「? なんだ……ですか?」

「気をつけろよ……?」

 武山は念を押すように意味深な言葉を残して教室を去っていった。

「………………」

 龍示は武山の言葉の真意は分からなかったが、きっと『歪んだ事情』に絡んだことなのだと推測した。しかし、龍示にとってそんなことは今、どうでもいい。

「鷺咲さん。俺、学校来る前にパン買ってきたんですよ。もし良かったら一緒に食べませんか? せっかく片玉……武山先生が時間を作ってくれたみたいですし」

「いいですね。私も買ってきたので一緒に食べましょう」

 沙希は嫌な顔一つせず、ニッコリと笑って龍示の誘いを受け入れた。

「よっしゃぁああ! ありがとうございます!」

「そんな……大げさですよ。ふふふっ」

 こうして龍示は沙希と嬉し恥ずかしの充実した短いランチタイムを過ごすのだった。

 龍示のこの幸せの代償は、この後すぐにやってくるのだが。


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