六日目、壱
時計を見ると二十四時を回ったところだった。
ヒロトが持ってきた差し入れという名の食材で作った質素な夕食は大半がユキの胃袋に収まる形で終了。そのユキの食べる量とこの家に食料が全く無いことに驚いたヒロトが
「何か買ってくる! 任せろ!」
と笑顔で飛び出して行ってから一時間が経とうとしていた。
「……遅いね、ヒロト」
ユキは読んでいた本から顔を上げ、不安げな顔で呟いた。
初対面時は警戒心むき出しの猫と構いたがる人間のようだった二人も、一緒に夕食を作り食べる頃にはかなり打ち解けていた。少なくとも、二人一緒になってヤオをからかって遊ぶ位には。
「……そうだな」
「迎えに行かなくて平気かな?」
「そうだな……ま、ここらも治安が良くはないからな」
言いながら立ち上がる。面倒事には首を突っ込みたくないが、経緯はどうあれ一応兄から預かった弟を放っておく訳にはいかない。そう思いつつも。
「めんどくせぇなあ」
本音が零れ落ちた。
「ヤオ無責任」
「……押し付けてきたんだろうが」
反論してみたものの、ユキの正論がなけなしの良心をちくちくと刺す。
「しゃあねえ。行くか」
「僕も行って良い?」
最初に『外には絶対出さない』と言ったことを随分真に受け守っているらしい。ヤオは頭をかくと、続いてユキの頭を無造作に撫でた。
「置いてくわけにもいかねえだろ」
「……うん!」
ユキの嬉しそうな笑顔を見て、ヤオは思わず苦笑した。
そして約十分後。その様子を見たヤオは無意識の内にやっぱり……と呟いていた。
「な、金は出すって」
「やから俺男やって!」
「幾ら欲しいんだ?」
「話きーて!」
ものの見事に絡まれてる。そして遠目からでもわかる程、絡んでいる男二人は酔っている。その様を眺めながらヤオは段々と目の前の光景に苛立ち始めていた。
殴るなり蹴るなりして逃げれば良いだろうが!
近づきながらそう言おうとした時だった。
「おーいそれくらいにしといてやれ」
不意に全く違う方向から声がした。消えかけの街灯の下に姿を現したのは、一人の大柄な男。
「ヒサメさん!」
「あいつ何でここに!?」
ヒロトとヤオが同時に叫ぶ。だがその表情は対極的なものだった。一方。
「ヒッヒサメ……!?」
男達はヒサメに怯えていた。完全に腰が引けている。
ヤオはあいつら何したんだ、などと思いつつ、声をかけず傍観を決め込んだ。
ヒサメが男達に近づく。
「誰かと思えば第弐地区の。いつ第肆地区に来たんだ?」
「今日です……火事で住んでたとこが焼けちまったもんで」
「ああ、そういや第弐地区で結構な火災があったんだってな。死人も出たとか。お前らは無傷だったのか」
「はい、お蔭様で……」
「そうかそうかそれは良かった。それじゃあ……」
一旦そこで言葉を切ると、長身のヒサメはぐっと男達に顔を寄せて。
「せっかく無事だった命は大切にしねえと。なあ?」
ヤオが見たことのない類の笑顔でそう告げた。
「はいぃっ! すんませんでしたあああ!」
男達はそう叫びながら遠くの闇の中へ消えていった。恐怖が限界値に達したようだった。
「大丈夫か」
逃げた男達には一切興味がないらしく、ヒサメはヒロトを振り返る。
「あ……はい!」
途中から完全に置いていかれていたヒロトはほっとしたようにヒサメに走りよった。
ヒロトが電灯の下に出たことで、ヤオは彼の持つ袋に“baroque”の文字を見た。なるほど、と呟く。
「お前“baroque”に行ってたのか」
「ヤオ兄!」
涙目だったヒロトの顔がぱっと輝いた。犬か、とヤオは内心つっこむ。
「ここらでこんな時間まで開いてるのはうち位だろう」
ヒサメが笑いながら答えた。
「それもそうか。……と、言うか」
一旦言葉を切り、男達が逃げていった方を見ながら。
「お前一体何してんだ普段」
「んー? まあ、やりやすいように色々と、な。というかお前ら知り合いだったのか」
「知り合いの弟だよ」
「微妙に遠いな……」
「本当にありがとうございます!」
「あぁ、いやいや」
「ばろっく?」
終始無言だったユキが、控えめにヤオの服を掴みながら首を傾げた。
「ああ、そういやお前は知らないか。“baroque”ってのはこのヒサメっつー男のやってる飲食店で、」
「明日は槍でも降るのか」
「そう槍が……は?」
思わずヒサメを振り返ると、彼の目はユキを凝視していた。その視線を追ってユキを見れば、ユキは明らかにヒサメに怯えていた。
「あんま見んな。こいつ人見知りらしいから」
何となくユキを庇いつつそう言うと、ヒサメの視線はヤオに移り。一瞬のあと、にやりと笑った。
「誰との子だ? お前にそんな甲斐性があったなんて知らなかったなあ」
「えっ、ユキってヤオ兄の子なの」
「んなわけねえだろちょっと黙ってろ」
ヤオは大きく溜息を吐くと、ヒロトの手から荷物を半ば奪うように受け取って。
「お子様は寝る時間だからな」
ヒサメにそう言うと、踵を返し歩き始めた。
「僕お子様じゃないよ!」
「ちょ、待ってヤオ兄!」
慌てて追いかける二人。
「今度三人でうち来いよ!」
そんな声が飛んできて、ヤオは振り返ることなくひらひらと手を振って見せた。