五日目、壱
目を覚まして起き上がると、身体中が悲鳴を上げた。
草臥れきった長椅子で寝たのは流石にまずかったかなどと思いながら寝台に目をやると、ユキが丸くなって眠っていた。直前まで狐の面を触っていたらしく、面の位置が変わっている。
逃げていないことに安堵しつつ面を取り上げた。ふと思いつき、ユキの身体の上に布団をかけてやる。実は寒かったようで、ユキはもぞもぞと布団の中に潜り込むと、また静かになった。
その様子を見ながらなぜか小さな満足感のようなものを覚え、ヤオは慌てた。
拾った子犬に情が湧くってまさかそんな……。
そんなそんなと呟きつつ、冷蔵庫から水を取り出し一気に呷る。
息を整えていると、通話端末が着信を告げはじめた。画面を見、考えるより先に舌打ちが出た。画面に浮かぶのは情報屋の文字。しかめっ面で【通話】を押して。
「ナツメお前ふざけんなよ」
通話を始めると同時にそう言ったヤオに、通話相手は軽く笑った。
『何、えらい不機嫌やな。何かあったんか?』
「何かあったのかじゃねえよ」
そこで一旦言葉を切り、盛大に息を吐き出した。意味がないとわかっているものの、大声で話したい内容ではないため声を潜める。
「お前が寄越した情報、間違ってたんだけど」
『…………へ?』
案の定、な返答。
「あの情報の通り、最上階の部屋に木箱があった。それ盗んで逃げた。だが入ってたのは妖精じゃなくて……」
明言せず溜息を吐いた。
『んな阿呆な。ちょ、ちょい待ち』
その言葉に続いて、ばさばさと大量の紙を捲る音が聞こえた。電子端末が主流の現代、これほど紙に頼る者は珍しく……最早変人と言っても過言ではない。
『……あぁ、あったあった。聞いとる?』
「聞いてる早くしてくれ」
『やっぱ情報は間違ってないで。昨日の情報も手に入れとってんけど、きっちり妖精は消えとる』
「……どういうことだよそれ」
『調べたんナタクやからあいつに訊くんが一番やけど……今丁度出てもらっとんねんよな』
「ああ、そう言えば……」
家から全く出ないナツメの代わりに現地調査を行う助手を新たに雇ったと前に聞いたような。
『あいつが帰ってきたらまた連絡するわ』
「了解……急かしてもらえると助かるな」
『はいよー』
ヤオは電子音の鳴る端末を耳から離して、長椅子に座り込んだ。
暫く空を見つめていたが、ふと思い立ち、動画端末の電源を入れた。
『――時頃、第弐地区で大規模な火災がありました』
流れてきたのは報道番組だった。淡々と原稿を読み上げる報道人の後ろに、荒い画像の現場写真が映し出されている。
第弐地区といえば、ヤオのいる第肆地区と中心街を挟んで真向かいにある。続いて流れた動画を見る限りかなり大規模な火災だったようだが、地区が離れているためその様子はヤオの元まで全く届いてきていない。
そういえば、とヤオは記憶を手繰る。
地下で火災なんて、初めて聞いた。
全ての街の情報を把握しているわけではないが、地上で生きていた頃よりも物資の入手がずっと困難なこの地下で、人類が最も恐れているのはやはりその物資の損失だろう。
海や河などの大きな水溜りがない以上水害は起こり得ないが、火を使う限り火災からはどうしても逃れられない。この二十年で燃えにくい物質、燃えない物質の開発は大きく進んでいたはずだ。
――まるであの頃のようだ。
流れ続ける火災現場の動画を眺めていたが、そう思うのと同時に頭痛を覚えて目を閉じた。
心的外傷。できるだけ考えない様にしていた言葉が浮かび、苦笑する。
瞼の裏で蠢く赤い炎を振り切るように、ヤオは目を開けた。動画端末の電源を消し、寝台を振り返る。その上では相変わらずユキが布団を鼻の上まで引き上げて眠っていた。
一度だけ深呼吸すると、声をかけながら掛け布団を引っぺがした。
「お客扱いする気はねえぞ」
ばさっと大きな音をたてて布団が舞い上がる。そして目を閉じたままのユキの上に被さった。掠れた非難の声が上がる。
「酷い……」
「酷くない。お前自分が人質だってわかってんのか?」
「人質?」
寝台の上に胡坐をかいたユキがきょとんとした顔でヤオを見上げた。
「何か要求するの?」
「それは……しないけど」
「……人質?」
「ひ……とじち!」
「お腹空いたよヤオ」
「……人の話は聞け」
自由奔放なユキに呆れながらも、ヤオは台所に向かう。
どうせ食べさせなければならないし、自分だって食べなければやっていられない。
だが約十分捜索した結果見つかったのはいつしまったのかも覚えていない焼き菓子が一袋だけだった。それでも、ユキの目が輝いたのをヤオは見逃さなかった。
「お前これ欲しい?」
「欲しい!」
「うりゃっ」
「!?」
十歳のユキの身長はヤオの腰の上辺りまでしかない。ヤオは立ち上がるとそのまま腕を伸ばして、焼き菓子の袋を目一杯上に持ち上げた。
「何、」
「食べたかったら俺の質問に答えなさい」
「答えるから先にちょうだいよー」
「お断りする」
ユキは腕を伸ばしてぴょんぴょん跳ぶものの、到底届きそうにない。ヤオは優越感に浸りつつユキのつむじを見下ろした。大人気ないという言葉は、ヤオの辞書には存在しない。
「昨日も言ったけど俺は妖精を盗むつもりだった。情報は間違ってなかったはずなのに、あの木箱の中にあったのはお前。妖精はどこにある?」
「知らないよ。こんな子どもに言うと思う?」
「こんな子どもをありとあらゆる雑誌に載せてる会長ならありえるかと思ってな」
「うーん……」
飛び跳ねるのに疲れたらしいユキは唸りながら床に座った。少し考える素振りをした後ヤオを見上げる。
「去年見せてもらった時にはヤオが入った部屋に飾ってあったよ。硝子の箱の中で、木箱には入ってなかったけど……あの部屋からどこに移したのかはわかんない」
「そう」
予測の範囲内だった。そもそもユキが重大な事実を握っているとは最初から思っていない。ただ、何となく訊いただけだった。
「お前は何か知ってるのか」
と。
「んー?」
だがヤオのその言葉に、ユキは受け取った焼き菓子を齧りながら顔を上げた。その表情が十歳の子どものそれとはかけ離れたものに見えて、ヤオは眉を顰める。
「なーいしょ。内緒だよ」
ユキはそう言って、大人びた顔で笑った。
そしてその僅か数分後。
「唯一の食料が……」
見事空っぽになった焼き菓子の袋を弄びながらヤオが疲れた声で呟いていた。袋一杯に詰まっていた焼き菓子を、ユキは文字通り一瞬で平らげたのだ。ヤオの口に入ったのは二個だけだった。
ええいナツメはまだかと通話端末を睨む。大量の紙をばさばさ言わせながら電話片手に部屋を歩き回っている情報屋の姿が浮かび、思わず頭を振った。
ヤオは端末を睨んだまま、焼き菓子の袋を適当に丸めると後ろ手に放り投げる。それと重なるように鳴ったのは着信を告げる電子音ではなく、部屋の扉を叩く音だった。
「……」
「ヤオ……」
不安げなユキの頭をぽんと撫で、できるだけ気配を消しつつ扉に近づく。安い木製の扉に覗き穴など洒落たものはない。できるだけ意識を集中させて向こうの気配を探ろうとして、信じられないものを見た。
鍵が、開いて、る……?
閉めたはずなのになんでだと混乱しつつ、とりあえず閉めなければと思い至る。この扉の鍵が開閉時大きな音をたてるのだ。そろそろと手を伸ばして鍵の取っ手を掴む。そしてゆっくり回そうと意識を完全に鍵に向けた時。
「あれ、もしかして開いてんのか?」
扉の向こうでそんな声がして。
「えっ」
「ヤオ!」
「あ?」
ごっ
三人の声と、一つの音が重なった。