5.現実へ
――『あの日』からおそらく、一ヶ月くらい前の記憶。
一時期は夢のことで不安定だった縁だったが、どうやら最近は逆に夢でゲームをするのが面白いらしく、楽しそうに話すことが多くなっていた。
今日も縁は窓から身を乗り出さんばかりの勢いで、俺に昨夜の夢での話をしていた。
『昨夜はね、すごかったんだよ! 一気に十二人も人が集まって、一緒に巨大なモンスターを倒してね!』
『それは……確かにすごそうだな』
大人数でモンスターに挑んだのも凄いのだろうが、俺はそれより一ダースもの大人数が、横一列に並んで延々とテレビ画面に向かってゲームをする光景を思い浮かべた。
ある意味壮観とは言えるかもしれないが、シュール過ぎる……。
おかしな映像を頭を振って追い出して、俺は縁に尋ねた。
『あ、そういえば。もし夢の中で本当に他人とゲームをやってるなら、現実の世界にもその人たちがいるってことだよな?』
『そうだけど?』
あっさり答える縁。
『だったら、現実で連絡取り合ったりってことはないのか?
ほら、連絡先交換するのが怖いならさ、例えばネットの掲示板とか使って……』
ああ、という風に縁がうなずいて、ちょっとだけばつの悪そうな顔をした。
『あー、うん。他の人に話を聞くまでは、そういうことしようかなって思ったこともあったんだけど……』
『何か問題があるのか?』
俺が尋ねると、何とも微妙な顔で縁は答えた。
『わたしはこうやって光一に話してるし、全然問題ないんだけどね。
だけど普通は――』
一夜明けて。
朝は三人の時間が微妙に合わないこともあり、朝食を取る習慣はあまりないのだが、今朝は俺が起きると既に結芽がばっちりと朝ご飯を用意していた。
三人そろっての食事を取り終わり、三人の中で一番出発の早い妹を台所から追い出して、ざっと後片付けをする。
手早く洗い物を片付けた俺がリビングに戻ってみると、諒子さんが一人、ソファでぐてっと寝そべっていた。
――未森諒子。
この家の家主で俺と結芽の保護者。
年齢不詳。ショートカットで黒髪。凛々しい顔立ち。……胸が大きい。
大きな病気のせいで高校に通えなかったが、奇跡的に回復。
大検を受けて今は大学に通っているが、人付き合いは苦手。
ただし勉強はものすごく出来るらしい。
俺と結芽以外には家族や親戚と呼べる者はおらず、天涯孤独。
そこそこに膨大だったという両親の遺産を受け継いで、そのお金で俺たちを養っている。
というのが諒子さんの自己申告によるプロフィールだが、確かめたことはない。
というか、物心ついた頃から一緒に住んでいるというのに、年齢すら分からないというのはどうなのだろうか。
今年の諒子さんの誕生日も、結芽と二人で準備してちゃんと誕生会までやったのに、諒子さんは頑として自分の年を教えてはくれなかった。
家でお酒を飲んだりしているし、二十歳は越えているとは思うのだが。
その二十歳越えの諒子さんがごろんと動く度、だるっだるのTシャツの胸元が揺れる。
というか絶対ノーブラだろこの人、とか思いながら、俺は諒子さんに声をかけた。
「諒子さん、俺もう行っちゃいますから、そんなとこで寝られても起こせませんよ?」
その言葉に、諒子さんは「んー?」と明らかに寝ぼけた感じの声を出してから、ソファから一歩も動かずに答えた。
「あぁ、大丈夫。午後からはバイトだし、今日は大学をサボってもう少し寝るよ」
「いやそれ、全然大丈夫じゃないですから!!」
基本的には諒子さんは比較的勤勉な大学生だが、家族絡みのイベントがあると必ずそちらを優先した挙句、体力を使いすぎて次の日大学を休みたがる。
俺の剣幕に、
「ふふ、冗談だよ」
と諒子さんは笑ったが、正直俺の見立てでは8:2くらいという所だ。
もちろん8割の方が大学をサボってバイトに行く確率。そして2割が大学をサボってバイトもサボる確率だ。
……既に大学に行かないことは確定していた。
「本当に、寝ないでくださいね」
無駄と知りつつも一応そう声をかけて、その場を離れる。
「行ってらっしゃい光一君。結芽を頼んだよ」
結局ソファから一度も離れないままの諒子さんの声に見送られ、俺は諒子さんの前途に不安を覚えながらも、登校の準備をするのだった。
何で諒子さんに結芽のことを頼むなんて言われたのか不思議だったのだが、支度を整えて玄関までやってきた途端、その謎は即座に氷解した。
「き、奇遇だね、お兄ちゃん。わたしもちょうど学校に行くとこだったんだ」
玄関の前には、先に行ったはずの結芽がちゃっかりと待ち構えていた。
「いや、奇遇って、お前……」
いくら何でも苦しすぎる言い訳だった。
「それに、時間大丈夫なのか?」
「……あっ!」
俺の問いに、結芽が泣きそうな顔になる。
結芽の通っている中学は俺の通う高校より若干遠いため、俺と時間を合わせると随分とギリギリになってしまうのだ。
結芽はしきりに前髪を、正確に言えば、前髪に留めてある髪留めをいじりながらオロオロとしている。
そうやって髪留めをいじるのは、本当に困った時の結芽の癖だ。
……ちなみに、その髪留めも昔、俺があげたものだったりするんだが。
だがまあこうなっては仕方がない。
俺はため息をつくと、
「駅まで走るぞ、結芽」
そう声をかけて、先に立って走り出した。
「う、うん! お兄ちゃん!」
それを聞いて、なぜか嬉しそうに俺の横を走り出す結芽。
実際に俺の左隣を並走する結芽は、全身から嬉しいという感情をダダ漏れにしていた。
それを横目に、もう一度こっそりため息をつく。
今度のため息は、自分自身に対してだ。
もう一度、ちらりと横を見る。
遅刻しそうになって走っているというのに、結芽は幸せそうにしていた。
ちょっとうぬぼれた台詞になるが、こんなに素直に兄を慕う妹を遠ざけようだなんて、俺はどうかしていた。
(たぶん、気を回しすぎなんだよな、俺は……)
考えすぎるのが、俺の悪い所だ。
踏み込んでみて初めて分かることだってあるというのに。
(踏み込む、か)
そういえば、このまま学校に行けば、クラスには俺の夢に出て来た少女、四方坂がいる。
(ちょっとだけ、踏み込んでみようか)
俺はそんな密かな決意を固めながら、妹と二人、駅への道を急いだのだった。
俺の所属する2年A組で一番有名な生徒と言えば、間違いなく四方坂ナキの名があげられる。
まずもう格好からして他と違う。
病的な寒がりで、真夏でもニット帽にマフラーにロングコートの完全装備。
担任の説明では『特別な病気みたいなもの』らしいということで教師もスルーしているが、病気『みたいなもの』という説明が既に胡散臭さ爆発である。
おまけにしゃべらない。
教師に当てられても、無言で首を振るだけ。体育の授業は必ず見学。
でもテストの成績は良く、いつも学年で10位以内。
しゃべらないのは授業だけでなく、休み時間も同様で、友達やクラスメイトと話している所をほとんど見たことがない。
前に隣の席にいた男子が三ヶ月で聞いた彼女の唯一の肉声が、「寒い」の一言だったというのだから、これはまた相当だ。
なのに美人。
マフラーとニット帽を外さないため、露出している顔のパーツは少ないのだが、それだけでも十分に美人だと分かるレベルの美人。
噂ではその美貌に引かれて告白した男子もいるとかいないとか。
それについては、嘘か真か、返事がどうこう言う前に告白自体をスルーしたという逸話まで残っている。
そんな所から、クラス内でのあだ名は『ブリザード』。
あるいはマンガか何かのキャラ名から、『氷結の魔女』なんて呼ばれたりもしているらしい。
で、あるからして、
(そんな人間に話しかけるなんて無理、だよなぁ……)
朝、密かに決意を固めたはずの俺は、放課後間近になっても四方坂に声がかけられないでいた。
最後の授業が終わってから、担任が来るまでの自由時間。
俺は勇気を出して、彼女から2メートルほどの距離にまでは近付いてみたのだ。
だが、声をかけるきっかけが掴めない。
というか、今思ったのだが、
『やー、実は昨日の夢に君が出て来てさぁ……』
思いっきりナンパの台詞だった。
本当にあったかも分からない夢の話を口実に、女の子を口説こうとしている変な奴だった。
(ま、まあ妙にリアルな夢だったけど、別に俺の見た夢が四方坂と関係あるはずないんだし……)
話しかけたりしなくてもいいや、と自己完結しようとした時だった。
(……え?)
今まで彫像のようにじっと正面を見て動かなかった四方坂が、横を、俺の方を向いた。
そして、
「…………なに?」
しゃべった!!
いや、人間なんだからしゃべるのは当たり前だが、四方坂の肉声を聞いたのは初めてだったので、俺はえらくテンションが上がった。
しかも、その声が確かに俺に向けられたというのがなぜだか誇らしかった。
もうこうなればと覚悟を決め、話しかける。
「き、昨日、変な夢を見たんだけど、その夢に四方坂が出て来たから、ちょっと気になったんだ」
やっぱり完全にナンパの台詞だったが、気にしない。
じっと四方坂だけを見つめる。
「…ゆ、め?」
小さな言葉と共に、彼女の無表情がほんの少しだけ揺れた。
その反応が嬉しくて、俺はさらに身を乗り出すようにして話を続けて、
「そう! おかしいんだけどな。
その夢では四方坂が銀色の髪にとがった耳をしてて、まるでエル――」
けれど、最後まで言葉を続けることは出来なかった。
――パシン!!
という乾いた音が耳元で破裂して、俺は文字通り言葉を失った。
いつの間にか立ち上がった四方坂に、俺が平手打ちをされたのだと気付いたのは、さっきまで喧騒に包まれていた教室が、水を打ったように静まり返ってからだった。
打たれた頬を押さえることも出来ず、呆然とする俺に、
「あなたがどういうつもりかは、知らない」
静かな迫力を湛え、四方坂が詰め寄ってくる。
その迫力に押されたように、窓ガラスがピシピシと音を立てる。
「でも、それ以上話すつもりなら――」
四方坂と俺以外が凍りついたように静止した教室で、一歩、二歩と後ずさる俺を、彼女は視線だけで追い詰めて、
「――あなたを、殺すから」
決定的な一言を放つ。
そのあまりの迫力に、俺はヒュッと息を飲んだ。
俺は最後の気力で、俺が話しかけたはずのクラスメイトの姿を見る。
だがそこにいたのはもう、何をしても無感動な、謎めいた少女なんかではなかった。
――あらん限りの呪いを込めて敵をにらみつける、傷つけられた猛獣のごとき存在が、俺の前には立っていたのだった。