41.電子の海から
『――おはよう』
光が射したみたいな明るい声に振り返ると、そこには俺と同じ高校の制服に身を包んだ縁がいた。
『お、はよう』
そんな縁の姿になぜか見惚れてしまって、俺はどもらずに返事をするのがやっとだった。
それを見て、縁の笑顔は一層輝く。
『ん、光一のその反応を見るに、わたしは自信を持ってもいいのかな。
ほらほら、スカートひらひらー』
縁が制服のスカートの裾を掴んでぴらぴらとめくる。
実際にめくれているのはほんの1、2センチで、そのくらいどうということはないはずなのだが、なぜだか俺の視線はそこに吸い寄せられそうになった。
『……勝手にやってろよ』
俺は全身の意志力を総動員してそこから無理矢理視線を引きはがし、どう聞いても負け惜しみにしか聞こえないような台詞を吐くと、縁の笑顔は更に深まった。
『あれ? 冗談だったんだけど、本当にまんざらでもなかったり?』
『馬鹿なこと言ってないで、さっさと行くぞ』
俺の前に回り込んで顔を覗き込もうとする縁を振り切って、俺は早足で歩き出した。
『あ、ちょっと待ってよ、光一。
もう一個、言っとかないといけないことがあるから!』
『何だよ、これ以上からかうつもりなら……』
後ろを向いて顔を見合わせて、初めて縁の笑顔が上気したように赤くなっているのに気付いた。
『あ、のさ』
数秒前とは打って変わって小さな声。
単に初登校に浮かれているだけとも思えないゆだった顔で、縁は続ける。
『――制服、似合ってると思う。かっこいい』
息が、止まった。
どくんどくんと心臓が脈打って、耳に飛び込んだ言葉が信じられなかった。
それでも固まっていたのは、ほんの数瞬。
熱くなって、空回りし始める脳を意識しながらも、俺は何とか言葉を返した。
『……お前もな』
口から出たのは、笑ってしまうくらいに不器用な言葉だった。
だが、
『……ありがと』
縁は嬉しそうに小さく答えると、小走りで俺の横に並ぶ。
『本当は、わたしはかっこいいよりかわいいのがいいんだけどなー』
とおどけ、やたらと鞄を振り回す縁を引き連れて、これから三年間通うはずの道を進む。
その三年がどんな風になろうとも、この道をずっと縁と一緒に歩いていこうと、そう決めて。
――それは『あの日』よりもずっと前。高校一年の春の出来事だった。
「今、何て言ったんだ?」
結芽の言葉を聞いた途端、息が止まった。
どくんどくんと心臓が脈打って、耳に飛び込んだ言葉が信じられない。
いや、信じたくないと思った。
だが無情にも、現実はそんな逃避を俺に許さない。
「だから、結芽はそんな人、知らないよ。
あさぎり、ゆかりさんってことは、女の人だよね?
お兄ちゃんの、知り合い?」
不安そうに髪留めをひっかきながら、結芽が逆に尋ねてくる。
目の前が真っ暗になったような感覚を味わいながらも、俺は努めて平静に言葉を返す。
「知り合い、って、言うか。
ずっと隣の家に住んでた女の子で、俺の家にも、何度も遊びに来てた……はずなんだが、本当に、覚えてないのか?」
それでもほんの少し、最後は詰問するような口調になった。
それを受けて、結芽は困ったように首を傾げた。
「ん、っと。そもそも、うちの近所に朝霧さんなんて家はないし、少なくとも結芽がこの家に来てからは、その、縁お姉ちゃん、って人は、家に来たりはしてないと思うけど」
縁の存在を全面否定する結芽の言動だったが、それは逆に俺を少しだけ冷静にさせた。
(結芽がこの家に来たのは、一年と少し前。
だったら、その時既に縁はいなくなってたんじゃないか?)
思い至ったのは、そんな可能性だ。
だとしたら、結芽が縁を知らなくても合点がいく。
断片的に残る縁の記憶を探ってみても、縁と結芽が同時に存在していた記憶はなかったように思える。
(そうだ。それだけのことなんだ。
だから他の人……例えば諒子さんなら、きっと、いや絶対に覚えているはず)
そう考えたら、いてもたってもいられなくなった。
「ちょっと、諒子さんにも聞いてくる」
身勝手だとは思いつつも、俺はすぐに行動に出た。
「え、ちょっと、お兄ちゃ……」
困惑気味の妹の声を背に、部屋を飛び出し、一階に降りる階段に向かいまるで跳躍するように地面を蹴って、
(あれ、なん、で……?!)
左右の壁が飛ぶように流れていく。
気付けば俺は思った以上の勢いで階段に向かって飛び出していて、
(やば、もどらな――)
それどころか俺の身体はあっという間に階段を飛び越して、足元から地面が消える。
俺は宙に投げ出され、落下を確信した俺は反射的に目をつぶって――
「あ、れ?」
――しかしまずいと思った一瞬後、俺の足は階段の縁にしっかりと着地していた。
(なんだ、今の……?)
混乱する。
さっき俺は、想定した以上の力で進んでしまい、階段を飛び出してしまったはずだった。
実際に足の下には階段の3段目か4段目くらいが見えたし、反射的に戻ろうと考えて、すぐにそれが無理だと理解した所まではっきりと覚えている。
なのに、それがなかったことになったかのように、俺は今階段の前に立っている。
これは一体、どういうことなのか。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
戸惑う俺に、後ろから声が掛けられる。
理不尽を解明しようとして、俺は反射的に問いかけていた。
「結芽、お前、今何かしたか?」
「へ? わたし?」
とぼけているのでもなく、本当に何を言っているのか分からないという顔でそんな返事をされる。
どうやら、結芽の仕業ということでもないらしい。
「いや、何でもない」
どうでもいいことだと、俺は首を振った。
たぶん、階段に向かって勢いよく飛び出し過ぎたせいで、その恐怖感がちょっとした錯覚を起こさせたのだろう。
それよりも今は、諒子さんに確認をする方が先だ。
俺は強引に胸の奥に違和感を押し込めると、結局ついてきた結芽と一緒に、諒子さんに会いに階段を下りた。
そして――
「――朝霧縁、という名前は、私も聞いたことがないな」
それが、諒子さんの返答だった。
「ちょっと、待って下さい。でも俺は、確かに……」
「ちょっと待つのは君だ。私はこの家に生まれてからずっと住んでいるが、この家の隣に朝霧という名字の人間が住み着いたことはないし、今の所引っ越してくる予定もない。
これは、断言してもいい」
「そんな……」
俺はすがるように諒子さんを見た。
けれど、諒子さんの目は微塵も揺るがない。
彼女が言っていることは本当なのだと、それだけで分かってしまった。
(なんだ、これ……)
突きつけられた事実に、頭がくらくらする。
この世で縁のことを覚えているのは俺一人なのではないかという妄想じみた考えが頭に這い登ってきて、背筋を凍らせる。
「光一君?」
それでも諒子さんに心配そうに声を掛けられれば、俺はその動揺も葛藤も、心の奥にしまい込むしかなかった。
これ以上諒子さんに迷惑は掛けられない。
「いえ。そう、ですか。変なこと聞いて、すみません」
引き下がる。
それしか俺には選択肢がなかった。
「力になってやれなくて、すまないね」
「いえ……」
労わるような諒子さんの声が、なぜか今は苦しかった。
また一緒に寝ようとする結芽を振り切って部屋に戻ると、俺はベッドに仰向けに寝転んだ。
眠らなくてはと思っても、頭の中をぐるぐると様々な考えが渦巻いていく。
まだ原因も理由も分からないナイトメアへの転移。
月掛の不可思議な言動やこれからの自分のこと。
結芽の俺への態度。
さっき起こった階段での奇妙な一幕。
だが、その中でもやっぱり一番考えてしまうのは、縁のことだ。
縁のことについては、不自然なことが多過ぎる。
まず、俺が縁のことを忘れてしまっていること。
それも単なる記憶喪失という類ではなく、縁に関することだけを忘れてしまっているというのが、どうにも不自然だ。
そして第二に、俺がそれを不思議に思い、調べようなどとは考えなかったこと。
俺は自分が縁を忘れてしまっていることを、最近になってきちんと思い出せたはずだった。
なのに縁のことを身近な人間に尋ねることも、何かを使って調べることもしなかった。
いや、そんなことを思いつきさえしなかった。
これが単なる記憶喪失であれば、俺は縁に関する記憶や記録を手当たり次第に求めただろう。
しかし俺は、そういう発想を得ることすら出来ていなかった。
今回結芽や諒子さんにそれを尋ねられたのは、多分に勢いのせいで、つまりは偶然の産物だ。
そうなると、俺は単に縁のことを忘れてしまっただけでなく、今も縁を忘れさせようという力に晒されていると考えることすら出来る。
そして第三に、縁が生きていた痕跡が、周りにないこと。
もちろんまだ結芽と諒子さんに話を聞いただけで、そんなことを考えるのは早計かもしれない。
出来れば縁と俺、二人の共通の友人なんかがいれば、その人に尋ねるだけで事足りるのだが、あいにくとそんな心当たりはない。
人の痕跡を探すなんていうのは今まで考えたこともなかった。
住民票だか戸籍だかを役所で調べられるなら早いのだが、たぶん無理だろう。
真剣に探したいなら興信所なんかに頼むのもありだとは思うが、とりあえずは明日、ダメ元で近所で朝霧という家がないか探した後、パソコンを使って名前を検索してみようという結論に至った。
それでももし、縁がいたという証拠が見つからないなら、それは本当に、不自然を通り越して不可解な事態になる。
もしそんなことになったとしたら、今思いつく可能性は二つ。
一つは、俺の頭がおかしくなっただけで、朝霧縁なんて人間は、最初からこの世界に存在しなかったという可能性。
とはいえ、こんなものを論じるのはナンセンスだ。
その前提が崩れるのなら俺の全ての行動はそもそも無意味だということになるが、例えそうだとしても俺は縁を探すのを止められないだろう。
記憶が間違っている可能性があるとしても、俺には信じるしか選択肢がないのだ。
そうすると、残るのはもう一つの可能性。
すなわち、何らかの理由、何らかの手段によって縁はこの世界から弾き出され、人々の記憶からも、記録からも消されている。
そんな荒唐無稽な仮説だけが、俺の中に残った。
――ありえない。
そう断じてしまいたくても、その考えは俺の頭のどこか奥にしがみつき、決して離れはしなかった。
「くそ!」
布団の中で、俺は一人、悪態をつく。
ただ俺は、縁に会いたいだけなのに……。
もやもやとした想いを抱えながら、俺は真っ暗な部屋でじっと、眠気が訪れるのを待つのだった。
休日二日目。
今度こそ俺と一緒にいようとしていた結芽だが、今日は学校の友達と約束をしていたらしく、後ろ髪ひかれる様子で家を出て行った。
結芽には悪いが、好都合だ。
俺は結芽を見送り、諒子さんがいつものようにだらけて寝ているのを確認してから、家を出た。
とりあえず、家の周りを回って、朝霧という表札のついた家を探す。
そもそも表札が見つからない家もあったが、俺の家の両隣、ついでにお向かいと奥の家についてはきちんと見つけられた。
しかしそのどれにも、朝霧という名字も縁という名前もなかった。
それから1時間ほどをかけて、近所を回った。
ずっと住んでいるはずの場所なのに、意外と見たことのない場所が多くて驚いた。
しかし残念ながら、本命の目的は全て空振り。
最後には近くの交番にまで寄ったが、朝霧という家は見つけることが出来なかった。
落胆を隠して家に戻り、今度はパソコンを立ち上げる。
縁は単なる一般人でネットに名前が載るような要素があった記憶はないが、万が一ということもある。
俺は緊張に震える指で、検索ワードに『朝霧縁』と打ち込んだ。
結果は……。
「――ダメ、か」
20ページ以上の検索結果を見たが、縁らしき人間の痕跡は見つけられなかった。
検索ワードを『朝霧 縁』にしたり、『あさぎりゆかり』にしたり、検索サイトを変えてみたりもしたが、結果は同じだった。
調べ方が悪いのか、本当に縁がこの世界に存在したという痕跡すらもなくなってしまったのか。
朝霧縁の存在の残滓すら、俺には見つけることが出来なかった。
「……そうだ」
俺はほんの出来心で、別の名前を検索ワードに入れてみた。
『普賢光一』
自分の名前で検索をしたことはなかった。
これで何か出れば、この手法の正しさが証明される。
……と思ったのだが。
「外れか」
俺に関する情報は何も出なかった。
こちらは単なる好奇心だったので、2ページ見た所で見るのを止めた。
まあ、そんなものだろう。
次に思いついたのは、ナキだった。
どうせならと思い、『四方坂ナキ』で検索。
……不発。
『七瀬こずえ』
人気のある名前らしくやたら出て来たが、本人らしい物はなし。
ここまで来るともう意地だった。
『月掛立』で検索する。
「おっ!」
初めて本人らしい記事が出る。
何年か前のアーチェリーの大会。
小中合同らしいその大会で、三位入賞者の名前に月掛立が載っていた。
「本当に、アーチェリー得意だったんだな」
なんとなく頬が緩むのを感じながら、今度は『三島奏也』を打ち込む。
奏也もヒットしないかと思ったのだが、検索結果2ページ目の一番最後、もう本体のページは残っていない、随分前に書かれたものらしい一文が俺の目に留まった。
ブログか何かの断片、なのだろうか。
そこには高校の合唱コンクールの伴奏で『奏也』がいかに素晴らしい演奏をしていたかが書かれていて……。
「……やめた」
俺はそこで、ブラウザの画面を閉じた。
こんな風に、覗き見みたいに一方的に他人の事情を暴くのはよくないだろう。
縁はともかく、他の人には夢の中ででも本人と会えるのだから、知りたいことがあるのならその時に聞くべきだ。
縁のことだって、ナイトメアで強くなればいつか会いに行ける。
今の俺は、向こうの世界で強くなって縁に会うことだけ考えていればいい。
他人の事情も、違和感や嘘も、関係ないことだと突き放していればいい。
俺は無理矢理に自分にそう言い聞かせながら、パソコンの電源を落とす。
そうして俺は、強くなった胸のもやもやをごまかすように、乱暴に席を立ったのだった。




