4.テンミニッツアドベンチャー
――『あの日』よりも前、いつとも知れないほどありふれた日の記憶。
『お前はすごいよな。ああいうとっさの時、何も考えずに動けるんだから』
『ん、光一は頭でっかちだもんね。いちいち考えてからじゃないと動けないんだっけ』
『こればっかりは性分というか、条件反射みたいな物だからなぁ』
『じゃあさ。もういっそ、こういう時はこうするって、全部あらかじめ考えておけばいいんじゃない?』
「よ、四方坂、ナキ…?」
呆然とこぼした、俺のそんな問いかけに対する返答は、
「――ッ!」
「あ? え、ちょ…っ!」
わき目も振らない『逃亡』だった。
俺の言葉を聞くなり、彼女は即座に俺に背を向け、躊躇いのない動作で地面を蹴り、脱兎のごとく逃げ始めた。
「ちょ、ちょっと待った!」
彼女が俺のクラスメイトの四方坂であれ、そうでないにしろ、とにかく彼女は大事な情報源だ。逃がす訳にはいかない。
俺は慌てて追いかけたのだが、
「だから、少し待っヘブ!」
地面が凍っていたのを忘れていた。
俺はまたも無様に転んで地面に頭突きを食らわせていた。
やはりあまり痛くはないが、その間に四方坂には距離を離される。
「くっそ!!」
起き上がって必死に足を踏ん張るが、冷たい地面はそれに応えてくれない。
四方坂はその間にも曲がりくねった道を器用に進み、森の木々に隠れて姿が見えなくなってしまった。
それでも死にもの狂いで進んでいく内に、
【スキル発現 『魔力機動』】
頭の中に変な文字列が浮かび上がり、同時に、
「お、おおっ?」
氷の上での移動が、スムーズになった。
先程までと違い、ちゃんと体の動きをイメージすると氷の上でも滑らずに足がぴたっと止まる。
蹴り足の力が不十分かな、と思うような時も、十分な加速が生まれる。
……なんとなく、地面に足がついていない時も加速していたり、作用反作用的な物を考えるとちょっと不自然なくらい移動している気もしたが、とにかく速度は上がった。
今までとは比べ物にならない速さで森を進む。
それはもう、飛ぶように走る。
時々角を曲がり切れずに木にぶつかりそうになりながらも、俺は何とか速度をキープしつつ道を曲がって、
「いた!」
ようやく四方坂の姿を見つけた。
彼女はやはり木々の少し開けた場所に、女の子座りで呆然とへたり込んでいた。
「何だ、様子が……」
探していた相手を見つけた安堵よりも、違和感の方が勝る。
氷の地面に座り込む彼女の表情は、明らかに尋常ではなかった。
だがその疑問の答えは、すぐに見つかった。
「な……!?」
四方坂が呆然と見上げるその視線の先には、今にも四方坂に飛び掛からんとする、怪物の姿があったのだ。
「冗談、だろ? あんな、生き物……」
だが、そこには、確かに怪物としか言えない生物が存在していた。
目測だが2メートル近い長身に、びっしりと黒い鱗を生やした、異形の化け物。
魚人、なんて言葉が、脳裏をちらつく。
そんな怪物が、手にした曲刀を振りかざし、今にも人を襲おうとしている。
あそこに行けば、もしかすると俺も殺されるかもしれない。
そう認識した時、俺の足は恐怖にすくんだ。
順調に進んでいた動きは滞って、全身を冷えた血が回り始める。
頭の芯が冷えて、脳の回転ばかりが速まるイメージ。
これからどうすればいいか考え始めた脳に合わせて、行動までも戸惑って進むのを止めて……。
――しかし、そんな硬直は一瞬だった。
さて、問い。
『目の前で女の子が化け物に襲われそうになっています。
あなたはどうしますか?』
こんな質問にどう答えるか、真面目に考えたことはあるだろうか。
俺は、ある。
たぶん何十年生きていようが一度もあるはずがないシチュエーションだと知りつつも、細かい設定まで考えて150パターンについてシミュレーションしてみた俺は間違いなく馬鹿だが、今回ばかりはその馬鹿さ加減が役に立つ。
なぜなら、150パターン全ての答えは同じだった。
つまり、
「全力で、助ける!!」
俺は固まった足を叱咤して、もう一度強く地面を蹴って加速、一瞬だけ躊躇った分の勢いを取り戻すように、さらに走る速度を上げる。
行動する前に考える俺は、とっさの判断が必要な時でも、いや、そういう時こそ余計に考えることを優先してしまう。
だがそれはつまり、事前に方針さえ決めておけば、ここぞという時にいつだって自分の思う通りに行動出来るということでもある。
「う、おぉおおおおお!!」
大声を上げて、怪物と四方坂の所まで突っ込んでいく。
考えなしにただ叫んでいる訳じゃない。
彼我の距離は10メートル。
この距離を縮めるまでに、怪物の注意を四方坂から逸らす必要があった。
(まだ、速度が上がる…!)
怪物の許に一直線で向かいながら、俺は自分の走る速度に驚いていた。
自転車に乗っている時のような、いや、それ以上の風を体でかき分けながら、飛ぶように走る。
(これ、なら…!)
7メートルの距離を、瞬く間に0にする。
そして、最後の跳躍。
3メートル以上も離れた場所にいる鱗の怪物に向かって、俺は飛ぶ。
思い切り地面を蹴りつけ、さらに空中で加速する。
そして、その最後の加速をした瞬間、俺の体にあって俺の後押しをしてくれていた何かが、全て使い果たされたことを知る。
たぶんもう、さっきみたいな速さで移動は出来ない。
一瞬不安がよぎる。
だが、その速度だけは、今もこの体にある。
近くで見るほどに迫力を増す怪物の体がぐんぐんと近付いてくる。
遠くに見えたはずのその化け物は、今はもう目前に迫っていた。
(このまま、ぶち当たる!!)
速さとは、力だ。
それは物理学も証明している。
運動エネルギーは速度の二乗×質量で決まる。
速ければ強い。止まってれば弱い。単純明快!!
「こ、の――」
そこで、鱗の化け物がようやくこちらに気付く。
真っ黒な鱗で覆われたその顔面目掛け、俺はショートソードを振りかぶって、
「喰らえ、鱗野郎!!」
思い切り、叩き付けた。
我ながら剣を使うのが初めてだとは思えないほどの、会心の一撃だった。
しかし、
「ぐ、ぅ!」
返って来たのは、攻撃したこちらが思わず呻くほどの、どこまでも硬質な手応え。
反動で手首が悲鳴を上げ、剣を取り落としそうになる。
それでも、
「ま、だ……っ!」
この一撃が決まらなければ終わる。
こんな怪物と、まともにやり合えるはずがない。
それが分かっているから、俺は……。
【スキル発現 『オーバードライブ』】
頭の中に、おかしなメッセージが届く。
だが気にしない。気にならない。気にしている余裕などない。
「これ、でぇええええ!!」
叫ぶ。振り抜く。押し込んでいく。
既に俺の最大の優位だった、速度と勢いはほとんど殺されている。
それでも体に湧き上がった新たな力に全てを賭けて、希望にすがって俺は剣を振るう。
「ぐっ!」
なのに堅い、堅すぎる手応え。
軋む刃と軋む腕。
悲鳴を上げる体に、しかし壊れても構わないとばかりに力を込めた。
そして、ある瞬間、急に手元が軽くなる。
(通っ、た…?)
そんな錯覚を抱いた俺の視界に、スローモーションのように映る、キラキラときらめく光。
――手にしていたショートソードが、砕け散っていた。
(そん、な……)
顔から血の気が引く。
鱗の怪物と目が合う。
奴はにんまりと笑った、気がした。
「う、あぁああああああああああああ!!」
それでも、それでも俺は剣を振り抜いた。
もう全てが終わってしまったと分かっていても、恐怖が、焦りが、そして何より事ここに至っても諦めない俺の脳が、体を突き動かす。
残った刀身を、怪物の鱗に押し付けるように俺は右手に力を込めて、
「あ、れ?」
スルッとすべるように鱗の上を抜けていく刀身。
急速に抜けていく力。
急速に遠のいていく意識。
(なに、が……)
起きたのか分からない。
ただ不意に訪れた圧倒的な脱力感に、抗うことも出来ないまま、俺は地面に吸い込まれるように倒れていく。
「GYAAAAAAAAAAA!!」
薄れゆく意識の中、鱗の怪物が断末魔の声を上げ、その体が小さな光の粒子となって天に昇って行くのが見えた。
「――お兄ちゃん! しっかりして! お兄ちゃん!」
「ん、ん…?」
俺はまた、妹の声で目が覚めた。
見ると、結芽が俺の体にすがりつくようにして、必死に声をかけている。
「あれ、結芽? 何でここに……」
「お兄ちゃん!? よかった!」
俺が目を覚ますと、妹はぎゅっと俺にしがみついてきた。
「あ、れ……?」
突然の妹の来襲に目を白黒させながら辺りを見回すが、当然ながらそこには凍りついた木も、鱗の怪物もいない。
いつも通りの自分の部屋だった。
「一体、何があったんだ?」
俺が尋ねると、結芽はハッとして俺から離れ、後ろめたそうに答えた。
「あ、あの、勝手に部屋に入ってごめんなさい。
え、ええと……お兄ちゃんの部屋から苦しそうな声が聞こえて、部屋の中を見たらお兄ちゃんがうなされてるから起こそうとして、でも、全然起きなくて……」
「ああ、そうか……」
どうやらやっぱり俺は、夢を見ていたらしい。
冷静になってみると、急に体がなくなってしまったり、いきなり変な場所にいて知り合いに会ったり、怪物と戦ったり、夢だとでも考えなければ辻褄が合わない。
そして逆に、さっきのを夢だと考えると、あの理屈に合わない支離滅裂な感じは確かに夢の特徴だなと納得出来る。
第一、女の子を助けるために剣一本で怪物に向かって行ったり、エルフ耳になったクラスメイトを見て『氷細工の芸術品』とか論評してみたり、実際にいたらかなり痛い奴である。
夢の中ででもなければ、俺がそんな行動を取るはずがなかった。
微妙な顔をしている俺を見てどう思ったのか、
「ごめん、ごめんね、お兄ちゃん。いやな夢、見たんだよね」
涙ながらに謝罪してくる妹に、俺は、
「……いや」
首を横に振ってみせた。
別に結芽のせいで悪夢を見た訳ではないし、そもそも……。
「良い夢……だったと思う」
「え?」
俺がひどくうなされている所を見ているからだろう。
そう口にすると、妹はひどく驚いた。
だがそれは、俺の本心だった。
はっきりとは覚えていないが、最後の瞬間、四方坂を襲っていた怪物が光になって消えていくのを見た気がする。
だったら俺は、ちゃんと四方坂を助けられたってことだ。
ならそれは、良い夢だったと言ってもいいんじゃないだろうか。
「いい夢、だったの? ……ほんとうに?」
いかにも恐る恐る、という具合に、結芽が聞いてくる。
「ああ。本当に、そう思うよ」
その言葉に、俺がしっかりと答えてやると、
「そっ、か。いい夢、だったんだ……」
なぜかとても嬉しそうに、妹はうなずいた。
「えへ、えへへへ……」
それから急に元気になった結芽は、いきなりそんな風に笑い出した。
正直、ちょっと怖い。
さらにそこから、ドン引きしている俺の右手を両手でぎゅっと握り締めると、
「ね、ねえお兄ちゃん。さっきお姉ちゃんが帰ってきて、わたし、ご飯温めたんだけど……」
「ん?」
「お兄ちゃんも、夕飯まだだったよね? 一緒に、食べないかな?」
上目遣いに、そんなことをねだってくる。
さっき見たおかしな夢のせいだろうか。
結芽に対するわだかまりが、胸の中から消えていた。
むしろ兄妹なんだから仲が良くて当然、という開き直りの気持ちがあふれてきた。
「ああ。じゃあ、頼むよ」
俺が答えると、
「ほんとっ!? じゃ、じゃあ、お兄ちゃんの分も温めるから、すぐ来てね!
ぜったい、逃げちゃやだよ?!」
妹は即座に跳び上がり、ドアの向こうに駆け出して行った。
その様子を見て、俺は思わず苦笑してしまう。
「作ってもらってるのは、こっちだって言うのに……」
それでももちろん、悪い気がするはずはない。
(でもそういえば、三人そろって食事をするの、最近はなかったかな?)
なんてことを思いながら、俺はベッドから起き上がった。
流石にあんなに喜んでいる結芽を待たすのは悪いとすぐにドアに向かって歩き出し、その途中、何の気なしに枕元に目を向けた。
「……あれ?」
俺の目に留まったのは、枕元に置かれていた、何の変哲もない目覚まし時計。
ただ、それを見て俺は少しばかり眉をひそめる。
――その時計は、しっかりと現在の時刻、『12時4分』を示していた。