3.氷結世界
――たぶん『あの日』よりも二ヶ月くらい前。
『わたし、寝るのが怖い。最近、夢の中に他人がいる気がするの』
そう口にした縁の顔色は、月明かりの下でもはっきりと分かるほど青白かった。
『夢の中に他人が出て来るなんて普通だろ? 俺の夢にもよく縁が出て来るぞ』
だから俺は、わざと冗談めかしてそう告げる。
しかし、もちろんそんなことで縁の気分が晴れることはなかった。
『わたしの夢にだって、いつも光一が出て来るけど、そういうのじゃなくて……』
俺としては、縁の夢に『いつも』俺が出て来る話は興味深かったが、問題は意外に根深いらしい。
『夢だからはっきりとは覚えてないんだけど、わたしの夢の登場人物じゃない、本当の他人がそこにいるの。
ううん、というより、他人と、たくさんの人と同じ夢を見ている感じ』
さらに沈鬱な表情で縁はそうこぼす。
ストレス、とか、強迫観念、という言葉が真っ先に浮かんだが、俺が口にしたのは別のことだった。
『なら、今晩は俺の部屋で寝るか?』
『……え?』
縁が、珍しく驚いたような顔でこっちを見ていた。
そりゃあ当然だろう。
口にした俺の方まで「……え?」とか言いそうになったくらいだ。
『あ、いや、深い意味とかなくてな?
ただ、そんなに不安なんだったら誰かが傍にいた方が何かと都合が……』
本当に俺は何を言ってしまったんだろうか。
俺に限って無意識の内に何か言うなんて、考えもしなかった。
焦って弁解していると、縁はクスッと笑った。
『ありがと。何だか勇気出た』
『あ、ああ。そうか……』
そのいつも通りの反応が、ありがたいような少し寂しいような。
うん、と可愛らしくうなずいて、迷いのなくなった目でこっちを見る。
『もうちょっと、自分でがんばってみるよ』
『そ、その方がいいかもな』
なぜか口にしたこっちの方が動揺を隠し切れず、言葉が上滑りする。
それを、縁は特に気にした風もなく、
『それじゃ、わたしはもう寝るね』
『あ、ああ……』
今日の会話は終了になる。
俺は動揺を隠そうとすぐ部屋に戻ろうとして、
『あ、待って』
ちょっと焦ったような縁に引き留められる。
振り返った先にいた縁は、最初とはまた違う感じでうつむいて、
『また、今度。ほんとに光一の部屋で寝させてもらうから』
その言葉に世界中の時間が一瞬だけ止まって、俺は口を間抜けにも半開きにして、驚きの声を――
「……え?」
俺は間抜けにも口を半開きにして、驚きの声を上げた。
一瞬前まで何もない暗闇にいたはずの俺は、なぜか一面の木々の群れの中にいた。
いや、それよりも……。
「声が、出せる」
その事実に、心の底から安堵する。
それから、ちゃんと自分の体があるか確かめようと、目線を下に下げて、
「何だ、この服……」
自分が着ている、奇妙な服に気付いた。
いや、奇妙と言うほどにおかしくはない。
THE・ぬののふく、という風情の、RPGの村人とかが着てそうな簡素な服だ。
しかし問題なのは、俺のクローゼットには絶対にこんな服は入っていなかったという事実。
そして、それ以上に奇妙なのが、
「これ、何だ?」
俺の左の腰にぶら下がっている物。
革で出来てるっぽいケースの中に、何か細長い物が収まってるっぽい。
「ええと……」
まさかな、とは思いつつ、ケースから飛び出ている握りっぽい所を掴んで、引き抜いてみる。
――ギラリと光る、白い刀身が姿を現した。
「マジ、かぁ……」
思わず嘆息する。
まあ実は、見た目から想像がついてはいた。
革のケースが鞘で、中には剣が入っているだろうということは。
「しかし、これ、剣って言うには……」
短い。
短すぎる。
けれどもナイフだの短剣だのと呼ぶには長い。
「ショートソード、って奴かな?」
俺の中の乏しいゲーム知識がそう言っていた。
間違っているかもしれないが、だとしても問題ないだろう。
それよりもこんな物騒な物を抜き身で持っていたくはない。
俺は用心深く、『ショートソード(仮)』を鞘に戻した。
「で、結局、どういうことだ?」
部屋で寝ていたら、突然真っ暗な世界にいて体が全く動かせなかった。
そこで色々やったら、今度は森の中に飛ばされて、おかしな服と剣を持っている。
「さっぱり分からん」
そもそもここはどこなのか。
『声』は『ナイトメアの世界』に転送しますとか言っていたが、『ナイトメアの世界』という時点で訳が分からない。
ナイトメアと言うくらいなのだから悪夢という意味なんだろうが、だからどうしたというレベルの話だ。
夢という単語で心当たりと言えば、消える前に縁が言っていた『夢の世界でゲームをしていた』という話が思い浮かぶくらいだが、これは夢だとかゲームだとか言うにはリアルすぎた。
そもそも縁が言っていた『ゲーム』の詳しいジャンルは専門的すぎて分からなかったが(確か『VRMMO』とか『デスゲーム』みたいだとか言っていた)、RPGっぽいとも言っていたので、たぶんボードゲームやカードゲームの類ではなくテレビゲームだろう。
だったら最低でもディスプレイとコントローラーが必要なはずだが、こんな森の中にそんな物が置いてあるとは思えない。
縁につながるヒントを期待していたので残念だが、少なくともこの異常事態とはあまり関係がなさそうだった。
「第一こんな森、近所に……って、うわ!」
改めて森を眺めようと振り返ってみて、とんでもない物を見てしまった。
服装の確認に夢中になって気付かなかったようだが、森の後ろ半分は大変なことになっていた。
「こりゃ、確かに……。悪夢の世界、かもな」
思わずそう呟かずにはいられないほど、現実離れした光景が目の前に広がっていた。
――氷の森。
そう評するのが適当なほどに、凍りついた森がそこにはあった。
俺の周りはまだ霜が降りている程度だが、森の奥に目を凝らすと、木がまるまる一本氷漬けになっていたりと、なかなかにファンタジーかつファンタスティックな景色が展開されているようだ。
「さて、どうしようかね……」
状況は混迷している。
というより、俺の現状認識が混迷している。
このままここにいても事態が好転するとは思えない以上、ここから移動するというのが一番よさそうな選択肢なのだが……。
「猛獣とか、いないよな?」
得体の知れない場所には、得体の知れない生き物がいてもおかしくはない。
その時に、武器がこのショートソード一本というのは心もとない。
他になにか、武器になりそうな物はないだろうか。
「あれ?」
自分の持ち物を改めて調べ始めて、左手首にやはり見覚えのない腕時計がはめられているのに気付いた。
ちょっと大きめなサイズの、アナログ時計。
時刻を確認すると、12時9分を指していた。
「俺、結局あのまま四時間近くも寝ちゃってたのか…」
なんて奇妙な感慨が込み上げてきたりもするが、そんなことを考えるのもこのおかしな状況から抜け出した後にする方が賢明だろう。
これ以上特に役立ちそうな物を持ってはいないようだ。
俺は覚悟を決め、安全そうな場所か、事情を知っていそうな人を求めて、ここから移動することにした。
しかしそうなると考えなくてはいけないのが、
「さて、どっちに進むべきか」
という問題だ。
前方は、穏やかそうな春の日差しが差し込む森。
後方は、穏やかそうな春の日差しが差し込んでるのに凍りついた森。
まあ安全性を考えるなら、断然前方の普通の森に進むべきだと思うのだが……。
「よし、決めた」
俺は少しだけ考えた後、後方、凍りついた森に向かって歩を進めた。
明らかに不自然なことが起こっている氷の森なら、俺の身に起こったこの異常な事態の答えも分かるかもしれない。
などという後付けの理由をこねくり回してもいいが、俺がこっちを選んだ答えは簡単。
なんてことはない。
単純に未知への恐怖より好奇心が勝ったのだ。
好奇心に殺された猫っていうのは俺みたいな奴だったのかなと思いながら、俺はぽかぽかとした暖かそうな木々に別れを告げ、結晶化した白いオブジェの方へと歩いていく。
「――ぐべっ!」
氷の森に足を進めて五分ほど、俺は早くもこっちのルートを選んだことを後悔していた。
最初の内はよかった。
地面の草には霜が降りていたし、最初にいた場所より気温は低かったが、普通に歩くことが出来た。
だが、奥に進むにつれて森の凍り方はひどくなり、今ではデコボコしたスケートリンクを歩いているような具合で、
「あぶっ!」
俺はたびたび転んだ。
幻想的なこの風景の中で、かっこつかないことこの上ない。
だが不思議と、ほとんど痛みはない。
顔面が地面にぶつかってもスポンジが間にあるような感触がして、ほとんど衝撃を感じないのだ。
「絶対、おかしいよなぁ……」
もしかして痛覚が麻痺しているのかとほおをつねってみたのだが、それは普通に痛かった。
一体何が起こっているのやら。
謎が一つ増える。
「というか、この森もやっぱおかしい」
この辺りの木は幹どころか枝葉の先まで完全に氷に覆われているが、こんな広葉樹だらけの見るからに暖かな気候の森が凍りつくはずないし、そこに目をつぶったとしてもここの道は整然としすぎていた。
道には木の枝一つ落ちていないのに、そこから一歩でも外れようとすると密集した木々が邪魔をして進めなくなる。
まるでゲームに出て来る森のフィールドみたいで、何だか不自然に感じた。
「大体、考えてみれば今が夜の12時なら、こんなに明るいはず、ないし……」
そう考えると、こんなに明るい森の中が、やはりどうにも不気味に映る。
変な生き物に襲われないだろうか、という恐怖がよみがえってきて、俺はちらりと腰のショートソードに目をやった。
そもそも、俺は荒事には向いていない。
喧嘩をしたことなんて数えるほどしかないし、とっさの判断が必要な状況に弱い。
考える前に行動する縁と違って行動する前に考える俺は、切羽詰まった状況になるほど色々と考えてしまって、逆に動けなくなってしまうのだ。
『ピンチになると、脳からアドレナリンとかがどばどば出てさ。何か動かずにはいられないんだよね!』
などと縁は語っていたが、俺は完全に逆だった。
ピンチになるほど頭だけは冷えて、それこそ無意識に善後策を探す。
でも結局選択肢が多すぎて、何か行動を起こす前に時間切れになる。
そんな感じだ。
正直暴走トラックとかが突っ込んできたら、一歩も動けずに轢かれる自信がある。
一応縁に言われて対策みたいな物を考えたこともあるが、それだってうまく行くとは……。
なんて、心の中で愚痴をこぼしながら進んでいた時だった。
「……お?」
奥に、少しだけ開けた場所を見つけた。
氷の森に入り込んでから、初めての道の変化だ。
道が曲がりくねっているため、ここからでは全体像は見えないが、もしかするとそこに何かあるかもしれない。
とりあえずそこまでは頑張ろうと足を進める。
逸る気持ちのままに、また何度か派手に転びながら俺はようやくその場所までたどり着いて、
「――!?」
俺は瞬間、息を飲んだ。
そこにはこの世の物とは思えない、幻想的な生き物がいた。
――氷の世界に佇むそれは、氷よりも澄み切った肌と、月光を湛えたかのような銀髪を持つ、一人の少女。
彼女はこちらに背を向けているため、その表情をうかがい知ることは出来ない。
だが彼女はその後ろ姿だけで、俺を圧倒する。
その姿はまるで、触れた瞬間砕け散る、氷細工の芸術品。
線の細い妖精じみた体躯に、危うい程に白い肌。
月の光のように妖しく波打つ銀髪と、そこから控えめにのぞく、人の物ではありえない、大きく尖った耳。
「エル、フ……?」
俺の口から、意図せず言葉が漏れる。
「――!?」
だが不用意に漏らされたその言葉は、彼女に俺の存在を気付かせた。
彼女は弾かれたように振り返る。
そこで初めて、後ろからでは見えなかった、彼女の顔が俺の前に晒されて……。
「な、に?」
――そして俺は、再び驚きに息を飲むことになる。
「よ、四方坂、ナキ…?」
振り返ったエルフの少女は、現実での俺のクラスメイトと全く同じ顔をしていた。