29.愚か者のやり方
――別れの前の、最後の夜の記憶。
『――ねぇ、逃げちゃおうか?』
息遣いすら聞こえるような至近距離で、麻薬のように縁の声が俺の耳を侵していく。
『なに、言ってるんだよ、そんなこと……』
俺は必死に反論しようとするが、縁の瞳は絡みつくように動いて俺を離さない。
『光一だって、わたしの能力は知ってるよね。
だったら、その力が最後にどこに行きつくかも見当がつくでしょ?』
『だから、って……』
必死に、俺は本当に必死に縁から目を逸らす。
目を逸らしながら、まとまらない思考をかき集め、何とか縁に反駁する。
『逃げる、なんて、無理だ。
だって、家族、とか、友達、とか、いるだろ?
そうだ、東雲さん! みりんのことは、どうするんだよ!
彼女も向こうの世界に……』
口にする内に、言葉に力が宿る。
そうだ。東雲さんや家族を見捨てるなんて、そんなの間違っても縁が望むはず……。
『――そんなの、どうでもいいよ』
ひどく冷たく、虚無的な声が胸に染みいる。
確かにその瞬間、俺の周りの空気が凍りついたような気がした。
『どう、でも……?』
息が苦しい。
目の前にいるのが誰なのか、分からなくなる。
『もう、そういう段階はとっくに通り越してる。
何か一つだけしか守れないなら、一体何を守ればいいか。
わたしはちゃんと分かってるんだよ?』
そう口にする縁はいつもと同じ顔だった。
本当に普通の顔をしていた。
だが、絶対にそれはいつもの彼女の顔ではなかった。
初めて知る、縁の一面。
初めて見る、縁の狂気。
初期DP501という意味。
いつかの謎めいた縁の言葉が、事実として俺にのしかかって来ていた。
だから、
『一番、優先すべきは、自分たちだって、そう、言いたいのか?』
俺は動こうとしない声帯をかろうじて震わせて、話を続ける。
そうしなければ、飲み込まれてしまいそうだった。
『うん。半分、正解』
『半分?』
それは、半分は間違っているってことか?
何が、違うっていうんだ?
『やっぱりね。光一とわたしは違う。
光一は大切な物を捨てることができないから、こんな簡単なことも理解できないんだね』
『縁。俺には、お前が何を言っているのか分からないよ』
なぜだろう。縁との間に、距離を感じる。
縁が夢の話をしている時よりも、俺と関係のない何かに夢中になっている時よりも、縁が遠くにいるように感じてしまう。
なのに、縁は止まらない。
『簡単な話だよ。光一は何でも拾うことから考える。
だから時間がかかるし、変なことばっかり言う。
でも、わたしは捨てることから考える。
最初からあきらめていれば、あとは何も考えずに進むだけだから』
『縁、お前は……』
これ以上、言わせてはいけない気がした。
これ以上俺と縁に間に距離が出来れば、俺は縁と一緒にいられない予感がした。
別離の予感に、俺が必死で口を開く、その前に、
『なーんてね!』
実にあっけらかんと、縁は言った。
『……は?』
すっかり呆気に取られる俺に、縁はいつものように楽しげに笑って、そして……。
……飛竜。
詳しい分類なんて知らないが、俺の前に姿を見せたそいつは四足で動く竜の亜種で、普通の竜よりも体高が低く、体の大きさに比して羽の比率が大きく、まるで空を飛ぶことに特化したような体をしていた。
その姿は、RPGによく出て来るワイバーンにそっくりだ。
ワイバーンは通常のドラゴンに比べると少しだけ弱いってのが大体の相場だが、今回に限っては慰めにもならない。
俺はこいつらと縁の空中戦を見ている。
もちろん、その飛竜の一体が縁に片羽を切り落とされ、墜落する所も、だ。
(……くそ、恨むぞ、縁!)
いくら飛行能力を失ったとはいえ、今の俺たちには逆立ちしたって勝てない相手だ。
お互いを目視出来る距離まで接近してからは、獲物を検分するようにこちらを眺めていて、すぐには襲い掛かってくる気配はないが、それだっていつまで続くか分からない。
「……逃げ、るぞ」
飛竜から目を逸らさないままで、かすれた声で言う。
「まあ、それしか、ないでしょうね」
「…分かった」
「は、い」
「……仕方ないわね。みんな、怖くても止まったり振り返ったりせずに全速力で走りなさいよね」
さっきの炎に仲間が巻き込まれていないか心配だったが、全員分の返事が返って来てひそかに安堵する。
声を聞く限りでは奏也とナキは冷静。
七瀬はびくついてはいるが許容範囲内。
更に月掛が土壇場で他を気遣う余裕を見せたのは意外だった。
……まあいい。
あとは、ここから逃げるだけだ。
「……ナキ。カウントするから、ゼロになったと同時に派手なスキルであいつの注意を逸らしてくれ。
他のみんなは、カウントゼロと同時に大樹の方へ向かって走れ」
「…任せて」
こんな時でも変わらないナキの平静な声が、いつにも増して頼もしく感じる。
「いくぞ、3……」
心臓の鼓動が強過ぎて胸が苦しい。
話している間も、飛竜から目を逸らさない。逸らせない。
「2……」
大丈夫、うまくいく。
『北の森の異変の元凶』は間違いなくこいつだ。
それを発見して報告するイベントの報酬が、10000ウィル。
つまり、飛竜を見つけて逃げるだけなら、その難易度は『ヘルサラマンダー』討伐より下ってことだ。
「1……」
だからうまくいく。
絶対うまくいく。
だからって焦っちゃダメだ。
バラバラに逃げたらきっと遅れた奴がやられる。
だからあと一秒、動くなよ。
あと少し、あと少し、あと少し……!
「0! ナキ!!」
弾かれるように動き出して、飛竜から背を向けながら叫ぶ。
間髪を入れず、後ろで閃光。
これに飛竜が少しでも気を取られてくれたら……。
そう願いつつ、
「逃げろ逃げろ逃げろぉ!!」
声を張り上げて叫ぶ。
叫びながら必死で足を動かす。
だが、『魔力機動』は使わない。
俺が提案した作戦である以上、殿は引き受けるつもりだった。
この場から逃げたがる足を叱咤して、駆け足を緩める。
減速した隣を仲間が駆けていく。
先頭は意外にもナキ。
足先に魔力を載せて、跳ぶように駆けていく。
だが、一瞬こちらを窺う目付きには理性の光がある。
先行して余裕を作ったら、理術で相手を牽制してくれるつもりか。
そこから遅れて珍しく表情に余裕のない奏也が、更に今にも泣き出しそうな顔の七瀬が駆け抜けていく。
なら、あとは月掛だけだ。
この調子なら行けるか?
俺はかすかな安堵を覚えながら少しだけ後ろを窺って、愕然とした。
……月掛がいない!
すぐ後ろに続いているのかと思った月掛の姿が、視界に映らない。
別の方向に逃げたのか!?
足を更に緩め、危険を承知で完全に体を後ろへ向かせる。
「なに、やってんだよお前…!」
振り向いたその先に、俺はあってはならない物を見た。
――月掛は、逃げていなかった。
遥か後方、飛竜から攻撃を受けたその場所に、じっと立ち尽くしたままだった。
「あんたほんとサイテイね。振り向くなって言ったのに」
視線に気付いて苦笑する月掛に、怒鳴ろうとする。
「何やってるんだよ! さっさと……」
だが、途中で気付いた。
きまり悪げに笑う彼女の左足は、黒く炭化していた。
「これ、さっきのブレス。
あたしとしたことがちょっとドジっちゃった。
この足じゃ、どうせ逃げられない。
……さっさと行って」
そう口にする間も月掛は飛竜に一歩も引かず、弓を構えた。
だが、その弓を持つ手はここから見てもはっきりと震えている。
「こいつ、前に空で羽をやられてから人を必要以上に警戒してる。
わたしが弱いことに気付く前に、早く!」
「だが……!」
「行ってよ! あたしが泣き叫んで逃げ出しちゃう前に、早く!!」
その涙声に、言葉を失った。
飛竜はじりじりと月掛に近付き、今にも襲い掛かろうとしている。
この世界でモンスターがなぜ人を襲うのか分からない。
だが、ここで月掛を置いていってしまったら、一体何が起こるのかだけは明白だった。
(月掛…!)
なぜかその時浮かんだのは、穂村の顔。
俺を知らない人間のような目で見る、現実世界での穂村の顔。
確かに、ナイトメアの死は本当の死でないかもしれない。
だけど、それが何の救いになる?
今ここにいて、俺たちと一緒にいた月掛はいなくなってしまう。
(やっぱり置いてはいけない!)
俺が戻ろうと、足を踏み出しかけた時、
「何をやってるんですか!!」
肩を、つかまれた。
奏也だ。
先行していたはずの奏也が、俺の所まで戻って来ていた。
「彼女の犠牲を無駄にするつもりですか!?
あなたが戻ったって、どうにもなりません!
この世界には、どうしても諦めなくちゃいけない物があるんです!」
肩を揺さぶられて、そう言われる。
そうだ。
全くその通りだ。
「……逃げましょう。
それが、彼女に報いる唯一の方法です。
少しでも冷静になって考えれば、分かるでしょう?」
その、言葉に……俺は、心が洗われるような心地がした。
「ああ。そうだな、どうかしてた」
冷静に冷静に、感情では動かずに。
自覚した途端、思考が空転を始め、頭の回転数だけが際限なく上昇していく。
「『オーバードライブ』」
あまりの事態に使うのを忘れていた『オーバードライブ』を自分に掛け直す。
こういう危機的状況でこそ頭でっかちになるのが俺だったはずなのに、すっかり動転して考える前に感情で動いていた。
危機にあって危機を忘れるとか、俺の脳もいい加減どうかしていた。
「……さて」
飛竜の様子を、観察する。
相手は絶対的強者。
そんな予断が俺から冷静な観察力を奪っていた。
飛竜はじりじりと月掛に近付いているものの、いまだに攻撃には至っていない。
その様子は、確かに用心深いというより、怯えているようにも見える。
なるほど、これなら確かに、時間の稼ぎ方によっては一人の犠牲で全員が助かるかもしれない。
俺はほっと息をついた。
(全く、俺はほんと、肝心な所でバカだな)
そう、自嘲する。
何しろさっきまでの俺は、月掛の行動に動転して、彼女の所まで駆け寄っていこうとしていたのだ。
そんな無駄に飛竜を刺激するような行動を取れば、たぶん俺が向こうに着く前にまず月掛が殺され、ちょうど駆けつけた俺が次に殺されていただろう。
少しでも頭を使えば、そんなことをするのは間違いなく下策だと分かる。
そして、それ以上に、一瞬でも月掛を助けるべきかなんて悩んだ自分が恥ずかしい。
冷静になってきちんと頭を働かせれば、考えるまでもなく、答えなんてとっくの昔に出ているのだと気付いたはずなのに……。
「さあ、行きましょう」
奏也の言葉に、俺はうなずく。
「ああ、行く!」
本当の本当に、考えるまでもないことだった。
さて、問い、だ。
『目の前で女の子が化け物に襲われそうになっています。
あなたはどうしますか?』
こんな質問にどう答えるか、真面目に考えたことはあるだろうか。
少なくとも、俺にはもうその必要はない。
なぜなら、想定された全てのパターンで、その結論は同じだったのだから。
「全力で、助ける!!」
もう結論の出ていることに悩むなんて、馬鹿みたいだった。
ろくに考えもせず、感情に任せてただ駆け寄ろうとするなんて、もっと馬鹿みたいだった。
――だから俺は、俺にしか出来ない方法で、月掛を助ける。
駆け寄っても間に合わないのなら、それ以上の速度で飛んでいけばいい。
「行、けぇええええええ!!」
俺は『魔力機動』を全開にして、月掛の許へと飛んでいく。
――後悔なんてしないし、迷いなんてない。
どうせ俺には、最初からこの選択肢しか選べないのだから。




