26.5. ある少女の憂鬱
「寒い……」
『彼女』は目を覚ますなり、そう呟いた。
昨夜は特に寝つきが悪かったとか、そういうことではないはずだった。
なのに『彼女』の体は重く、またじっとりと寝汗をかいていて、それが冷えて『彼女』の体から体温を奪っていた。
それに、体が冷えただけでは説明出来ない寒気もあった。
何かが奇妙で、何かがしっくりこない。
あるいは自分は大事なことを忘れているのかもしれないと『彼女』は思う。
根拠はないが、ただなんとはなしに嫌な思いをした、という気分だけが体に残っていた。
「学校、行かなきゃ……」
それでも、明確な体調不良でもなければ『彼女』に学校を休むなどという選択肢は思いつかなかった。
寝起き特有の緩慢な動作で、『彼女』は顔を上げる。
『彼女』の視線の先、そこには彼女の通う学校、『宿鳳高校』の制服がかかっていた。
人目を避けるように足早に玄関を進み、下駄箱で靴を履きかえた所で、
「おはよう! あれ、どうしたのそれ?」
明るい声に呼び止められた。
後ろからの声だったが、『彼女』が自分のほとんど唯一の友人の声を聞き損ねるはずがない。
声の主は、『彼女』の友人の高宮杏子だった。
「……おはよう」
杏子を振り返り、言葉少なに挨拶を返す。
別にそんなこともないのだが、生来の気弱さからあまり発言しないせいなのか、学校での『彼女』は無口で寡黙な人間、ということで通っている。
ただ、人見知りにとって無口な人間と思われるのは利点でもある。
『彼女』もそれを進んで利用させてもらっていた。
だが、杏子はそれくらいで諦めてはくれなかった。
「それでこれ、どうしたのよ?」
そう言って、『彼女』が首に巻いたマフラーを引っ張ってくる。
冬でもないのにマフラーを巻いている『彼女』の格好を奇異に思っているのは明白だった。
「ちょっと、朝寒気がしたから、念のためにしてただけで……」
『彼女』はそう言ってマフラーを首から外した。
それを見て、杏子は呆れた顔を浮かべる。
「もう! 昨夜また薄着で寝たりしたんじゃないでしょうねぇ!
体には気をつけろっていつも言ってるじゃない!」
そんなことを言いながら、『彼女』のことを心配そうに見てくる。
しかし、内向的な『彼女』はあまり他人の干渉を好まない。
「大丈夫だから……」
世話焼きでお節介な友人の手をすり抜けながら、『彼女』は教室へと歩き出す。
いつもの朝の風景。そのはずだった。
しかし、すぐに異変は『彼女』を襲った。
起きてからここに来るまでの中で、ずっと感じていて、けれど目をそらしていたこと。
「ちょっと、ホントに顔色悪いじゃない。
やっぱり保健室に行った方が……」
再三に渡って杏子が話しかけてくるが、その声もぼんやりとしか聞こえない。
呼吸が苦しい。
息が出来ない。
それに……。
「――おっと、悪い!」
「っ!?」
走ってきた男子にぶつかり、『彼女』はよろめいた。
男子生徒は振り返りもせずに走っていってしまったが、
「もう! 気を付けなさいよ!!」
本人よりも先に、隣にいた杏子が大声で注意をする。
結局一度も止まらずに逃げていってしまった男子に杏子は頬をふくらませるが、すぐに『彼女』に視線を戻し、
「全く、これだから男って奴は……。
大丈夫だった?」
そして、彼女に起こった異変に気付いた。
「ひっ! ぁ、ぅあ…!」
もう、限界だった。
『彼女』はふらふらと壁によりかかり、必死に自分の体をかき抱く。
怖かった。
なぜか人が、特に男が、怖くてたまらなかった。
――見たこともないはずの記憶がフラッシュバックする。
喉を切り裂かれて倒れる男。
返り血を浴びながら笑う男。
そして……。
「……いた、い」
ぶつかっていないはずの、へその下辺りが急にキリキリと痛み出す。
それは突然の刺すような痛みで、『彼女』は耐え切れずにその場にうずくまった。
「こ、こずえ!!」
杏子が駆け寄ってくる。
それを『彼女』は座り込んだまま、まぶしそうに見つめる。
正直に言えば、少し憧れてもいた。
お節介焼きで、正義感が強くて、空気が読めない所があって、だけど絶対、自分の正しいと思ったことは曲げなくて……。
――わたしもこんな人に成れたら、と、そう思うこともあった。
しかし、そう考えれば考えるほど、まるでその不遜な考えを戒めるように、お腹の痛みが増してくる。
なんとなく、これは罰なのだと思えた。
何の罰なのかは分からない。
ただ、生意気で身の程知らずな自分に対する罰なのだと、今の『彼女』にはそう思えた。
だから……。
「だい、じょうぶ。わたしは大丈夫、だから……」
そんな強がりを言って、『彼女』は独りで、立ち上がる。
けれど、どこかで聞いたようなそのフレーズは、『彼女』に不思議と勇気を与えた。
よろめきながらも、教室に向かって歩き出す。
「で、でも……」
杏子は心配そうな態度は見せるものの、直接行動に出ることはなかった。
友人の見せた意外な頑固さに、当惑しているようだった。
杏子に見守られながら、『彼女』は数歩、前へ歩いていき……。
ある教室の入り口に差し掛かった時、
「……あ、ブリザード」
杏子がたぶん無意識に漏らした言葉が、『彼女』の運命を変えた。
「――ッ?!」
杏子の視線の先には、不思議な少女がいた。
冬でもないのにニット帽にマフラー、ロングコートまでを身に着けて、それでも怜悧な美貌を見る者に印象付けずにはいられない、その少女。
『彼女』がしていたマフラーなんて、あれに比べれば何ほどのものでもなかった。
学年一の有名人、四方坂ナキ。
その姿を見た瞬間、『彼女』は強烈な既視感にとらわれる。
(わたしは、あの人に、会ったことがある…!!)
学校ですれ違ったとか、偶然話をしたとか、そんなレベルのことではない。
確実に明確な意図を持って関わったことが、何か特別なつながりを持ったことがあると、『彼女』はなぜか確信した。
「ね、ねぇ、こずえ? 今度はいったい、どうしたのよ?」
友人の言葉にも、視線を動かせない。
『彼女』は四方坂ナキを、じっと見つめて……。
「……?」
その視線が、ある一つの方向を向くことが多いことに気付いた。
よく観察してみなければ分からないほどの小さな事実。
だが、四方坂ナキは明らかに、教室のある一点を気にしていた。
(いったい、何が……)
芽生えた好奇心が、『彼女』にその視線の先を追わせた。
そして、
「――あの、ひと?」
そこに一人の男子生徒の姿を認めた時、『彼女』の意識に逆流してくる記憶。
『七瀬! 大丈夫、大丈夫だから!!』
『だい、じょうぶ。七瀬は、大丈夫だから…!!』
聞いたこともないはずの声が、『彼女』の中を満たしていく。
「……こずえ?」
訝しげな杏子の声に、我に返る。
そして、彼女の言葉には、答えないままで、
「すぅぅ、はぁあああ……」
大きく息を吸って、吐く。
さっきまでの苦しさが嘘のように、自由に呼吸が出来た。
刺すようだったお腹の痛みも、今は感じない。
あれだけ恐怖を感じていた周りの人間も、今はそれほど恐ろしいとは思わなかった。
(あの人が、いるから…?)
理屈なんて、何も分からなかった。
理屈なんて、何もなかった。
ただ、あの人を見ただけで、全部が大丈夫になった気がした。
「こずえ、本当の本当に、大丈夫なの?」
そうやって、やっぱり心配そうに聞いてくる友人に、
「うん、わたしは、大丈夫だよ」
心からの笑顔で、そう答えながら、
(――あの人、なんて名前なんだろう)
『彼女』、七瀬こずえは、そんなことを思ったのだった。
そして21話に続く……みたいな感じです




