24.飛翔、そして……
「一体どうしたのよ、いきなり!!」
月掛がヒステリックに叫ぶ。
しかしその声は俺の耳には入っても、俺の心を震わせることはなかった。
俺の意識は全て前に、向こうで飛竜と戦っている縁に向けられていた。
俺がどれだけ叫んでも、縁にこの声は届かない。
何しろ縁がいるのは遥か高空。
声など届く距離ではない。
では、こちらに気付いてもらうにはどうすればいい?
合図になるような派手なスキルやアイテムを使う?
いや、今の俺にはどちらもない。
それに……。
――俺は、呆然とこちらを見ている四人の姿を視界に収める。
最後の理性が俺を押し留めた。
ここで竜を呼び寄せれば、俺だけでなくここにいる全員に累が及ぶ。
なら、諦めるのか?
目の前に縁がいるのに、彼女がどこかへ飛んで行ってしまうのを指をくわえて見守って、次の幸運を待つのか?
――そんなこと、出来る訳がない。
そしてだとしたら、俺が取れる手段なんて、もう一つだけに決まっていた。
「みんな、悪い。……俺はちょっと、行ってくるよ」
だから俺は、呆ける四人にそう告げた。
不安定な樹上で立ち上がる。
ここからあの竜たちまでの距離はどのくらいだろうか。
百メートル、いや、二百メートル、……もっとか?
目測ではその距離は判然としなかった。
だが、行ける。
行けると信じる。
俺の『魔力機動』は地面に足をつかずに移動することが出来た。
なら、空を飛べない道理はない。
俺は全身に横溢する魔力を感じながら、縁の許へ、今も飛竜と戦い続けている縁の所まで、飛んでいこうと体に力を入れて、
「い、行かないで、ください……」
自分の手が、小さくひんやりとした何かに掴まれているのに気付いた。
「……七瀬」
七瀬だった。
七瀬こずえが、震える手で俺の手を掴んでいた。
「じ、事情は、知りませんけど、危ない、ですよ?
だってあんなに竜がいるんですから、危ない、すごく、危ない、です。
……だから。だからわたしを置いて、行かないで、ください」
虚ろな笑い。
どこか俺の機嫌をうかがうような怯えた声で、七瀬は俺に懇願する。
――俺は、俺の手を掴む、七瀬の手を見た。
小さい手だ。
失う恐怖に震える手だ。
そしてそれは、一度は俺が取った手でもある。
口には出さずとも、面倒だとは思いつつも、共に歩むことを決めた相手の手だ。
だが、今の俺に、迷いは微塵もなかった。
「……悪い」
俺は、その手を引きはがす。
「……あ」
七瀬は笑顔のまま固まって、ただ振りほどかれた自分の手を見ていた。
その姿に少しだけ胸が痛んだが、それでも俺は七瀬に背を向けた。
少しだけ、『魔力機動』でその場に浮き上がる。
高い場所でも、問題なく使える。
大丈夫、飛べる。
空を、俺が行くべき場所を見上げる。
もう少し、そこにいてくれよ、縁!
今、俺が、会いに行くから……。
そう思って、飛び出そうとした時だった。
「……んっ?」
俺は、裾が引かれる感触に動きを止めた。
七瀬がまた、手を伸ばしたのだと思った。
もう一度、振りほどこうと思った。
しかし、
「…行っては、ダメ」
聞こえた声は、七瀬の物ではなかった。
その声はもっと静かで、もっと澄んでいた。
「…………」
なぜか俺は何も言えず、振り向くことすら出来なかった。
振り向いたら、もう飛べなくなってしまう気がした。
それは困る。
だって、目の前に縁がいるんだ。
俺が行かないと、いけないんだ。
「……行、く」
自分でも驚くようなか細い声を出して、俺は『魔力機動』を発動。
その手を振り切って、空に飛び出していく。
「コーイチ!!」
名を呼ばれる。
聞いているだけで身を切られるような、感情のこもった声。
なぜかその声は、ナキの物のように思えた。
だが、あり得ない。
いつも冷静で、どんなに怒っている時ですら言葉を乱すことのなかったナキが、あんな声を出して俺を呼び止めるなんて、あり得ない。
第一、ナキがどんな声で俺を呼ぼうと、今の俺には関係…ないことだ。
なのに耳から、その声が離れない。
その残響を振り切るように、ぐんぐんと高度を伸ばす。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛んでいく。
この世界で手に入れた全てを地上に置き去りにして、俺は空を、縁の許へと飛んでいく。
「こっ、の!」
『魔力機動』は飛行能力ではなく、任意の場所まで体を動かすだけのただの移動術で、そのため小刻みな移動しか出来ない。
もともと継続的に空を飛ぶようには出来ていないのだ。
俺はカクカクと不器用な飛行をしながら、必死に上へと向かう。
縁と飛竜たちはまだ戦闘を続けていた。
しかし、戦いの趨勢はもう明らかだった。
飛竜は数が多いが、しかし能力に差があり過ぎる。
今も縁の一撃に片翼を落とされ、一匹の飛竜が地面へと墜落していく。
羽を失った飛竜はもがくが、一枚だけの翼で空が飛べるはずもない。
どんどんどんどん落下していく。
――もしHPが切れたら、俺もああなるのか。
考えて、ぞっとする。
確か俺のHPは52だったはずだ。
ポーションでHPが全快すると考えても、俺が『魔力機動』を使えるのは、最大でも150回ちょっと。
それまでに縁の許に辿り着けなければ、俺はあの飛竜のように地面に落ちて死ぬ。
「いや、絶対に、辿り着く!」
帰り道のことは、あえて考えなかった。
出来る限り一回の機動で距離を稼ぐことを考えながら、俺は空を駆けた。
――まずいな。
状況が変わったのは、俺が二個目のポーションを飲み終えた時。
視界に映る飛竜の姿が目に見えて大きくなり、この調子ならHPが切れる前に辿り着けると安心した頃だった。
縁の強さに、これは勝てないと判断したのか、飛竜たちが方針を転換した。
縁を無視して、移動を再開したのだ。
今まで自分たちが向かっていた方向に向かって、それぞれが少しバラけながら最高速度で逃亡する。
そして縁がそれを逃がすはずもなく、飛竜たちと同じ速度で並走しながらも、もはや一方的に飛竜たちを狩っている。
飛竜に追いつくことなんて造作もない縁からすれば、相手が攻撃しなくなった分、むしろ倒しやすくなっただろう。
だが、問題は俺だ。
こうなると、そもそも大した速度が出せない俺は、縁たちから引き離されていく。
このままでは永遠に追いつけない。
決断が、必要だった。
――行くしかない、か。
俺は静かに覚悟を決め、予定を変更した。
目標を変える。
この速度で移動する縁には追いつけない。
だから……。
――最後尾の飛竜に、攻撃を仕掛ける。
無謀だというのは、分かっている。
だがこのままでは、縁たちには引き離されるばかりだ。
俺が追いつける可能性があるとしたら、もう最後尾の飛竜くらいしかいない。
そしてそいつを攻撃すれば、後ろの方の何匹かの飛竜は、俺に対するべく何らかの動きを取るだろう。
もしかすると、縁が飛竜の異変に気付くかもしれない。
もしかすると、縁が俺に気付くまで、飛竜の攻撃を避けられるかもしれない。
もしかすると、縁が最後尾までやってきて、俺に気付いてくれるかもしれない。
仮定に仮定を重ねた可能性。
だが今の俺には、それにすがるしか手段が思いつかなかった。
「『オーバードライブ』!」
虎の子の『オーバードライブ』を発動する。
一時的にだが、『魔力機動』の飛距離と移動速度が増大。
飛竜よりも、瞬間的に速くなる。
――これなら、届く!!
最後尾の飛竜まで、あと『魔力機動』二回分程度の距離しかない。
幸か不幸か相手はまだこちらに気付いていないが、それでも問題ない。
これなら間に合う。
何とか届く。
「もう、少し…!」
グンッと風が躍る。
空気を裂いて、飛竜が迫る。
「よし、行け――」
俺が届いたと確信した、その刹那、
「――っが?!」
衝撃が、貫く。
遅れて、背中に鈍い痛み。
『魔力機動』に使っていた集中が途切れる。
「―――?!!?!?!!?」
何が起こったのか分からない。
ただ、気が付くと俺は落ちていた。
「あ、ぁあ、うわぁあああ!!」
飛竜が、縁が遠ざかる。
這い上がろうと必死で手をばたつかせる。
体が回転して、上下左右も分からない。
「『魔力機動』!」
それでも俺は諦めなかった。
自分の向いている方向すら分からなくても、体を止めることなら出来る。
それから、もう一度飛竜のいる場所を見定めようとして……。
――その時、奇跡的にそれが見えた。
俺が後にしてきた、あの大樹。
奏也が、月掛が、七瀬が、それにナキがいるはずの大きな木。
そして、そこから高速で飛来する氷の槍を見て、俺は全てを理解した。
「ぐぅっ……!」
避けよう、と思う暇すらなかった。
俺にぶつかった氷の塊が、俺の残ったHPを、俺の意識ごと吹き飛ばす。
落ちる。
落ちていく。
どこまでも、落ちていく。
朦朧とする意識の中で、遠ざかっていく縁の姿が見えた気がした。
『……光一?』
頭を、撫でられる感触。
『まだ、起きてる? でも、そのまま眠ってて、ね?』
なぜだろう。
目が、開かない。
『突然こんなこと言われて、びっくりしたよね』
早く目を開けて、縁の顔を見なくちゃいけないのに……。
焦る心とは裏腹に、体がぴくりとも動かない。
『でも、大丈夫だよ。目が覚めたら、今の話も、わたしのことも、全部忘れてる』
何、言ってるんだ?
俺は、お前を忘れない。
『だから光一は、もう何も心配すること、ないから……』
俺が縁のことを忘れるはずなんて、ない。
ずっと一緒にいたんだ。
これからも、ずっと一緒にいるんだ。
『たとえわたしを忘れても、光一がどこかで生きていることが、わたしの希望、だから』
そんなの当たり前のことで。
当たり前のことの、はず、なのに……。
『だから、わたしは行く、ね』
気配が遠ざかっていく。
『ごめんね、光一。さよなら……』
遠ざかる気配に向かって、動かない手を伸ばす。
なぜ、体が動かない。
今だ。
今、縁を止めなくちゃいけないのに。
なぜ、舌が動かない。
今こそ縁の名前を呼ばなくちゃいけないのに。
――縁!
心の中で、彼女の名前を叫ぶ。
なのに、俺の口はぴくりとも動かない。
それでも声なき声で叫ぶ。
叫び続ける。
縁!
行かないでくれ、縁!!
(――縁!!)
「――縁!!」
反射的に手を伸ばして、自分がまだ空にいることに気付いた。
衝撃で数秒間、意識を失っていたようだった。
『魔力機動』が使えなくなった俺の体は今も落ち続けているが、その速度は思ったほどではない。
「これ、は…?」
俺の体を包む薄い光の幕が、落下の速度を軽減しているようだった。
それでも楽観出来るほどの速度という訳でもない。
「く、ぅっ!」
HPがなくなった以上、俺に空中で出来ることはない。
成す術もないまま、地表が近付く。
――ぶつかる!!
ドン、という鈍い音が腹の奥まで響いて、俺は悶絶した。
「……はは。いてぇ」
だが、何とか生きてはいる。
体の下の固い感触が、今は心強い。
痛む体を動かして、体を仰向けに転がす。
空を、見上げた。
「遠いな……」
今も戦い続ける飛竜と縁が、空の向こうに小さく見えた。
手を伸ばしても、到底届かない場所だ。
これから追いかけても、俺には絶対に追いつけないだろう。
(終わった、か……)
失意と喪失感が、気怠く体にのしかかる。
何を考えたらいいか、分からない。
考えなくてはいけないことが多過ぎて、頭が働かなかった。
ただぼんやりと、未練がましく空を見上げる。
不意に、空を見る俺の視界に影が差した。
「……ナキ」
どこをどうやって俺を追いかけてきたのだか、ナキの服はボロボロで、額からは血が流れていた。
少し耳を澄ませば、荒い息遣いまで聞こえる。
それでもナキは、いつもと変わらない平静な声で、俺に問いかける。
「…頭は、冷えた?」
その言葉に、俺の脳は瞬間的に沸騰した。
いくつかの恨み言と、同じだけの感謝の言葉が同時に脳裏に湧き上がった。
……分かってる。
あのままだと俺は、勝算もないまま飛竜に突っ込み、何も成すことなく死んでいただろう。
だからナキは大樹から俺を狙撃して俺を止め、落下速度を軽減する魔法をかけて、俺の命を救った。
攻撃魔法を当てたこと自体は責めるつもりはない。
そうでもしないと俺は止められなかっただろうし、こうして生きているということは、ナキはきちんと威力まで計算して魔法を撃ったということだろう。
それでも、あのまま進んでいればほんの僅かでも縁に会える可能性はあった。
だから止めないで欲しかったという想いと、命を救われたという想いがぶつかって、息が詰まった。
そうして、結局俺の口から出たのは、
「……ああ」
という短い肯定の言葉だけだった。
「…………」
「…………」
それきり、何も言えないでいる俺の顔に、ぽたり、と滴が落ちる。
涙かと思ったが、拭ってみると赤かった。
だが、ナキはそんなことは全く気にしない。
自分の負傷などないかのように、黙って俺の顔に杖を突きつけた。
「……ナ、キ?」
杖を突きつけたまま、俺を見下ろす。
そして、そんな状況でも表情一つ変えないまま、ナキの唇がゆっくりと動いた。
「やりたい事を、やればいい。行きたい所に、行けばいい。でも……」
冷え切ってなお、ぎらつく眼光が俺を貫く。
「…命を捨てるような真似だけは、絶対、許さない」
――あぁ、ナキはいつだって正しい、と思う。
本当は、俺にだって分かってた。
今の俺じゃあ、あそこまで届かないってことは。
仮に縁が、あの場から動かなかったとして……。
俺のHPが、そこに着くまでなくならなかったとして……。
そして戦闘中の縁が、ちゃんと俺に気が付いたとしても……。
一体俺に、何が出来ただろう。
俺にはあの飛竜の攻撃を防ぐことも、避けることも出来ない。
縁にかばわれて、それでも生きていられたか怪しい。
足手まといになった挙句、縁さえ危険に晒していたかもしれない。
縁は遠い。遠過ぎた。
今の俺には届かない場所に、縁はいた。
俺はそれを認められず、我儘な子供のように振る舞って、自分の命を捨てようとしたんだ。
――強くなろう、と思う。
ただ、縁を見つけるだけじゃない。
今の縁に並び立てるだけの力をつけて、見つけてもらうんじゃなく、自分から縁に声をかけたい思う。
「なぁ、ナキ……。ナキ?!」
それをナキに告げようとした時、ナキの体が、不意に傾ぐ。
杖がカランと横に落ちて、力を失った体が俺にのしかかってきた。
鈍い体に鞭打って、かろうじてその細い体を受け止める。
「限界、だったのか」
度重なる魔法の行使、怪我に出血、そして疲労。
それでも俺の所に駆けつけてくれたことに、胸の奥が熱くなる。
(……大丈夫、そうだな)
耳元で聞こえる規則正しい寝息に、俺はちょっと安心した。
ナキの体が地面に落ちないように抱え直して、驚く。
あんなに冷たい目をしているくせに。
学校では、ブリザードなんて言われているくせに。
「温かいんだな、お前の体……」
それだけのことが何だか新鮮で、後から後から涙が出た。
じんわりと温かいナキの体を抱いて、俺は、静かに泣いた。
――最後にもう一度だけ、空を見上げる。
あれだけ大きかった飛竜は、もう空の小さい点に変わっていた。
どうやっても追いかけられそうにないし、もうそんな気はない。
今の俺には届かないのだと、はっきりと理解出来た。
もちろん、諦めた訳じゃない。
いつか俺は、あの高みまで駆け上がる。
そして、胸を張って縁に会いに行く。
だけど、今は……。
「ただいま、ナキ」
――俺はここに、みんなのいる地上に、戻ってきたのだった。