1.ハロー、トラベラー
――たぶん、『あの日』から一ヶ月と少し前。
『ゲーム? 夢の中で?』
俺は、縁の突拍子のない話に、つい驚きの声を上げてしまった。
『あんまりびっくりしないでね、って言ったのに』
縁は少しだけ唇をとがらせた。
そんな仕種も愛らしい、ではなくて、
『だけど、そんなこと出来るのか?』
『分からないよ。分からないから、聞いてるんだし』
こっちとしてはもっと訳が分からない。
『そもそもお前って、夢で見るほどゲーム好きだっけ?』
俺も縁も、ゲームはあまりやらない方だったはずだ。
かろうじて俺は最新のゲーム機くらいは持っていたりもするが、縁の家にそんな物があったかどうかは……正直記憶にない。
『やらないよ。特にRPGとかそういうのあんまりやったことないから、最初は苦労した』
まだ少しだけふくれっ面のまま、縁がぶっきらぼうに言う。
『苦労、って?』
『キャラクタービルド、とか、パーティの構成、とか?』
『はぁ?』
縁の口からあまりに似合わない言葉が出て来て、俺はつい間抜け顔を晒してしまった。
『そんな顔しないでよ。なんとなく集団のリーダーみたいなのを任されちゃったから色々大変だったの!』
顔を真っ赤にして怒る縁もやっぱり愛らしい、ではなくて、
『あ、悪い。でも、なんか本格的だなって思ってさ』
ちょっと失礼な態度を取りすぎたか、と俺は慌ててフォローを入れた。
それを聞いても縁はまだ不機嫌そうな顔をしていたが、俺が頑張って視線を外さずにいると、やがて表情を緩めた。
『んー、もういい。光一にゲームのこと、色々聞いてみようと思ったけど、考えてみれば光一だってそんなにゲーム詳しい訳じゃないもんね。ネットとか使って自分で調べる。
あーあ、説明書さえあればなぁ……』
そして、ようやく機嫌を直した縁に対して、
『さすがに夢にマニュアルはないだろ』
と無神経な一言を言ってまた縁をふくれっ面に戻すことになるのだが、それもまた、遠い日の記憶で……。
「……ただいま」
俺はあいさつというより、独り言みたいにそう言い捨てながら、玄関の扉を開けて、
「おかえり」
すぐにその返答が返ってきたことに驚いて、玄関の前でしばし、硬直した。
「おかえり、お兄ちゃん」
それが不満だったのか、自分の存在を主張するみたいに、もう一度声がかけられる。
それで、ようやく俺の硬直は解けた。
「な、何だ、結芽か」
息をつくようにそう言って、俺は靴を脱いだ。
声の正体が義妹だと分かって俺は少しだけ緊張を解くが、それでも心臓はなかなか平常運転に戻ってくれない。
靴を脱ぐためその場にかがんでいる間にも、妹の視線を感じる。
上からのプレッシャーがすごい。
靴を脱ぎながら、ちらりと前をうかがう。
妹の真っ白な素足と、その少し上辺りまで垂れた、水色のエプロンの端が見えた。
これの色違い、俺も持ってるんだよな、なんて考えながら、出来るだけ時間をかけて靴を脱ぐ。
それでもそんな時間稼ぎには限界がある。
とうとう靴を脱ぎ終えてしまった俺は、顔を上げながら妹に何でもないように声をかけて、
「どうしたんだよ、こんな所で。何か用事でも……」
「お兄ちゃんを、待ってた」
最後まで言わせてももらえなかった。
妹は、その黒目がちの大きな瞳にどこか思い詰めた色をたたえて俺を見ている。
……正直、何か色々ぞくぞく来た。
「お兄ちゃん。最近結芽のこと、避けてるよね」
疑問ではなく断定。
想像して然るべきだった指摘に、それでも律儀に動揺する心を鎮めるのに数瞬。
けれどすぐに持ち直して、俺は必死に取り繕って口を開いて、
「まさか。そんなことな――」
「それって、好きな人ができたから?」
またも、言葉の出足を潰される。
しかしそれも当然か。
俺と結芽では言葉に入れている力が違う。
こいつの言葉はいつも直球勝負だ。
あらゆる意味で遊びがない。
だから妹は攻め手を緩めない。
「天壌先輩は、お兄ちゃんのことなんてたぶん気にもしてないよ?」
痛烈な言葉を、たぶん、俺に痛烈に響くだろうと考えている言葉を、容赦なく吐いてくる。
……だが残念。
そんな言葉に意味はない。
そんなことはとっくに知っている。
そもそも、俺が『惚れているという設定の』天壌先輩とは廊下ですれ違ったことすらない。なのに気にされていたとしたら、それの方がずっとホラーだ。
俺の無言をどう解釈したのか、妹は少しだけ語気を緩めて俺に歩み寄ってくる。
「ねぇ。お兄ちゃん。前みたいにはできないのかな?
好きな人ができたら、妹とは一緒に話すこともできないの?」
「…………」
俺は、何も答えられなかった。
そもそも、順番が違う。
好きな人が出来たから前のように話せないんじゃなくて、前のように話せないから、好きな人が出来たなんて嘘を吐いたんだ、なんて事情、当人に話せるはずもなく、
「悪い。疲れてるから」
その一言だけで話を打ち切ると、
「お兄ちゃん!」
無言の背中で妹の声を跳ね返しながら、俺は自分の部屋に向かう。
それでも、妹の声は俺を追いかけてくる。
「待って! お兄ちゃん、ご飯は?」
「…要らない。向こうで食べてきた」
嘘だった。
けれど、要らないのは本当だ。
まるで食欲がわかない。
もういっそこのまま寝てしまおうと考えながら、俺は部屋に入る。
ドアが閉まる瞬間、
「――こんなのぜんぜん楽しくないよ、お兄ちゃん」
耳に飛び込んだ言葉なんて、聞こえなかったふりをして。
「ふぅ……」
俺は後ろ手に部屋のドアを閉め、手早く制服から着替えるとベッドに倒れ込んだ。
――俺たちが倦怠期の夫婦みたいな会話を交わす羽目になったのには、一応理由がある。
結芽は俺の本当の妹ではない。
一年ほど前のある日、家主の諒子さんが、
「今日から家族が増えることになったよ」
と言っていきなり連れて来たのが、彼女、遠野結芽だった。
突然新しく出来た家族に当然俺は戸惑ったが、幸いにも結芽と俺の相性は悪くなかった。
俺たちは少しずつ少しずつ、お互いのことを理解していって、それにつれてゆっくりと、ちょっとずつ仲良くなっていって、段々と仲良くなっていって、さらに仲良くなっていって、もっと仲良くなっていって、もっともっと仲良くなっていって…………結果、仲良くなりすぎた。
普通の兄妹なんて物を知らなかった俺たちは、お互いに愛情を注ぐことにばかり夢中になって、いつの間にか兄妹という関係性を飛び越えてしまっていた。
……いつからだっただろうか。
妹の俺を見る目が、妙に熱く潤んでいることに気付いたのは。
……いつからだっただろうか。
妹の俺への態度に、単なる兄妹愛以上の何かを見出したのは。
いくら義理とはいえ兄妹で色恋沙汰なんて冗談にもならない。
何より、俺たちをこうして養ってくれている諒子さんに申し訳が立たない。
――そうして俺は、結芽の熱が冷めるまで、妹と距離を取ることを決めた。
そうは思っていても、無邪気に懐いてくる結芽を邪険に扱うのはどうにも心苦しい。
おまけに付け焼刃の兄の悲しさか、そういうことを意識してからこちら、どうしても結芽を『妹』ではなく『かわいい年下の女の子』として見てしまう自分にも気付いていた。
だからせめて、好きな人が出来たと言って距離を置こうとしたのだが、
「それを理由に詰め寄って来られちゃ、逆効果だよなぁ……」
あの妹が、そんな嘘でどうにかなるような相手であるはずがなかった。
「あー、もういいや! 寝よ寝よ!」
本当に眠る気なんてなかったはずだったが、これ以上起きていても気が滅入るだけだ。
蛍光灯の光を、腕をかざしてさえぎる。
そのまま全てを忘れるように目をつぶって、頭の中を空っぽにする。
幸い遅くまで遊び歩いていたせいか、自分の想像よりも体は疲れて眠りを欲していた。
意識は瞬く間に、夢の世界へと旅立って……。
(……あれ?)
気が付いた時、辺りは真っ暗になっていた。
(俺、いつ電気消したっけ?)
そんな呑気なことを考えたのも束の間、すぐに異常に気付く。
(なんだ、これ…!)
明かりどころの話じゃない。
俺は今、自分の疑問を声に出して言ったつもりだった。
なのに、声が出ない。
いや、声の出し方が分からない。
(なんなんだ? なんなんだよ、これは…!)
それどころか、体の感覚が一切ない。
手を動かそうにも、手の動かし方が思い出せない
足を動かそうにも、足がどこにあるのかすら分からない。
目や耳も鼻も利かない。
世界を知覚する全ての情報が遮断されていた。
何が何だか分からない。
あまりに状況が理解出来ず、パニックを起こしかける。
――だがそんな時、闇に『声』が響いた。
「ハロー、トラベラー。
ナイトメアの世界にようこそ。
貴方は7013027492人目の探訪者です」