プロローグ
――たぶん、十日ほど前のことだったと思う。
月明かりの下で、俺はいつものように縁と話をしていた。
『世界は暗闇に包まれ、既存の秩序や法則は全て崩壊し、確かな物は何一つありません。
この世界で貴方が初めに見つけた物は何ですか?』
『それ、何の心理テストだ?』
突飛なことばかり言う奴だったが、今日のそれは一際荒唐無稽だった。
『んー。悪夢の世界を生き抜けるかどうかのテスト、かもね』
『意味が分からねえよ』
なんて突っぱねても、俺が縁の言葉を無視できるはずもなく、数秒ほど置いて、俺は結局答えていた。
『光、かな?』
『ひかり?』
意外そうな顔をされたけど、それほど意外な答えでもないはずだ。
『だって、真っ暗なんだろ? だったら懐中電灯でも、ペンライトでも何でもいい。
とにかく明かりがないと、困るじゃないか』
『どうして?』
真顔で聞いてくる。
『どうして、って……』
それが当たり前だからと、俺はそう答えたかった。
しかし、縁の表情がそれを許さない。
なぜなら実際に、俺が考えていたのはもっと別の理由なのだ。
『どうして明かりがないと、困るの?』
それを読み取ったみたいに、窓から身を乗り出して、幼なじみの顔が近付いてくる。
俺は、これに弱い。
急に心臓が狂ったみたいに高鳴って顔面に熱が集中して、何を考えていいのか分からなくなる。
そして、それが分かっててこいつはこんなことをしてくるのだ。
『だって、明かりが、ないと……』
だから俺は、為す術もなく重い口を開く。
耳の後ろを流れる血潮の音が耳障りで、月明かりで火照った顔を見られないように、微妙に顔を逸らしながら……。
それでも、俺は言ったんだ。
赤面物の台詞を、真顔で。
『お前を、探しに行けない』
それを聞いて、不意打ちを受けたみたいに目をまるくして、それからその顔が泣きそうな形にくしゃっとゆがんで、まるで泣き笑いのような顔で、縁は――
「ごめんね、光一。さよなら……」
「お兄ちゃん!」
静寂を揺らす無粋な声に、俺はゆっくりと目を開ける。
途端に俺の網膜に、刺すような人工的な明かりと、年下らしき少女の顔が映る。
――こいつ、誰、だっけ?
まだ、頭が働かない。
――というか、ここ、どこだっけ?
まだ、意識が夢の中からもどらない。
当たり前に分かるべきことが、何も理解できない。
世界の空気に体がなじまず、体の機関が全て空転している。
「なんでお兄ちゃんはこんなとこで呑気に寝てるの?!」
そんなこと俺にだって分からない。
とにかく体が重い。
眠らせて欲しい。
「縁お姉ちゃんがお兄ちゃんだけどっかに連れてっちゃったから、なにかあるのかなって思って、結芽もついてきたのに!」
――縁、お姉ちゃん? それに、お兄ちゃん?
脳が軋みを上げる。
――結芽、か。ええと、こいつは俺の妹、だったっけ?
「もーいいよ! わたしはまた寝ちゃうから!」
ベッドの正面にある扉を開けて、
「もう全部知らないから! 絶対起こさないでね!」
奥の部屋に行ってしまおうとする結芽。
――あれ? こいつ行っちゃう、のか?
なんとなく、奥に見えたベッドだけの部屋が寂しげで、
「結芽!」
俺は意味もなく、結芽を引き留めていた。
「なに?」
結芽が俺を、驚くほど感情のこもらない目で見る。
「あー、その……」
思えば、たぶんここで俺は少しだけ、夢から醒めた。
夢から醒めて、なのにまた寝ぼけたことを言った。
「いい夢、見ろよ」
これはないだろう。年下とはいえ思春期の少女に、そんな子供だましにもならないような言葉が意味をなすはずがない。
案の定、結芽は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに悪戯っぽい笑みでこちらを見返してきた。
「へー。お兄ちゃんは、わたしにどんな夢を見てほしいのかな?」
申し訳ないが、そんなに期待するような目で見ないで欲しい。
こっちの脳みそは既に限界だ。
眠りたい。とにかく眠りたい。出来れば楽しく眠りたい。
「俺と結芽が楽しく暮らす夢、とか?」
そんな連想から生まれたその苦し紛れの言葉は、意外にも結芽にまで届いたようで、
「ふぅん。……それはとても、いい夢だね」
温かい言葉を返してくれた、と思う。
なのにその時結芽が浮かべた寂しげな表情。
それは、少女に似つかわしくない、とてもとても、大人びた顔で、
「おやすみ……お兄ちゃん」
それでも結局扉は閉まる。
結芽の姿は、その奥に消えていく。
「おやすみ……結芽」
それを見届けて、俺も目を閉じた。
――それが、俺にとって全ての終わりで、全ての始まりだった日の記憶。
この日こそが俺の、平和で平凡で平穏だった日常が、退屈だけれど愛すべき世界が終わった日。
そして、俺の前から縁が消えた日だったのだと思い出すのは、だいぶ後になってからの事だった。