炎帝
満月に浮かぶ満月は美しく、夜風が吹けば葉同士が擦り合って静かな音を奏で、さらにこの薄暗い森の中で一人でいると怖くて仕方ない。恐怖心を押し殺し、明は黙々と足を動かし続けていた。
少しでも安心感を得るために自分の周りに小さな炎を浮かばせると、それだけで恐怖は薄れていく。剣の柄に触れて、いつでも抜刀できるようにしながらレオとディーンと共に行った手合せを思い出していく。
出る前にも手合せしていたのは自分の前世――「炎帝」の二つ名を持つガウスに対する恐怖と不安を押し殺すためだった。
幼いながらも卓越した剣術の才能を持つレオと村の中で優れた技術を持つディーン。二人のおかげで明は成長できた、と実感しているが「炎帝」を前にして果たして通じるのか、わからない。
「レオは今頃呪術でも解かれているかな」
ルナティカがレオに呪術がかかっている、と一目で見抜いていたため、今晩のように満月の夜には解呪には最適だと彼女は言っていた。今頃はその呪術を解くための儀式を行っているのかな、とぼんやり考えているといつの間に森がなくなってしまい、それを目にした明は我が目を疑う。
「なんでここにマグマが……」
そう、マグマがあった。
足元は大地だったはずなのに硬い石へとなっており、様々な大きさの穴の中にあるマグマは鮮やかな赤一色。
あまりの暑さに汗が額ににじむ。
「よぉ」
「……!」
声のした方向に目を向ければ、風呂に浸かるように一人の男がマグマの中にいた。寝癖みたいに跳ねた燃える赤い髪、鋭い目つきに紫色の瞳の男――ガウスは明に出会えて嬉しいのか、好戦的な笑みを浮かべている。
明は思わず訊いてしまう。
「あ、暑くないの……?」
「いや、これがちょうどいいぐらいの温度なんだから平気だぜ」
「平気じゃないよね? 普通に人が死ぬほどだと思うはずだよ?」
「そうだなぁ。まぁ、オレの肉体は既に朽ちているから、これは精神的に暑さを味わっているだけだ」
入るか? とさり気なく誘うガウスに明は遠慮する。
「んで、おまえ、「破壊の炎」はうまく扱えているか?」
「ガウスさんから授かったそれは無理だけど、火の魔法として扱っているよ」
明の答えを聞いて、ははっと楽しそうに笑うガウス。
「おう。それでいいぜ。なにせ、「破壊の炎」は存在する物質すべて燃やし尽くすからな。おまえが望めば、この世界さえもあっさりと滅ぼせるかもしれねぇぜ?」
「残念だけど、僕には守りたい人がいるからそんなことはできないよ」
「だろうなぁ。一応アドバイスしておくが……「破壊の炎」は一部のみ燃やすことが可能だ。ま、いまのおまえはどこかの超気まぐれの風の精霊王によってそれを封印されているから、そういうことさえできないはずだが」
ガウスの口から放たれた超気まぐれな風の精霊王は、明が知る限り一人しかいない。アイリスだ。封印されていることには気が付かなかった明は、そっか、あの時なんだ、と納得した。
竜の谷でドラゴンゾンビと戦う時にアイリスが明の身体の中に入って、鎧になるときに何かに気付いていたのは、きっと内に眠るこの「破壊の炎」のことだろう。だから、彼女はあえて自分には言わずに勝手に封印を施した。
「お。あっちはおっぱじめやがったか」
あっちとは、吉夫と彼の前世であるヨシュアとの戦いのことだろう。ガウスが指を鳴らすとマグマは消えていき、代わりに円形闘技場へと変わっていく。二万人以上も収容できるほどの大きさで、頭上には満月と夜空が映える。
「オレたちの舞台にはふさわしい場所にしておいた。ここはオレが昔に何度か行ったことがある帝国の闘技場だ……まっ、いまも同じ形をしているか、知らんがな」
紅い軽鎧をいつの間に纏い、その手には紅蓮の剣を握るガウスは調子を確かめるように何度か振るってから明に牙を剝けた。
上段から振り下ろされる一撃を咄嗟に展開した風の衣で受け流し、腰に差している剣を抜いて、お返しとばかりに反撃を行う。ガウスはあっさりとかわし、距離を取った。
「ほぉ。よく反応できたな、勇者サマ」
「嫌って言うほど奇襲されたから、これぐらい余裕だよ」
お互いに軽口を叩き合いながら、睨み合いながら明は展開していたはずの風の衣が消えていたことに気付く。普段ならば何度も受け流せるはずの風の衣を、こうも軽々と一振りだけで消されるなんていままで経験したことがなかった。
風の衣さえあればどのような攻撃でも受け流されると過信していたから、背筋が凍る。もしも、ガウスが本気で剣を振っていたら両断されていたかもしれない。
「ちっ、その変なもんのおかげでおまえを斬れねぇとはな。ま、いっか。軽く試してみたもんだし、次にまた同じことをしたら叩き切ってやればいいしな」
風の衣を打ち消したガウスは握っている剣の調子を確かめている間に、明は剣を上段に構えた。竜王から授かった剣に魔力を込めれば風が纏い、それを縦、横、斜めと連続で遠距離から斬撃を飛ばす。
迫り来る斬撃を前にしてもガウスはその場から動くことなく、それらを切り伏せたガウスはつまらなそうに明を見つめる。
「おいおい、勇者サマよぉ。もっと男らしく戦えよ」
「なら、僕なりそうさせてもらうよ」
この男には正面から向かい合わないと勝てそうもない。
そう実感した明は自分を中心に現れる二つの緑色の帯――風の衣を展開しては、打ち出す。鋭く回転していく風の衣――風の牙と化したそれをガウスはまたもや切り伏せ、そこへ明は剣に炎を迸らながら斬りかかる。
剣同士が触れ合い、炎が飛び散る。
「そうだ、勇者サマ! もっとだ。もっとオレを昂らせろ!」
明は足元から熱が発せられるのを感じて、鍔競り合う状態のまま相手の力を利用して自ら後ろに弾き跳ぶ。直後にぼこっと地面が膨らんでき、火柱が噴き出した。距離を取った明は脚に風を纏わせると、円を描くようにガウスの周りを走り出す。
「いい判断だ。立ち止まれば、さっきの火の柱で焼かれちまうからな。でもな、こんなこともできちまうからな」
指をぱちんと鳴らすガウス。
円を描きながら彼の様子を窺っていた明は背後に灼熱の奔流を感じ、さらに速度を上げた。一歩進めば追いかけるように火の柱が牙を剝き、埒が明かないと判断した明は仕掛けることにした。
足の裏に火を集わせ、爆発させることで一気に加速した明は退屈そうに剣を大地に突き刺すガウスの首へと剣を振るう。
「ふんっ」
「なっ……!」
不機嫌そうに鼻を鳴らしたガウスの首を切り裂く――はずの剣は弾かれた。何もしていないはずなのに、ただそこに立っているだけのガウスは体勢を崩す明に目もくれない。
そこへ火の柱が真下から噴き出し、咄嗟に風の衣を展開することで直撃を免れた明。しかし、灼熱の奔流が消えるまでの時間、その中でしばらく過ごすことになった明は大量の汗を流しながらガウスからできるだけ距離を取った。
「ほぉ……生き残りやがったか。じゃ、火の矢でも浴びな、色男」
火によって作られた数本の矢が飛来してくるのを明は打ち落とし、最後の一本になったところで肩に見えない何かが触れ、弾けた。それは熱く、軽い衝撃。だが体勢を崩すには十分なもので、明の太ももに矢が突き刺さる。
身体の内側を焼かれる痛みにうめき、その矢を抜いてすぐに闘気で傷を塞ぐ。
眼前には透明な何かを握っているガウスがいて、恐らく彼が使用しているのは|火炎の鞭(フレイムウィップだろう。使い手によっては伸縮自在なもので、火魔法を扱う者ならば誰もが最初に習う魔法。
どのようにその鞭を消しているのか明にはわからない。しかし、炎帝であるガウスならばそれぐらい簡単なことかもしれない。
見せつけるように剣を掲げて火を集わせていけば、好戦的な笑みを浮かべて明の行動を待っているガウスに仕返しを行う。
火は――オレンジ色となり、一回だけ地下都市スビソルで巨大ゴーレムを相手に使用した技を脳裏に思い浮かべ、剣を振り下ろす。オレンジ色の鳥――不死鳥を連想させる鳥がガウスを呑み込まんとばかり襲いかかる。
顔色を変えたガウスは火炎の球で打ち落とし、火の柱で潰そうとして火の鳥の勢いを殺す――つもりだったが逆にそれを取り込み、大きくなっていく。
「はははっ、最っ高じゃねぇかよ勇者サマ!」
眼前に迫る火の鳥を前にしてもガウスは逃げ出すこともなく、むしろ迎えるように腕を広げて、呑み込まれた。明は油断せず、追撃を行う。相手はあの炎帝ガウスだ。「この程度」で敗れるわけがない。
燃え盛る炎の周りに複数の小さな火炎の球を展開させていき、囲んだところで爆ぜろ、と命じた。一つ爆ぜ、その両脇にあった火炎の球にも同じ出来事が起こり、次々と展開していたそれは連鎖爆発を起こす。
アイリスからは風魔法を習う明だったが、ルナティカが持つ魔導書に火魔法について詳しく書かれているのを借りて、空いている時間にはよくそれを読んでいた。おかげでガウスの扱う魔法は目にしただけである程度わかる。先程の爆発は上位火魔法だが、こうもあっさりと使用できたのは前世であるガウスのおかげかもしれない。
上位火魔法をあっさりと使用できても、魔力の消費は激しいものだが、これで決まって欲しいと願いながらも警戒を怠らない。
「ふっー……あっつくなってきやがったな」
火が収まっていくと、「無傷」のガウスが涼しげな顔で立っていた。炎帝の二つ名を持つ彼には火魔法を無効化できる術があるかもしれない、と考える明はガウスを見据え、剣を構える。
ガウスの攻撃に備えていると、彼が握っている剣の刀身がゆらりと揺らめく。一瞬だけ目の錯覚だと疑い、けれどもすぐに現実であることを思い知る。揺らめいたガウスの剣が「伸びて」いき、それに気付いて後退した明は身体中から冷や汗を流す。
もしも、後退していなければ首元を裂かれていたかもしれない。
「おっ。ほとんどの奴は避けきれずに終わるのに、これをかわすとはやるじゃねぇかよ勇者サマ」
余裕を感じさせる笑みを浮かべるガウス。
彼相手にこれ以上火魔法を発動させても、また無効化される恐れがあるからもう使わない。だから――明は覚悟を決めた。彼に勝つためには最後の手を使うしかない。
「――〈風の欠片〉解放」
言葉を紡ぎ、身体の内側に眠る〈欠片〉の力を呼び覚ます。初めて〈風の欠片〉を解放した時はアイリスと一緒にいたから気にならなかったことだが、これはきつい。
濃密な魔力があふれ、一瞬だけ意識を持っていかれそうになるのを唇を噛んで耐える明は、これを制御できた吉夫に感心してしまう。
もっとも、彼の場合はこんな「些細な事」さえ気にしていないのか、またはそんなことさえ気付いていないのか。
アイリスにもしも〈欠片〉の制御に失敗したらどうなるのか、と問いかけたらこう答えた。
理性を失い、目に映るすべてを破壊し尽す怪物に成り果てる、と。
そうなるつもりなどない明は眼前に立つ「炎帝」ガウスを見据え、雄叫びを上げた。
「僕は絶対におまえを倒して、フローラさんのもとに帰るんだっ!」
闘技場に風が吹き抜け、たったいま〈風の欠片〉を解放した明に集うのを目にするガウスは何もすることなく、嬉しそうに笑みをこぼす。
「そうだ、そうだぜ勇者サマ! いや、アキラっ。おまえはなぁ、もっと明確な目的を持たないといけねぇんだよ! どんなことでもいいんだ。そう、たったいまおまえが口にした女のためにオレを倒すこととかもな!」
勇者サマからアキラ、と呼ばれたのはガウスに認められただからか。
いや、そんなことはいい。
異世界アースに召喚されて以来、ガウスの前世であったことを知り、ユグドラシルの姫から「勇者」という肩書を得ていた明だが、彼が口にした通りに明確な目的などなかった。
ただ誰かの役に立てればいいと思っていた明はフローラと出会い、彼女に惹かれ、はっきりと恋人とはまだ言えないけれど、もっと傍にいて支えてあげたい。
そして、この戦いに勝ったご褒美として彼女に膝枕でも要求してみよう。密かにそう決めた明が一歩踏み出す。
「ほぉ」
左手の手元に火を迸らせるガウスは明の姿を目にして感心したように声をこぼす。
風に包まれていた明の身体は緑色の鎧へと変化し、それが〈欠片〉の影響なのか、もしくはアイリスが〈欠片〉を発動させたのを察してこれを寄越したのか。恐らく前者だろう。アイリスが鎧を寄越すということは、彼女が自らその姿にならなければならない。
彼女は村で待っているのを、明は風を通して知る。いまも、フローラは明の帰りを待ち望んでいる。
たとえ、ガウスの親友が創り出した空間でも風さえあれば、どのようになっているのかだいたいのことはわかる。
そして――知った。
それを知ってしまった以上、明はガウスとの決着をなるべく早く終わらせなければならない。滾る感情を糧にして、対峙する自分の前世に声をかけた。
「……ねえ、ガウスさん。悪いけれど、もう戦いを楽しまないでくれない? いまからあなたを速攻で叩きのめさないといけなくなったからね。だから――本気でかかってきて」
「おいおい、急に雰囲気が変わった奴が何を言い出すかと思えば――」
ガウス目掛けて駆け出す明はまさに吹き抜ける風の如く速く、さすがの彼もこれには対処できずに腕を切り落とされた。黙ってやられるわけにもいかないガウスは切り落とされた左手に迸らせていた火を大蛇へと変える。
背後から牙を剝く大蛇のことなど気にも留めない明はただ剣を振るう。
「邪魔だよ」
大蛇を切り裂いた明はそのままガウスへと距離を詰めていき、驚く彼との戦いを終えるために剣を振るう。
「危ねぇな」
振るわれた剣はガウスの右腕で受け止められ、後退した明は静かに彼を睨み付ける。ほんのわずかな隙でも見せればそこを突いて、終わらせてやる、という意味を込めて。
それに気付いたガウスは、くくっと喉の奥から押し出すように笑い、やがては声に出す。
「それがおまえの本気なんだな、アキラ。おまえに何が起きたのかわかんねぇが、こっちも全力で相手してやるよ」
「そうしてくれると、すごくありがたいね。でも――」
剣に「雷」を迸らせた明はそれを二度振るい、地下都市スビソルで吉夫とヴィヴィアルトが行った十字星を再現した。
「さっさと本気出さないと、僕があなたを倒すよ」
十字の斬撃をガウスは右腕で防ぐかと思えば、彼は足元から噴き出た炎に呑み込まれてしまう。炎によって斬撃は防がれ、明はその中にいるガウスに風の息吹でもぶつけようとしたが、思いとどまる。
炎に身を焦がすガウスがおかしい。
斬撃を防ぐだけならば、炎に身を包まなくてもいいはずなのになぜ彼はそうしているのか。徐々に炎で包まれている彼の姿は人から怪物へと変わっていく。
「――さぁ、本気で殺し合おうぜアキラ。これがオレの本気だ」
咆哮が響き渡り、熱風が吹き荒れる。それを発したのは捻くれた羊の角、一対の翼、右腕の先と足には鋭利な爪を生やす存在――紅い悪魔がいた。あれが、ガウスの本気。
もしも、弱者が彼を目にすれば気圧されてしまい、何もできずに死を迎えるだろう。明も例外ではない。だから、気圧されている明は呑み込まれないために雄叫びを上げた。
そうしたら、ほんの少しだけ落ち着いた。
「ほお、よくも逃げずに立ち向かおうとするじゃねぇかよ」
「ここで逃げ出すわけにはいかないよ。これから、何度も同じ状況になりそうだからさ」
「だろうな。これから先、オレ以上の強者と剣を交えることになるのは、間違いねぇな」
楽しそうに不敵な笑みを浮かべるガウスに明は前へと進む。彼の進行を阻むかのように何度も火の柱が噴き出し、それでも明は怯まなかった。
すんでのところで身体をよじってかわし、一度きりの風の衣を展開して受け流し、たとえその熱さで身体が限界を迎えようとしても明はやめるつもりはない。
ガウスの懐に飛び込み、彼の心臓に剣を突き刺した――と思えば、姿が掻き消えて、背後に膨大な熱量が集うのを風で感じた。振り返ることなく、明はこの状況を打破するために己の内側に眠る〈欠片〉に願う。
明の想いに応えるように〈欠片〉はとある魔法を推奨し、躊躇なくそれを発動させた。
振り下ろされるはずの灼熱の腕は、彼を中心に発せられた鋭く、透明な刃で引き裂かれる。巻き込む物質すべてを呑み込み、切り刻む竜巻によって。
竜巻によってガウスの腕は弾かれたけれども、彼自身はそこにいる。
「おいおい、アキラ! こんな風程度でオレを消せると思うじゃねぇぞ!」
そんなこと、わかっているよ。
口に出すことなく、足元に熱が帯びていくのを察した明がそこから離れれば灼熱の息吹が大地を焦がす。明がいなくなったことで竜巻が消え、代わりに紅い悪魔が魔法を唱え終えていた。
「とっておきでも味わっておけ。紅蓮の流星」
明の頭上に流星群の如く火炎の球が降り注ぎ、回避させる間も与えないためにガウスは火の柱も発動させた。
宙に浮かぶ場所まで噴き出る火柱と空から降り注ぐ火炎の球。おまけにガウスは火によって作り出した巨剣を振るう。
どこにも逃げ場などない。だが、逃げ場がないのであれば編み出せばいいだけのこと。
己と相手の速度を高める「加速」をかけた明はさらに上乗せさせて、宙を駆け抜けていく。
火炎の球は鎧を掠め、大地から噴き出る火柱は左足を焦がし、ガウスの巨剣を剣で受け流しきれずに右肩をかすめ、爆ぜた。痛みで顔をしかめながらも明は止まらない――止まってはいけない。いま、止まればすべてが台無しとなる。
風の如く宙を駆け巡る明の眼前には風船みたいに大きく膨らんだ火炎の球があって、それの危険性に気付いた瞬間に――爆ぜた。至近距離での爆発によって身に纏う鎧はすでに無残な姿に変わり果て、明の肉体が限界を迎えようとしていた。
「まだだ、まだ僕は止まるわけにはいかないんだ!」
〈――――〉
願いに応えるように〈欠片〉が先程と異なる力を明に与え、世界が一瞬だけ時を停める。停滞するその世界の中で唯一動けるのは、明だけ。停まった世界の中で仕上げを行い、宙に浮かぶのもやっとの明は肩で息をしながら叫ぶ。
「これで……僕の勝ちだ!」
再び世界が動き出すと同時に、逃げ回っていた時に設置していた風の刃がガウスに襲いかかる。ただの風の刃ではない。〈欠片〉で威力を上げた風の刃だ。
巨体を次々と斬られていくものの、ガウスの目はまだ戦いを諦めてはいない。
削られた炎の腕を伸ばし、最後の足掻きをするガウスだが――風の刃によって本体が見えたところで明が剣を投擲したことで、消え失せる。もしも、彼の本体が現れていなければ、こちらがやられていた。
ガウスを倒せたことで安堵してしまい、身体の力を抜いてしまった明は宙に留まることもできずに地面に落ちてしまう。普段の明ならば体勢を整えることができたはずだが、疲労と痛みによってそれすらまともにできそうもない。
「ったく、世話を焼かすなよ」
そんな明を優しく受け止めたのは、火で編み出された蜘蛛の巣だった。こんなことができるのは、この場で一人しかいない。倒したはずのガウスだ。
心臓に深く突き刺さっているはずの剣を手にして、けれども貫いた場所には穴ができている。
「さっさと良くなりやがれよ、アキラ」
ぶっきらぼうに言葉を紡ぐガウスと共に明を受け止めている蜘蛛の巣が熱を帯びていく。攻撃ではないことぐらい、明はわかっている。熱を帯びていく蜘蛛の巣に触れているだけで、身体に蓄積されていた疲労と痛みが徐々に消えていく。
身体を起こすのも億劫だったはずなのに、いまではすっかりよくなっている明はガウスに感謝した。
「気にするな。オレがやりたいようにやっただけだ」
素直じゃないガウスに明は苦笑する。
「僕にもこれと同じ魔法、習得できると思う?」
「なんでもあっさりとできる天才なら、割と簡単だろうな。……お」
何かに気付いたガウスに明もまた、それを知る。もうまるで未練などないかのように、足元からゆっくりと姿を消していくガウスの肉体。ガウスがこの世に思い留まったのは、親友のヨシュアを独りきりにさせないためと、親父――かつて勇者と呼ばれた彼と本気で剣を交えたかった。
ガウスの前世を知る明はこれでよかったのかと彼に問いかけた。
「ガウスさん。君のお父さんじゃなくても、よかったのかい」
「ああ。いずれ、オレの親父を超えるかもしれない男と本気で戦えて満足しているからな」
「それは買い被り過ぎだよ」
「ははっ、そうかもしれねぇな」
こうして会話しているだけで彼の肉体は残りは上半身だけになってしまう。
「なぁ、アキラ」
「なんだい」
「本気で愛した女を守り抜けよ。オレみたいに愛した女を喪うようなヘマするなよ」
「わかったよ。君がどんな想いをしたのか、記憶を通じて痛いほど味わったからもう二度と起こさないよ」
「おう。んじゃ、ありがとよ、アキラ」
最後にそう言い残して、ガウスの存在はこの世からいなくなる。すると、帝国の闘技場は霞むように姿を消していくと、代わりに周囲は薄暗い森へと。ガウスが握っていた剣を鞘に収め、身体の調子を確かめてみるとまだ気怠さは残っているが戦うことはまだできる。
この気怠さは〈欠片〉の解放のせい。さすがにガウスでもそこまでは回復させることができなかったのか、それともできない理由があったのか。どっちにしろ、いまはどうでもいい。
いまは――愛しい人のもとまで駆けつけなければならない。
両足に風を纏い、騒めく森の中を疾風の如く駆け抜けていく明。その頭上では大きな何かが羽ばたき、それが嗤うのを彼は知らなかった。