月明りの下
「つまらないなー」
ふわふわと宙を漂うアイリスはやることが特に見つからず、明たちと離れて一人で死霊の森の中を探索している最中であった。風の精霊王と呼ばれているアイリスだけども、それは単に他の精霊よりも力が強く、気が付けばそのように呼ばれていただけ。
探求心と好奇心が強いアイリス。
だが、まだ死霊の森に訪れたことがなかったため、ここでしか採れない薬草や果実はないのか、ときょろきょろと目を動かし続けるけれども、どれもフィオナの森にあるものと同じ。
「んー……やっぱりアキラたちと一緒にいればよかったかな」
少しだけ後悔してしまうアイリスだけども、たまにはこうして一人でどこかで歩くのも悪くはないと結論を出して、またふわふわと宙を舞いながらこれからのことを考え出す。
死霊の森で明と吉夫の用事を終えたら、次に向かう場所は聖都。その次は水の都か魔の国、もしくは魔術都市。聖都や水の都にいる他の精霊王たちと交流するのはいいけれども、魔の国にいる精霊王だけには会いたくない。
さり気なくセクハラをされてしまうから、嫌だ。
魔術都市はついこの間、帝国で新作お菓子が出ると聞いてついでによってみると、人々が新たな技術を編み出しているのを知った。すでに空を駆ける船――箱舟が発明され、少数ながらも短時間で海を越えた大陸まで物資を運べることが可能。
いまは、海の奥深くまで潜れる何かを発明中とのこと。その発明にはエルフ、ドワーフ、魔族が関わっていることを知っているのは極わずかだが、どうやら順調だと風を通して知ったアイリスはいつかそれに乗って、海の中を探索したい。
「そうだ。いまのうちにアキラに教える風の魔法について考えておこうっと……」
魔の国に住まう精霊王のことを考えただけでぶるりっと身体が震えたので、紛らわすために明に何を伝授するのか思考しだす。勇者の片割れである吉夫は何かをきっかけに〈雷の欠片〉を解放したので、明にも〈風の欠片〉を扱えるためにいろいろと教えなければいけない。
いずれ、明は何かをきっかけに吉夫と同じように〈欠片〉を解放するかもしれないので、戦闘と日常で使える風魔法を選別していく。
「まっ、アキラにあっさりと死なれたらわたしが困るからねー」
陽だまりのように心地よい明の肩に座ることが好きで、彼がいなくなったらもう二度とあの温もりを味わえないから、命を落とさないようにしっかりと鍛えておかないと。
ささやかな自分に変化に気付いて、これも悪くないかなーとくすりと笑みをこぼすアイリス。
ひっそりと静まり返っている死霊の森で、陽気な鼻歌を奏でるアイリス。明とフローラに習得させる風の魔法と鍛錬について予定ができたので、あとは彼らがいる場所まで戻るだけだったが――
「ふむ。リッチだけを集めるのは意外と面倒なことだな。しかし、この魔法陣の効果はしっかりとしている。他の魔物を引き寄せることなどなく、特定の相手のみに効くならば問題はないな」
何かに納得して、満足している男性の声が聞こえた。このような場所で人がいることに驚きを隠せないアイリスは声がした方向に向かい、気付かれないように気配を消しながらそれを目にした。
窪んだ髑髏の眼窩に灯るのは燃えるように揺らめく紫、錆びかけた銀色の杖、綻びた魔導士の服。高位の魔導士がアンデット化した存在――それがリッチ。
また自ら命を落とし、永遠の命やさらなる魔術を取得するためにリッチへと至る人間もこれまでいたけれども、正気を保てないため、魔物になったという話ならば聞いたことがある。
もっとも、いまではそのようなことは行われてはいないけれども、昔は永遠の命欲しさに老いた高位の魔導士がそうしていたのを、アイリスは忘れたことはない。
そんなリッチの眼前に立つのは白衣の老人だった。しかも、リッチの数は三体。老人は臆することなく、むしろ喜びながら三体の不死者たちがそれぞれ唱える魔法を観察している。
「ほうほう……素晴らしい! さすがはリッチではないか。人には到底達することなどできない魔法を魔物へと至ることで習得し、さらに呪術を組み合わせることでより複雑で、強力な魔法を発動できるとは。やはり、リッチのみ引き寄せることをして正解であったみたいだ」
三体のリッチから放たれた闇の波動は一つへと混ざり、大地を腐食しながら老人の息の根を止めにいく。老人は不死者たちの魔法が発動してもなお、その場から動くことなどなく、嗤う彼は受け入れるために両手を大きく広げた。
「――しかし、残念だ。君たちの魔法はこの私には届かない。私が欲しいのは〈火の欠片〉を宿す少女の魂に刻む呪術の材料だけだ。完全に感情を封じ、人形のように動いてもらわないと困るのだよ」
老人の命を奪うはずのリッチたちの魔法は不可視の壁に当たったかのように弾け、雪の如く周囲に降り注ぐ。
その瞬間だけ、アイリスは黒い雪が降っているかのように思えて見惚れてしまう。しかし、それが樹に触れると黒く滲み、腐らせていく。我に返ったアイリスはそれに触れないために風を巻き起こして回避させながら、先ほどの彼が使用した魔法に心当たりがあった。
「まさか……あいつと同じ魔法……?」
似たような魔法を目にしたことがあるアイリスは警戒心を高め、いますぐここから離れて明たちに老人のことを報告しようと動き出そうとした矢先に、自慢するかのように彼は口を開く。
「くく、何もわかっていない君たちに説明する必要なんてないさ。もしも君たちにほんのわずかの知性と理性さえあれば、私は教えていたかもしれないが生憎ながら忙しいのでそれはできないのだよ。さぁ、見せたまえ。私の編み出した呪いを完成させるためにもっと本気でかかってきたまえ」
必殺の一撃を破られて動揺しているリッチたちに挑発していく老人。怨嗟と憎悪を撒き散らしながら三体のリッチは今度ばかりは異なる魔法を発動しながら、彼を殺そうとするけれども、不可視の壁に遮られて届かない。
「ああ、素晴らしい。なんて、素晴らしいものだろうか。人の魂と身体に呪術を刻む実験をするよりも早く、君たちに出会っていれば私の実験成果は失敗ではなく、成功していたかもしれない」
嗤う老人のその言葉にアイリスは思い当たることが一つだけ、あった。
小さな村で人が前触れもなく化物へと変化するのを怯える風の精霊を通じて知り、おかしいと感じたアイリスは竜王とともにそこへ向かうと地獄絵図だった。
人間の身体が膨れ上がり、嫌な音を立てながら魔物へと変化し、村に住む人々を殺し、喰らい、蹂躙していた。最初はほんの数名だけだったのに、視界に映るほとんどの人たちは魔物に姿を変えていき、やがて脅威になりえると判断した竜王は彼らの命を奪う。
一人残らず村人を殺すはずだったのに、幼い少年だけは竜王の攻撃から死を逃れた。彼が命を落とさなかったのは、その身に宿る魔族の能力のおかげ。その少年のみ保護し、その日のうちに調査をしてみれば人間の魂と身体の両方に呪術が刻まれていたことに気付く。
翌日には保護した少年の姿はどこにも見当たらず、だが、青年に成長した彼が竜王に牙を剝いたことは先日起きている。
小規模な呪いは、あれ以来一度も起きていないけれども、アイリスは彼こそがそれを起こした張本人だと判断し、力を解き放つ。研究のために他者を犠牲にして何とも思わない老人の息の根を、風の精霊王として止める。
リッチを倒し、地面に転がる杖を拾う老人に渦巻く風で切り裂こうとしても、やはり不可視の壁に遮られてしまって彼には届かない。三本の杖を拾い終えた老人はアイリスを見上げ、嗤う。
「おやおや。これはこれは珍しい。風の精霊王が私の目の前にいるとは……なんという幸運だろうか」
「幸運じゃなくて、不運だよ。だから――さっさと消えて。神の息吹」
たった一言だけ紡がれると、老人の周囲のみ陥没していき、彼には傷一つさえ負うこともなかった。風の中で最上位の魔法にも関わらず、彼に届かない。アイリスは確信した。彼は「あいつ」と同じ系統の魔法を扱っている、と。
横向きに鋭く回転する竜巻――風の息吹で様子見してみれば、これは弾けて消えてしまう。
「どうかね、風の精霊王よ。少々神の領域へと足を踏み込んだ私の魔導は」
「少々どころか、ただのまねしているくせに偉そうに言わないでよね」
「まねではないのだよ。それくらい、わかっているだろう。風の精霊王よ」
天才であることを自覚している彼にあえて挑発してみても、揺れることのない老人。少しでも揺さぶって、その隙をついて彼の吸う空気を奪い、窒息死させたかったけれども老人の纏う魔力のせいでできない。
おまけに「あいつ」――世界を滅ぼそうとした邪神の魔法「消滅」まで習得しているからこそ、やっかいな相手だ。
だけど、ここで止まってはならない。彼を、いま明と吉夫に会わせる訳にはいかない。
「悪いけれど、ここで帰ってもらうよ」
「ふははっ、残念ながらそうはいかないのだよ、風の精霊王よ」
風の精霊王と狂ったように笑う老人の魔法が死霊の森で激しくぶつかり合う。