風の精霊
昨日、明とフローラが保護したのは緑色の半透明な少女――アイリスは自ら風の精霊であると名乗り、それから自分たちと一緒にいたい、と頼んできた。出会って間もないはずなのにこうやって一緒にいたい、と願い出るアイリスに困っている明にフローラが風の精霊は気まぐれじゃからな、と教えてくれた。同時にフローラは彼女になぜあの場にいたのか問いかけてみるが、アイリスは道に迷って魔物に襲われた、と答える。
「うわぁー」
明の肩に座るアイリスは愛嬌のある大きな瞳をきらきらと光らせ、口からよだれがこぼれていく。そんな彼女の様子に明は苦笑し、フローラはなぜか不満そうにしている。
彼らがいるのは”竜の里”の市場。
朝一番から開かれる市場は多くの人でにぎわい、買ってもらおうとするために店主たちは声を張り上げる。スー山脈の朝は寒いが、ここで生きている人たちにとっては慣れたこと。
まだ寒さに慣れない明は厚手の服を着て、フローラはいつもの民族衣装で市場を歩き続ける。たまにアイリスが物欲しそうに見つめる食べ物を明が買い、フローラには焼き鳥をあげる。焼き菓子を食べ終えたアイリスは口元に粉がついていたので、それを取ってあげると彼女は恥ずかしそうに目をそらし、気をそらすように話しかける。
「アキラって勇者だよね? つまり、この世界に召喚されたことっていいよね」
「そのことについて昨日話したけど……そうだよ」
「ただの確認だよっ。でね、異世界ってどういう感じなのか教えてくれないかな。わたしたち風の精霊って気まぐれだし、自由に生きるの。それでいて好奇心旺盛っていう感じなんだ」
「そうなんだ……。フローラさんも僕の、いや僕たちがいた世界について知りたい?」
静かにこちらに耳を傾けていたフローラに訊いてみると、彼女は口にすることなく首を縦に振って肯定した。
歩きながら話すというのも悪くはないが、明としては落ち着いて話したいので、昨日フローラといたあの草原に行くことにした。そこに行くまで明は自分たちの世界についてある程度語る。
魔物がいない世界。魔法という存在がないかわりに、”能力者”という者たちがいうこと。食べ物やお菓子の話題ではアイリスが想像しているのか、よだれをこぼしていたので、元の世界に帰ることができたら買ってあげようと考えてしまう。
自動車や飛行機ということに関しては二人とも驚いていた。どうやってそのことを詳しく語ったのかと言えば、前者は馬車が発展した形、後者は……と悩んでいるときに商人たちが使う”箱舟”を思い出してそのことについて説明した。
商人たちが使う”箱舟”にさすがに二人も納得したようにふむ、とかうんうんと、頷いていたりする。草原に着く頃は明はある程度自分の世界のことについて語ったが、アイリスだけは納得できないように”能力者”ってなに? という疑問をぶつけてきた。
「吉夫いわく魔法みたいなものだってさ。僕もだいたい説明できるけれど……これが一番しっくりくる言葉だね」
「ヨシオって誰なの?」
「僕の親友だよ」
「そっか。じゃあ、今度会ったときに聞いてみよう!」
楽しそうにくるくる飛び回るアイリスに、明は苦笑しながら”能力者”のついて語っていた吉夫が懐かしむように、しかしどこか怒りを隠せないように話してくれた。吉夫が自分たちの学校に転校してきて、ある程度鈴音と打ち解けたときに教えてくれた話。
それはきっと彼には、吉夫には忘れることのできない話かもしれない。なぜなら、その人物が親友で、裏切られた、と告げたから。
「アキラ?」
フローラに呼ばれて、自分がいつの間に立ち止まっていることに気付いた明。先に前に進んでいた二人になんでもない、と返して歩き出す。ただ、もしも本当に吉夫が自分を裏切ったとき、自分自身は彼を斬れるか、などと想像したことを忘れるために彼女たちと一緒に楽しく過ごす。
「兄ちゃん……」
「おやおや、アキラ君はもてもてだね」
明たちが竜王の住む屋敷に戻ると、ここの持ち主とレオはボードゲームをしていた。よく見れば、そこには白黒の石が盤に刻まれた線の上に置かれている。それは、明の世界にもあるボードゲームである”囲碁”。
この世界にも囲碁はあるのか、と新しい知識を得た明はにこにこする竜王と温かいレオの視線に耐える。
いま、明は寝ているフローラを背負い、肩にはもたれかかる風の精霊アイリスがいるのだ。なぜこうなったかと言えば、フローラと一緒に訓練をし、それから疲れた彼女はそのまま草原で目を閉じて寝てしまった。
アイリスといえば、彼女は明たちに風の魔法を放って二人の息を合わせようとしていたおかげで魔力が消費し、休むためにフローラと一緒に寝てしまった。
そんな彼女たちを放っておけない明はフローラを背負い、アイリスを肩に乗せてここまでやってきたのだ。正直、屋敷に着くまで周囲の人たちから温かい視線を向けられていたので、明としては恥ずかしい。
加えて、背中にはたわわに実ったフローラの果実と温もり、それから彼女の匂いを感じている。首もとには無防備な寝顔のアイリスがいて、ついいたずらしたくなる。
「ゆっくり休みなさい」
「そうします」
「お昼は……彼女たちと一緒に食べてくれるかい?」
「わかりました。ところで……レオ」
むむっと盤を睨みつけていたレオは明に呼ばれると顔を上げ、ふと思ったことを言葉にした。
「背……少しだけ伸びた?」
「そうか? 兄ちゃんがそういうなら、きっとオレは成長期かもしれないな」
「…………本当は違うけれどね」
ぽつりと呟いた竜王の言葉に明とレオは気がつかない。
そこだ! とレオが黒い石を盤に置くが、竜王はすぐさま自分の白い石を手に取ってぱちんっと音を静かに鳴らす。悩み続けていたレオは一瞬で返されたことにちくしょう! と悪態をついて盤を睨む。
囲碁をしている二人をそっとしておこう、と決めた明はフローラの部屋へと向かうことにした。
何日もここにいれば、さすがに誰がどこの部屋で過ごしているのかわかるので、迷うことなくフローラの部屋に着く。始めてここに来たとき、広い屋敷で迷ってしまった明は間違ってフローラの部屋の扉を開けてしまい、彼女を着替えを目撃してしまったのでいい思い出だ。一糸纏わない姿は……まさに女神のようで、あのときどちらもじっと見つめ合っていたがフローラが金色の瞳を涙目ににして、明に風の弾丸を飛ばすまでその状態が続いた。思い出せば脳内にしっかりと彼女の一糸纏わす姿を再現できてしまう。
フローラの部屋の扉を開き、敷かれている布団に彼女を下ろそうとしたときにうん……という艶かしい声がこぼれた。
ふと明はそのままフローラを布団に下ろしてもいいのか、と自問自答してしまう。この屋敷は人気がなく、また扉を閉じてしまえば密室と化す。寝ている無防備なフローラをそのまま……。
「――って、僕はなにを考えているんだっ!?」
フローラを背負っていることを忘れて壁に頭をぶつけて、煩悩を払おうとする明。がつんっという音が響き、寝ているフローラに明が頭をぶつけている衝撃が走り、彼女は薄っすらと目を開く。
薄っすらと目を開いたフローラは自分が明に背負わされていることに気付いて、なっと驚いた彼女は上体を起こしてしまう。
いきなりバランスが崩れた明はそのままフローラとともに後ろへと落ちてしまい、二人は布団の上へと転がる。明はすぐに彼女を押し潰さないように身体を起こして、フローラのほうを向いたとき……手に大きくて、柔らかいなにかを掴んでしまう。
手に収まりきれないサイズのそれは……フローラの胸。しかも、暴れたせいか着崩れしてしまい、肩が露出していて色っぽいフローラに明は見惚れてしまう。
「なにをしておるんじゃ、この愚か者!!」
羞恥で顔を赤くしながらも、彼女は拳を握り締めて明を殴り飛ばす。
普通ならば反応できた明であったが、フローラの胸を揉んだせいで思考は停止してしまったので彼女の拳は腹に打ち込まれた。
壁にぶつかった明は大きな音を立てて自分がしてしまったことに謝ってから、その場から去っていく。フローラも彼には何も言わず、去っていく彼を見送る。
そんな彼らの様子を天井近くまで浮いていたアイリスは微笑みをこぼしてしまう。彼女は明の肩にもたれていたが、彼が頭を壁にぶつけた拍子に起きてしまい、なにが起きるのかわからなかったので天井で待機していた。
「アキラもフローラもどっちも初心だよね」
楽しそうに笑ったアイリスはふっと姿を消し、明が逃げた方向を風を通して追いかける。風の精霊であれば、他人の気配を覚えてしまえばどこに行っても探すことができる。
「さて。アキラを追いかけよっと」
その後アイリスは明にフローラと誤解を解くためにあれこれと暗躍し、二人は元通りとなった。おかげでアイリスにからかわれるようになった二人であるが、前よりも距離を縮めることができたことだと、彼らは気付かない。