とある宿屋にて
宿屋”止まり樹”にあるとある一室で過ごすのは、人懐っこい笑みを浮かべ、流れるような黒髪を紐でまとめている九条鈴音。室内でありながらも、黒いローブを脱ぐことなく、湯気が立つ紅茶を飲む人物。
黒いローブによって顔は見えないが、服の上からでもわかる膨らみがあるからにして、女性であるとうかがえる。もっとも、鈴音は彼女のことをよく知っているため、なぜ脱がないのか、問わない。
「暇やなー」
ぐるっと室内を”見渡す”鈴音。いま、彼女たちがいるのは宿屋”止まり樹”の一室でもあるが空間拡張の魔導具を使用したことによって奥深く、横も広く変化している。
この大きな空間の中で彼女たちは暇つぶしのため、常に手合わせか魔法の練習をしていたが今日だけはなにもしない。今日ぐらいゆっくり過ごしたいから。
この空間拡張の魔導具を解けば、普通の部屋へと早変わりする。解けば、二つのベットにクローゼット、それに机という必要最低限のものしかそろっていない状態と戻ってしまう。
ここにあるのはテーブルと空いている三つの椅子。それと用意されている三つのティーカップ。彼らが来るまで暇な鈴音はダメもとで、紅茶を飲み、静かに魔道書を読み耽る女性に話しかけてみる。
「なあ。よっしーはどうやった?」
「……」
「まっ。言いたくないなら、それでもいいからな?」
「……辛いです。傍に居れないことが、こんなにも辛いなんて想像してませんでした」
小さく呟いた女性に鈴音は納得したようにそっかと返し、こちらを向く彼女の目を合わせる。ローブによって彼女の顔は見えないが、そこからうかがえる女性の黒い目だけはしっかりと見える。
「貴女は、どうなんですか?」
「うちも同じ気持ちや。でもな、これはうちが自ら選んだ道やから……我慢するしかないんや」
「自分の気持ちを押し殺すことが、正しいと言えるのですか?」
「言えへんよ」
女性に言われた言葉によって、鈴音は吉夫と恵美のことを思い出す。恵美は吉夫を救うために自らの身体を盾にして、襲い掛かってきた魔族であるカマキリの一撃を受けた。
あのとき、彼はいまにも泣きそうな顔で彼女の名前を口にし、すぐに命を助けるために小柄な少女と剣を交える魔族に目を向けていた吉夫。彼の全身から迸る黒い雷は、怒りを示し、どれほど恵美のことを大切にしているのか鈴音は知ってしまった。
思い出すだけで胸が張り裂けそうになり、どうして一番大切な親友を、恵美を吉夫に紹介したのだろうか、といまさらながら疑問を抱き、すぐに氷解する。彼には、もっと幸せになって欲しいから、恵美を紹介した。
自分では彼を幸せにできないから。薄々気付いていた自分の気持ちを無視して、あの二人を引き合わせたことは……きっといいことかもしれない。吉夫と恵美が幸せなら……と抱いていると、心の奥からどす黒い感情があふれそうになって思考をやめようとする。
「うちは……”うちら”はもう二度と同じ過ちを繰り返したくないんや。せやから……これで、これでいいんや」
自分に言い聞かせるように呟く鈴音は、泣きそうになる気持ちを押し殺してにっと人懐っこい笑みを浮かべ、目の前の女性と会話を続けようとしたときにドアが開かれた。
開かれたドアからやってきたのは青みかかった黒髪、ぽっちゃりとした体型に、水色の瞳に垂れ目。元〈欠片〉の一人である〈爆砕のダイナス〉。〈欠片〉でありながらも、地下都市スビソルの商人をしており、常にマイペースの彼であるが、戦闘となると人が変わる、と鈴音は知っている。
続けてやってきたのは外見が虎で、トナカイのように枝分かれした角。体毛は茶色く、鋭い目も同じ色をしているのは地下都市スビソルの土の精霊王であるノルーヴィ。見た目は怖いかもしれないが、これでも中身は怖がりであるため、本当に土の精霊王なのか疑ってしまう。
先日まで、ノルーヴィが女性であることにさすがに鈴音と女性は驚きを隠せなかったが。
「遅いでぇ」
「ヨーさんたちと別れの挨拶をしていたからなぁ」
「それでも遅いんやっ」
ダイナスとノルーヴィは空いている席に腰を下ろし、そこでふと鈴音は”座っている”土の精霊王を指差す。その方向に目を向けたのは女性とダイナス。
鈴音が指を差した場所にいるのは、鋭い目に茶色い瞳を宿し、肩まで伸びた同じ色の髪をした少女。どこにでもいる少女と見間違いそうになるが、その鋭い瞳はノルーヴィであることは間違いない。
ただ、彼女は布を一枚巻いたような格好をしているため、ダイナスは少女を目にしたとたんに違う方向を向く。身体に布一枚を巻いた格好は男性にとって目に毒で、彼女の起伏のある場所は鈴音でさえ羨む。
正直に言えば、エロいのだ。
「他に服はないのですか?」
沈黙を破ったのは女性であったが、少女の姿と化したノルーヴィはおかしいかな? と疑問を浮かべたので鈴音は追求しないでおく。
とりあえず、役者はあと一人だけであるがこの二人がいれば十分なので問題はない。ノルーヴィのティーカップに紅茶を注ぐダイナスに、鈴音は腕につけている黒い腕輪をかかげる。真っ黒ではなく、ちゃんと細かく、美しい模様が刻まれているがそれに気付くためには目を凝らさないといけない。
「なあ。これってどないすればええの?」
「オラとしてはもらって欲しいだなぁ。闇の魔法を使える人に会えるなんて滅多にないからなさぁ」
「おおきに。この娘の魔導具は……使い捨てやっけ?」
「んだ。だから、壊れても問題ないぞぉ」
二人の間に交わされる会話にノルーヴィは熱い紅茶を冷ますようにふーふーと息を吹きかけていたが、なにかに気付いたように鈴音の魔導具を見つめる。彼女の視線が腕輪に注がれていることに鈴音はちょうどええかもな、と心の中で呟いて説明しておいた。
「これな。あの洞窟にあった死者たちを蘇らせたんや」
鈴音の腕にある黒い腕輪。それは吉夫が地下都市スビソルの洞窟の前で戦うことになったきっかけである魔導具。
地下都市スビソルの迷宮にある悪意、つまりそこで息絶えた者たちの怨念を呼び起こし、形と化したのが骨の兵士。その迷宮を作ったのは土の精霊王であるノルーヴィである。
ただ、鈴音自身、あの骨の騎士に関しては知らない。おそらく、骨の騎士は共に居た兵士たちの隊長かもしれない。そうでなければ、使用者である鈴音の命令など聞かずに好き勝手に暴れなかったはず。
「……ダイナス、それを知りながらもボクに教えなかったのは、どうしてだい?」
「それはヨーさんたちの実力を計るためさ。その日の朝に現れたゴーレムも、そこにいる女性が使い捨ての魔導具によって生み出したんだ」
使い捨ての魔導具を証拠にするかのように、女性は空間魔法から所々に亀裂がある無色の丸いペンダントを取り出した。そこでダイナスが実験用なんだからなぁとのんびりとノルーヴィに伝えていくのを見る鈴音は、彼女がぷるぷると震えていくのを放置しておく。
あれは、きっと怒りを押し殺しているだろう。地下都市スビソルを危機に陥れそうになった自分たちに対して怒りを抱かないほうがどうかしている、と静観している鈴音はノルーヴィの口から聞かされた言葉に驚いた。
「彼らの実力を計るためなら仕方ないね。君たちは、地下都市スビソルには危害を加えなかったからいいものの……もしも、本当にそうなっていたら、ボクは許さないよ」
「大丈夫さぁ。これでもオラはちゃんと魔法を使えるように用意していたから、ノルーヴィが心配することなんてないぞぉ」
「……はあ」
「まー、ノルーヴィもよーさんたちが初めてここに来て、”地下都市の迷宮”で力試しをさせたから、人のことを言えないんだなー」
「うぐ……」
短く会話を交わしたノルーヴィとダイナスには、鈴音の耳に届かなかった。
ただ、鈴音は深くため息をつくノルーヴィに形だけの謝罪でもしようかな、と考えていたときに背後に誰かがいるのに気付き、すぐに椅子から飛び退く。
宙に身体を浮かせた鈴音は手元に槍を召喚するよりも早く、席に座っていた女性が動いた。彼女は鈴音の背後に立った人物の首元に刀身が黒く、細長い武器――刀を添える。ダイナスも片手に褐色の槌を握り、ノルーヴィは魔力を迸らせている。
一瞬にして緊迫とした空気が漂う。
鈴音が宙で体勢を整え、着地したときにはあらあらとおっとりとした女性の声が空間拡張されたこの場に響いた。
「いきなり襲うなんてひどいじゃないですか」
「……貴女こそ、鈴音さんを襲おうとしたくせに」
「違いますよ。あれは、彼女の実力を計るためです」
静かに言葉を返すのは、この宿屋”泊まり樹”の女将である女性。しかし、それはあくまで吉夫たちがそう”思い込んでいた”だけであって、本当は女将ではない。吉夫たちだけそのように”思い込ませ”、鈴音たちの前では普通の女性である。
彼女の協力があったからこそ、鈴音と女性は一階にある食堂で普通に食事していても吉夫たちにばれなかった。”鈴音たちを感知させない”ように、この女性は魔法を使い、彼らは見事に欺いた。
「うちに喧嘩売っているんか?」
「いいえ。あ、これを飲ませてもらいますね」
攻撃してきた女性に睨みつける鈴音であるが、相手はダイナスよりものんびりしたように椅子に座る。首もとに刀を突きつけられているのにも関わらず、彼女は用意されたいた最後のティーカップに手を伸ばし、紅茶を注いでいく。
芳ばしい紅茶の匂いが漂い、さすがに彼女の首もとに刀を突きつけるのをやめた黒いローブの女性は鞘に納める。ダイナスとノルーヴィも彼女がなにもしない、と判断したのか気を緩める。
鈴音だけは優雅に紅茶を飲む女性を一挙一同を見つめるが、悪意がない、とわかったところで倒れている椅子を立て起こし、そこに座る。
「さて……これからどうするのですか?」
ティーカップをテーブルに置いた女性はいつもと同じように微笑みを浮かべているが、誰も口を開かない。
鈴音でさえ、これからの予定について考えていないため、彼女の問いに答えることができないまま、気まずい時間が過ぎようとしたときに黒いローブの女性が立ち上がった。
彼女はどこからか手のひらに納まるそれを取り出し、ダイナスに見せ付ける。彼女の手にあるのは黄色く、ひし形の形をしており、神聖な魔力を放つ――〈欠片〉の一つである〈土の欠片〉。
「これ、本当に私にふさわしいのか知りたいので……あなたと勝負します」
「ま、待つんだなぁ。君はあの岩の竜を倒したから、それにふさわしいから、オラと戦っても意味がないぞ」
「あります。元〈欠片〉であるあなたを倒さない限り……私は、彼に追いつけません。だから、お願いします。私と戦ってください、〈爆砕のダイナス〉」
「…………そこまで言うのなら、オラはやめないぞ」
迷った末なのか、ダイナスは部屋の中央に向かう。黒いローブの女性は〈土の欠片〉をテーブルに置き、彼と向かい合うように立つ。
彼らの勝負を静かに見守る鈴音は二つがどのように動くのか、と様子をうかがっているとダイナスはどこからか取り出した槌を構え、黒いローブの女性に向かって大地を蹴る。
見た目と裏腹に俊敏な動きであっという間に間合いを詰めたダイナスに、黒いローブの女性は居合いを構え、二人は交差する。
背を向けた二人は同じタイミングで振り返り、再び武器を構え、睨み合う。
「オラに一撃でも入れることができたら勝ちだ」
「……わかりました」
「あの竜もどきよりもオラは硬いぞぉ」
竜もどき、というのは黒いローブの女性がこの前切り裂いた三つ首の岩の竜を思い浮かべ、鈴音はあれよりも硬いっていうダイナスに同情してしまった。なにせ、いまダイナスと対峙している黒いローブの女性は強さを求めているが故に超えるべき壁を見つけてしまったから。
「オラに勝てるか」
「はい。この一撃で決めます」
黒ローブの女性が静かに居合いの構えを取り、ダイナスはそんな彼女を叩き潰すかのように上に飛び、槌を勢いよく振り下ろす。女性はよけることなくその場に佇み、神速の速さで刀を抜き放つ。
黒い煌きが舞い、女性のすぐ傍に着地するダイナス。二人はお互いの武器を放ったまま、時が止まったように動かず、鈴音は不安を抱きながら女性の様子を見守っていると――のんびりとした声が耳朶を打つ。
「オラの負けさぁ」
自ら負けを認めたダイナス。彼が握っているはずの槌は半分から切られており、先は鋭い槍のように見える。
黒いローブの女性はふうとため息をつき、刀を鞘に納め、鈴音のほうに歩もうとするが途中で膝から崩れ落ちる。近くにいたダイナスはとっさに女性を支え、近寄った鈴音は彼女と肩を並ばせてゆっくりとここから出て行く。
テーブルの上に置かれている〈土の欠片〉を手に取った鈴音は彼らになにも告げることなく、ここから去っていく。もう彼らに用はない。黒いローブの女性がダイナスと一気打ちしたいから、と願っていたから鈴音はあの場にいただけであって、他にすることなどなかった。
それに、たとえ鈴音たちがあの場にいても彼らの会話についていけないから、大人しく去ればいい。
これからの予定はどうしようか、と考える前に隣を歩く女性が疲れていると感じた鈴音は最初に彼女を休ませることにした。
そして、いつの間に空間魔法を維持しているはずの魔導具の効果がなくなっていることに気付き、自分たちが使っている部屋に戻っていることに鈴音は顔をしかめた。
「やっぱり、うちらに用はなかったみたいやな」
◇ ◇ ◇
「それで……これからどうするのですか?」
鈴音たちがいなくなり、空間魔法を維持していた魔導具の効果を封じた女性は新たな空間を生み出し、そこにいるのはダイナスとノルーヴィ。
ダイナスはきれいに切断された槌と先が鋭い槍と化した太い棒をくっつけ、それを開いた空間魔法の中に入れる。女性はそんな彼のことなど気にすることなく、自分のティーカップに紅茶を注ぎ、芳しい香りを味わいながら彼らを見つめる。
「そういう貴女はどうするつもりなんだい?」
こちらを射抜くかのように鋭い視線を向けてくる土の精霊王であるノルーヴィに、女性はティーカップを一口飲み、テーブルに置く。
「私は彼らの様子を遠くから見守るだけです。しかし、ときに守るかもしれませんね」
「……君はなにをするつもりなんだい?」
「言いましたよね。見守ります、と」
「なるほど……そういうことなんだね」
納得したように引き下がるノルーヴィ。次に女性はダイナスのほうを向き、たった一言だけ彼にしかわからないことを告げる。
「『あれ』を盗まれてしまいました」
「なっ!? ふ、ふざけているっ。あそこから、『あれ』を盗める人間なんていないはずだっ」
動揺するダイナスにさすがにいつもの彼ではない、とノルーヴィはわかったのか、彼女たちの会話で使われた『あれ』に一つだけ思い当たることがあるのか、表情を曇らせる。
女性はそんな彼女をなぐさめるように壊れ物を扱うように優しく抱き締め、安心するために頭を撫でる。
「『あれ』を盗んだ者は母上がいる地に留めているため、あとは探り当ている……いえ、ふさわしい人物をぶつけるつもりです」
「君は正気かい……?」
「ええ。すでにふさわしい人物を見つけましたが、まだ実力不足であるため、私は彼女たちを彼らと出会わせるようにします」
「……それは君の母が望んでいることなの?」
「はい。母上が望むままに私は動き、彼女を補佐するのが仕事ですから」
哀しそうに微笑む女性にダイナスとノルーヴィはなにも言わない。彼女は彼らに最後になるかもしれない言葉を告げ、その場から去っていく。
残されたダイナスとノルーヴィは起こりうる未来のために備え、動き出す。