神殿にて
「この世界は、間違っている」
どんよりとした空模様の下、‘終焉の神殿’に足を踏み入れた青年は憎悪を吐き出すように呟く。外套に身を包み、貴公子然とした雰囲気をまとう青年の目は青空を連想させる。瞳に映るのは憎悪の炎。目元まで伸ばした銀色の髪は、彼からあふれる魔力によって波打つ。青年の腰には銀色に輝く剣が差してある。
「これは誰かが正しく導く必要がある」
眼前の壁には誰もが知っている物語が描かれている。
闇に満ちた世界は魔族によって支配された。
人々は生きる希望を失い、死を待ち望む。
だが、希望を捨てなかった者たちは秘術を行う。
異世界から勇者を呼び、彼にすべてを託す。
やがて、闇に満ちた世界は光にあふれ、勇者によって世界は救われた。
本来ならこのようなことが描かれているはずなのに、ここには彼の知っている物語はない。‘終焉の神殿’と呼ばれるこの場所は、すべての真実が語られる。青年はもう一度だけ、目に焼く尽くすかのように壁に書かれていることを読み返す。
‘終焉の神殿’に封じられているのは、天使と悪魔の羽を持つ存在――自らを‘神’と名乗る者。
その者は世界に絶望し、すべてを滅ぼそうとした。
そんな‘神’を殺すかのように二人の青年が姿を現す。
一人は勇者。この世界を救うために召喚された者。
もう一人は魔王。魔族の暴君であった者を勇者と共に倒した者。
彼らは精霊たちの力を使い、‘神‘と壮大な戦いを繰り広げた。
そして、勇者と魔王は‘神’をこの大地に封じ、新たな名を与えた。
世界を滅ぼす‘神’――‘邪神’、と。
「邪神を解き放とうではないか。この世界を闇に染め、新たな物語を紡ぎだそう」
青年は腰に差してある剣を抜き、そこに己の魔力をひたすら注ぐ。魔力を注がれたことによって、両刃の剣は銀色に輝きだす。彼は銀色に輝く剣を床に叩きつけるように振るうと銀の閃きが放たれる。神殿全体を揺らすような轟音が生み出され、床には奈落の如く深い闇ができていた。その穴から人が正気でいられなくなるほどの邪気があふれだすのに、彼は澄ました顔をしている。
邪気――それは負の感情。憤怒、嫉妬、失望、恐怖、渇望。
負の感情は、轟音の原因を確かめに来た‘終焉の神殿’を守る騎士たちに干渉する。邪気に干渉された者たちは急に同士討ちを始め、剣戟が神殿に鳴り響く。混乱していく騎士たちのことなど気にせず、正気を保ち続ける青年は満足気に微笑む。
「やはり、封印はこの下に施されているのか……。勇者と魔王よ、後悔するがいい」
邪神を封じた勇者と魔王に対する憎悪を抱く彼は、穴に身を投げた。
「邪神よ、貴公が目覚めるときだ。さあ、世界を動かそうではないか」
そして――‘終焉の神殿‘は闇に包まれた。
◇ ◇ ◇
「暇じゃなのう」
見事な白いひげを生やした老人は、老体とは思えないほど背筋をしゃきとしていた。柔和な顔つきをしている老人は両手で一本の杖を支え、静かに客人が来るのを待ちわびていた。客人が来るまで暇なので、老人は周囲に目を向ける。
彼の視界に映るのは廃れてしまった神殿。かつては‘終焉の神殿’と呼ばれていた場所であったが、いまでは無残な姿に変わり果てている。規則正しく並んでいた石柱は折れ、巨大な魔法陣が描かれている床に亀裂が生じている。
そして、ここで神父として務めていた者や僧侶、シスターたちは死体として転がっている。強引に四肢を引きちぎられた僧侶、獣の爪によって全身を蹂躙されたシスター、保護されていた子供たちの手足があちこちに転がっている。中でも一番ひどいのは目玉をえぐられ、血の涙を流していたと神父と思われる人物であった。辺り一面には血の海が広がっており、鼻
をつく血のにおいが充満しているが老人は嫌な顔をすることなく、その場で平然とした表情を清ましている。
「……しつこいな」
ぶわっと邪悪な霧が床に描かれていた魔法陣から吹き出し、老人は慌てることなく杖を振るう。銀の煌きが一瞬にして放たれ、あふれ出た黒い霧は霧散していく。このようなことを老人は何度も繰り返しているので、さすがに客人が来ないのであれば帰るしかない。
「面倒なことになったのう」
「まったくだ。どうしてこんなことになったんだろうな」
老人が振り返った先にいたのは気だるい表情をした男性。少年のように短く切りそろえた黒い髪、右目に眼帯。左目に輝くのはアメジストを連想させるような瞳。
突然現れた男性のことに対して、老人は驚きもせずに文句を漏らす。
「遅かったではないか」
「これでも急いで来たんだ。それぐらい許せ」
「わかった。だが、遅れた原因は……これじゃろう?」
杖の先で床をこづくと、男性は首を縦に振るう。
「やはりの。これは、ワシらが頑張るしかないな」
柔和な表情をしている老人の目に、熱く燃えたぎる炎が浮かび上がる。そんな彼をなだめるように男性はあることを持ちかける。
「いまのオレたちには荷が重過ぎるから、ここは若い世代に任せねぇか?」
「あやつらと同じ過ちをするつもりか?」
鋭い眼光を男性に向けてもなお、彼は言葉を紡ぐ。
「オレたちは自分の限界に気付いているじゃないか。その状態で<あいつ>と戦えば、間違いなくオレたちと世界は終わってしまう。<あいつ>だって、あの頃よりも強くなっているかもしれないし、なにより<協力者>がいることは確かなことじゃないか」
ありのままの真実を告げる男性の意見は間違ってはいない。けれども、老人は頑として首を縦に振るうわけにはいかなかったが――
「……よかろう。好きにするがいい」
世界のためであれば多少の犠牲は仕方ないこと、と結論を出した彼は自分自身を納得させてから答えた。だからこそ、老人はそのことに関してすべてを眼前にいる男性に任せる。
「わかったよ。んじゃ、まずはおまえを召喚した国から攻めるとするか」
用は済んだといわんばかりに男性は老人に背を向け、歩き出す。
「相棒よ」
老人が彼を呼ぶと男性の歩みはぴたりと止まる。
「くれぐれも無茶するではないぞ、と忠告しておくぞ」
「ははっ、ありがとよ。おまえこそ無茶するなよ、親友」
手をひらひらと振るう男性の目の前に空間がぐにゃと歪む。そんなことをおかまいなしに迷うことなく彼が向かうと、次の瞬間には男性がいなくなる。
誰もいなくなった神殿で老人は声を上げて笑う。
「ふぉふぉふぉ。これから先が楽しみとなってきたではないではないか。のう……魔王? 勇者のワシのもとに来るのか、それともおぬしのところに訪れるのか……わくわくするのう」
自称勇者と名乗る老人は腰を低くし、杖を抜刀するように構える。応えるように魔法陣から大量の黒い霧があふれていき、迎い撃つように老人は白銀を煌かせる。
◇ ◇ ◇
神聖な雰囲気をかもしだす神殿に規則正しく並んだ石柱がある。その中心には床に刻まれた魔法陣と、囲うようにローブで顔を隠した人たちが己の魔力を注いでいる。彼らがしているのは、異世界から勇者を召喚すること。そして、召喚した勇者にこの危機を救ってもらう。
魔力を得ている魔法陣が静かに輝いているのを見ながら、千年以上前の人たちの気持ちがわかると少女はぼやく。氷のように冷たい瞳は栗色に染まり、髪はロングヘア。髪は目と同じ色をしており、人形のように整えられた顔つき。純白のドレスを身にまとう少女は静かに魔法陣を見つめ、己の魔力を注いでいく。すると、ひときわ強く光を放ちだす。
この魔法陣は言い伝えあったとおりに再現して描かれているものの、大半は彼女が書き換えている。勇者にふさわしい
者とあちらの世界の言語をこちらの言葉に翻訳。この二つを重視に魔法陣は作り上げられている。
「……姫様」
金細工のように輝く髪をポニーテールにした女性は鎧を身にまとい、そっと剣の柄に手を添えている。鋭い目つきの奥には不安げに揺れるエメラルドグリーンの瞳。凛々しい顔つきをしている女性は、主である彼女のことを心配している。
「大丈夫よ。きっとうまくいくわ」
「……はい」
「いつものあなたらしく振舞いなさい。そうじゃないと、わたしも不安で押し潰れそうになるわ」
「わかりました、姫様。……必ず、成功させましょう」
女性騎士の言葉に姫と呼ばれた少女は無言で頷く。
「――開け、異世界の門よ」