飛翔
いつの時代であろうか? そして、どこの星の事であろうか? 誰も知らない。
目の前に広がる果てしなく続く雲の海。昇り行く恵の象徴の朝日に照らされ、輝いている。
少女はその雲の上を滑空していた。頬を撫でる風が心地良く、少女は微かに笑う。
「ほんの少し前までは、こんな事できなかった」
少女は時折雲間から覗く地上を見下ろし、感慨に耽る。かつて死の世界と隣り合わせの生活をしていた頃。毎日が地獄だった。それでも己の信念を曲げず、戦い続けた。そして、彼女はその宿願を果たし、今こうして鳥になって空を飛んでいる。
「このまま、あのお日様に向かって飛び続けていられたらいいのにね」
少女は、彼女の服の中で震える小さな友人に声をかける。その友人はモゾモゾ動いて応じた。
やがて朝日はその姿を全て雲の海の上に出し、より強い輝きで少女を照らす。
「優しい暖かさだ。気持ちいい」
少女は目を閉じ、日の光と風を感じた。瞼の裏に浮かぶのは、あの戦いの日々。
少女はそれを目を開き、その思い出を過去へと押しやる。忘れてはいけないが、思い出したくもない。
命を落とした人達の事は覚えていたいが、その人達が命を落とす瞬間を思い出したくはない。それはあまりに辛い事だから。
「みんな……」
悲しみに包まれ、少女は呟く。
「それでも私は進まなければならない。まだ全てが終わった訳ではないから」
雲の海が途切れ、眼下には本物の海が見えて来た。
「来た。とうとう、来た」
少女の目に涙が光る。それは真珠の粒となって、大空に消えて行く。
「これが、海」
死ぬまで見る事ができないと思っていたものが自分の目の前に広がっているのを、少女は瞼に刻んだ。
「奇麗……。想像していたより、ずっとずっと奇麗」
彼女の目から、また真珠の粒が零れ落ちる。真珠の粒は海へと落ちながら、消える。その海は、朝日の輝きを反射し、光の道を生み出していた。
「広い。広いのね、海って」
少女は高度を下げ、海に接近した。波間を泳ぐ小魚、そしてそれを餌とする大きな魚、更にそれを食そうと追いすがる巨大魚。命の連鎖を目の当たりにし、少女は感動した。
「生きている。海は生きている!」
少女は大声で叫んだ。彼女の声を聞きつけ、大きな生物が海から半身を現し、背中の穴から水飛沫を上げる。少女はその生物を回避し、上空へと舞い上がる。ふと周囲を見渡すと、その生物達が群れをなし、漁をしていた。尾びれを動かし、獲物を追い込む。水飛沫を上げ、仲間に合図を送る。合図に答え、回り込むものがいる。海に大きなうねりが生じる。その躍動感に少女は魅了される。
「また会えるといいね!」
少女は彼らに大きく手を振り、そこから離れる。目的の地はもうすぐなのだ。更に高度を上げ、少女は急いだ。
輝く海原を進んで行くと、どこからか、飛行艇のエンジンの音が聞こえて来る。
「?」
少女は辺りを見渡した。しかしまだ肉眼ではその姿を確認できない。
「こっち?」
風が少女に教えてくれた。少女はエンジン音のする方向へと進路を取る。
「いた」
少女は飛行艇を視認した。あの男の駆る飛行艇だ。飛行艇は少女に気づき、大きく旋回する。
「相変わらず、心配性ね」
少女は男の事を思い、苦笑する。飛行艇は爆音を轟かせて、少女の横についた。
「姫様あ!」
飛行艇のキャノピーを開き、隻眼の男が身を乗り出す。
「どうしたの?」
少女は微笑んで尋ねる。隻眼の男は、
「どうしたのではありませんぞ! 何も仰らずにお出かけになっては困ります!」
そんな大声を出さなくても聞こえるのに。少女はまた苦笑する。
「笑い事ではありませんぞ、姫様! いくら世界が平和になったからと言って、供を一人も連れずにこのように遠くまで!」
男は少女の反応に怒っている。
「今すぐお戻り下さい!」
「はいはい」
少女は肩を竦めて男に返事をした。
「先に行ってて。すぐに行くから」
「ダメです! 私もそれほどお人好しではありませんぞ、姫様! 曳航しますので、こちらにお移り下さい!」
男は怒鳴り続けたせいで顔が真っ赤である。少女はそれがおかしくてまた笑った。
「何がおかしいのですか、姫様! 早くして下さい!」
男は尚も怒鳴り続ける。そのせいで顔が更に赤くなった。
「フックを出して」
「はい」
飛行艇の後部から曳航用のフックが放たれ、風で激しく揺れる。少女はそれをいとも簡単に捕まえ、自分のグライダーに引っ掛けた。
「姫様! 今回限りにして下さい。私も疲れます」
隻眼の男は少女に手を貸して後部席に誘導しながら言った。
「疲れるのなら、わざわざ迎えに来なくてもいいのよ」
少女は座席に沈み込んで言い返す。途端に彼女の服の襟から小さな動物が顔を覗かせた。
「姫様! いい加減になさいませ!」
隻眼の男は更にヒートアップする。少女はまた肩を竦める。
二人の乗る飛行艇は朝日を反射させて突き進んだ。