死後問答
「おや、どうしたことか」
髪は半ば以上も白く萎びた顔に皺を刻んではいるものの、豪奢な紫の絹の衣に身を包んだ男は霞の中で呟いた。
「ここはどこなのだろう」
進む内に霞は少し払われた眼前に河――正確には流れの一部が現れた。
確かに河が横たわっているようだがその全容は白い靄に包まれていて見渡せないのだ。
ふと、屋根のない一艘の舟が流れてきて男の立つ岸辺に止まった。
「李大人、お乗りくださいませ」
傘を被った船頭の老人は慎ましやかな語調で告げる。
「これから黄泉の国に参りますゆえ」
その言葉を耳にすると、紫絹の衣の男は合点が行った風に頷いた。
「儂はとうとう死んだのか」
悲しみよりもむしろ安堵の面持ちで続ける。
「もう病の床で苦しまずとも良いのだな」
つと萎びた顔の眉間に亀裂じみた深い皺が寄る。
「こちらがのたうち回っているのに皆、放置しおって」
磨き上げられた鳥皮沓の爪先で足下の礫を蹴り飛ばした。
「全く儂の周りは能なしに役立たずばかりだったわい」
船頭は労るように微笑んで頷く。
「大人の現世での苦しみはもう終わりました」
丁重に舟の奥を指し示した。
「行き先まで他の死者との相席になりますが、どうかご容赦下さいませ」
それまで霞に隠れていた舟の奥には既に煤けた身形の先客が三人程固まって腰掛けている。
「死ぬのはこの李佐進一人ではないからのう」
男は鷹揚に頷くと舟に乗り込んで先客たちとは離れた位置に腰を下ろした。
「それでは参ります」
船頭はそう告げると河を上り始める。
*****
舟が微かに揺れながら進む。
霞が取り払われるように引いて、急に視野には水色の空と碧色の河面、そして両岸に紅白の花を咲かせた梅の木々が現れた。
「黄泉に向かう河辺にも花は咲くのだな」
李佐進は呟く。
「昔も観たような光景だ」
どこかきついものを含んだ芳しい香りと共に、岸から舞い落ちてきた紅と白の丸い花びらが縮緬さながら萎びて無数の皺が刻まれた手の甲に音もなく張り付いた。
「そうだ、あの日、通り掛かった家の花咲く梅の樹下で琵琶を弾いていたのは……」
「貴方もとうとうこの舟にお乗りになりましたのね」
舟の隅から響いてきた低い女の声に李は振り向く。
「ずっとお待ちしておりました」
さながら漂白したかのように一筋も黒い毛の見当たらぬ髪に煤けて所々破れ目の入った衣を纏い、古びた琵琶を胸に抱いた老婆が、しかし、まるで種明かしのように黒目勝ちな切れ長い双眸とふくよかな艶を残した声で告げる。
「采蓮」
どこか恐れを込めてその名を口にしてから、李佐進は急に思い直した風に嘲りを込めた声で返した。
「まあ何とみすぼらしい有様か」
紫の絹を纏ったかつての夫は肉の落ちた肩を震わせて嗤う。
「そなたは確か四十にも届かぬ身で死んだのではなかったか。もう三十年になるかのう」
李が語る内にも向かい合う老婆の真っ白な髪に紅い花びらが一枚落ちてきて止まった。
「まるで百も超えた婆じゃ」
かつての妻は青ざめて深い皺の刻まれた顔に冷ややかな笑みを浮かべて応える。
「それは苦労しましたから」
元の夫はいっそう嘲笑う顔付きになる。
「身から出た錆であろう」
「貴方がそう仰いますか」
風雪を経た楽器を抱えた老婆を李佐進はどこか鷹の爪じみて先尖った指で差しながら言い放つ。
「そなたは貧賤を脱して富貴に与る縁に恵まれながら自分でふいにしたのだ」
「貧賤と仰いますか」
老婆の目はかつての夫よりその背後に咲いている紅白の梅花に注がれているようであった。
「元より我が李家にとって江家など物の数ではなかった」
「そうですね」
襤褸を纏い古びた琵琶を抱いた老婆は長い睫毛を伏せて寂しげに笑う。
次の瞬間、紅白入り交じった梅の花びらの嵐が舟上の人々に通り過ぎた。
「でも、貴方はこの姿に一度は惹かれたのではなくて?」
長い睫毛に縁取られた切れ長い眸はそのままに漆黒の絹糸じみた豊かな髪、白玉めいた滑らかな面、紅梅の花びらさながら鮮やかな脣、あえかな貝に似た耳朶には翡翠の飾りを提げ、薄桃色の紗の衣にまだ新しい琵琶を抱えている。
そんな乙女の姿に戻った妻が澄んだ声で問いかけた。
「せいぜいが十人並みといったところだな」
豪奢な紫の絹の衣に比して萎びた顔の夫は眉間の皺をいっそう深く歪ませて答えた。
「そなたより美しい娘など当時の儂でも山ほど知っていた」
娘時代の姿に還った妻はもはや祖父ほども老いた夫に向かって憐れむように首を横に振った。
「うちではもったいないからとお断りしたのに貴方様の方から再三妻にと願い出たのはお忘れかしら」
梅の香りが漂う中、二人の間を紅い花びらがまた音もなく斜線を引いて落ちていく。
「貧家の娘の方が慎ましくうちの父母にも良く仕えると思ったからだ」
年老いた男は言い放つ。
「嫁にもらったら学問を鼻にかけた気の利かぬ女でとんだ見込み違いだったがな」
もはや孫娘ほども若い生乙女の顔貌をした相手に吐き捨てる。
「お前の琵琶など郭の女にも及ばぬ」
うら若い妻はいっそう憐れみを込めた微笑で答える。
「そちらの演奏を聴くことがそんなにおありだったのかしら」
舟の周りはまた白灰の霞に覆われ始めた。
馥郁とした梅の香りが薄れ、入れ替わりに微かな泥の匂いが舟上に漂ってくる。
「とにかく、儂だからお前のような人並みですらない者でも追い出さずにいてやったのだ」
かつての夫はゆったりした所作で自らの衣に付いた紅白の丸い花びらを払い落とした。
「そなたがいる間は妾なども置かなかった」
黙して座す妻のほんのり朱く色づいた耳朶で微かに揺れている翡翠の耳飾りの辺りを指差すと、年老いた夫は勝ち誇ったように続ける。
「お前が我が室として家にいた頃から我が娘を是非にと言ってくる者も何人もあったのだぞ」
「存じております」
髪はまだ艶やかに黒く滑らかな白い肌に目立つ皺は観られないものの、臙脂色の緞子の衣を纏う身は娘時代の華奢さから幾分ふくよかになった妻が答える。
「貴方の周りはいつも権勢に阿りぶら下がろうとするのでなければ怯えて許しを乞おうとする者ばかりでしたから」
ふくらかな白い手の指先で熟成した琵琶の腹板に小さく入った傷を撫でた。
「そういう高潔ぶるのが甘いというのだ」
萎びた顔にうんざりした、苦々しいものを滲ませて李佐進は吐き捨てる。
「人に恨まれることを恐れるようでは上になど行けぬ」
霞の中から黄土色の桐の葉が一枚、二人の間にはらりと落ちた。
「お前が日がな一日琵琶を弾いたり一文の得にもならぬ下らぬ書き物をしたりしている間に儂は額に汗して働いた」
誇りよりも苛立ちを込めた声でかつての夫は続ける。
「そのおかげでお前も屋敷で呑気に暮らせたのだぞ」
「いつもそう仰いましたが、私には地獄でした」
いつの間にか髪に白い物を交えた妻は答えた。
「まだそんなことを抜かすか」
李佐進は絹の衣の膝に新たに舞い落ちてきた茶緑の桐の葉をつまみ上げて透かす。
乾いた葉には一部葉脈に沿って四角い穴が空いている。
その向こうに既に鬢には白い物の主勢になった妻が年季の入った琵琶を抱いて虚ろな目で佇んでいた。
「お前は自分を史書に出てくる不運な才媛か何かと勘違いしていただけの能無しだ」
すると、こちらを眺める目が今度は冷ややかに光った。
「まだ白を切るおつもりですか」
老け込んだ姿に反してまだ張りを残した声でかつての妻は続けた。
「あなたは私の詠んだ賦を自分のものとして奏上なさったわ」
李佐進はうろたえる様子もなく首を横に振る。
「儂の名だからどうにか世に出せたのだ」
「朱雀大路の石碑に彫られておりますけれど」
「儂の名で出したからだ、まだ分からぬのか」
かつての夫は穴の空いた葉を流れに放る。
「詩文などというものは何をどのように書いたかではなく誰が書いたかで決まるのだ」
「私はそういう貴方に絶望して家を出たのですよ」
すっかり白く変わった髪の後れ毛を冷たさを増す秋風に震わせながら、粗末な着物を纏い煤けた琵琶を抱えた妻は乾いた声で続ける。
「娘たちとも引き離されたけれど」
白くなった髪に小さな緋色の楓の葉が一枚、落ちてきて止まった。
「まだ幼いあの子たちとの関わりを絶たれるのがどれほど辛かったか」
妻の語る声は密やかだったが、李佐進はどす黒い怒りを秘めた顔つきになる。
「いいか、お前は自分で勝手に出て行ったのだぞ」
夫は猛禽めいた先尖った指で妻を示しながら続ける。
「我が娘二人を貧賤の愚かしい女に渡せるか」
「いずれも我が腹を痛めて産んだ子たちにございます」
古びた琵琶を抱くもはや老婆にしか見えない女の襤褸を纏った肩が激しく揺れた。
「出て行ったお前の自業自得というものだ」
李佐進は吐き捨てると、ふと卑猥な笑いを微かに浮かべて尋ねる。
「お前が我が家に嫁いで産んだのは一体、誰の子だというのだ」
かつての妻は屈辱を滲ませて答えた。
「正しく貴方様の子にございます」
「ならば、我が家を出る時は儂の下に置いていくのが筋であろう」
紫絹の衣の肩に黄金色の銀杏の葉を纏わせた李佐進は今度は幼子に説いて聞かせるように語る。
「嫁ぐとはそういうことだ。貧苦で行き倒れになるような女の頭では判らぬか」
かつての夫は勝ち誇った風に続けた。
「大体、娘たちもお前を嫌っておった。妻として母としての勤めも果たさず身勝手に出て行ったとな」
「恐れながらその件には私としても疑問がございます」
舟の奥から妻とはまた別の声が響いた。
李佐進は声の発せられた方を振り向く。
舟の奥に表面に砂埃を被ってはいるが、元は質の良いと知れる生地の衣を纏った壮年の男が座していた。
塵埃を帯びた象牙色の肌、墨を引いたように濃く太い一文字眉、切れ上がった涼しげな双眸、引き締まった小さな口元まで見て取ると、李佐進は萎びた顔に一瞬、狼狽が漂ったが、すぐに冷笑に脣を歪ませる。
「誰かと思えば、呂奉國ではないか」
精一杯の蔑みを込めてその名を口にする。
「然様にございます」
相手は憐れむような苦い笑いを浮かべて応えた。
「そなたもまだ彷徨っておったか」
かつての妻と部下を見やる老人は肩を竦める。
「身を誤って死んだ者は地獄にすらなかなか行けぬのだな」
「身を誤ったと仰いますか」
土埃にまみれた装いの相手はカラカラと笑って頷く。
突如、舟の周囲は眩しい陽射しの降り注ぐ蓮の花咲く水面に変わり、砂塵に汚れた壮年の男は真新しい袍を纏った若いというより幼い青年の姿に変わった。
「しかし、貴方様に初めてお会いした頃にはこの様でございました」
二十歳にも届かぬ若年の声に戻った相手は、しかし、あどけない顔に寂しい笑みを浮かべている。
「ははは」
李佐進は思い出したように懐から折扇を取り出すと、金雲の合間を舞い飛ぶ鶴の絵柄を広げて緩やかに自らを扇ぎ出す。
その様を老婆の姿をした妻は冷ややかに、少年の面差しに若返った部下は苦笑して見詰めた。
「進士の最年少及第者、序列は探花だが状元や榜眼より一回り以上も若いから実質は首席であると聞いていたのに、いざ顔を合わせたら女子のような洟垂れ小僧で拍子抜けしたわい」
「あの時もそう仰いましたね」
薄紅の蓮の花咲く川の中を舟は緩やかに進んでいく。
「刑部は厳しい役所ゆえ生半可な性根では務まらぬからな」
「あの時もそう伺いました」
飽くまで淡々とした相手の調子に李佐進は苛立った風にパチリと音高く折扇を閉じた。
「儂はお前に目を掛けてやっていたのだぞ。だからこそ玲泉にも引き合わせたのだ」
玲泉、と耳にした瞬間、妻の老いさらばえた顔にも部下のあどけない面影にもそれぞれ異なる痛みが走った。
「あの頃は珠泉を嫁がせたばかりで、玲泉にも是非とも嫁に迎えたいという申し込みが我が家には山ほど来ていたのだ」
「存じております」
うら若い面差しの部下は蓮の花咲く水面を遠く見やった。
河岸では燃えるように赤い牡丹と奥にほのかな紅を含んだ白牡丹が並んで咲いている。
「玲泉殿は本当に清らかな方でした」
切れ上がった眼に悔恨じみた痛みが走った。
「私にも語ってくれました。自分の思い出す限り両親は不和だった。父は常に母を軽んじ、部屋で独り琵琶を弾き机に向かって何事か書き物をしている母はいつも悲しそうだった。ある晩、父母が何事か言い争っているのが聞こえ、翌る朝、母は屋敷を出て行った。その後、何の便りも無いまま先年亡くなったとだけ私たちは知らされた。大姐は『私は自分で不幸になった母様とは違う、きっと幸せになる』と言って嫁いで行った。だが、自分には父が語るように母が特別愚かだったとも不幸になって当然だったとも思えない」
若者の語る声が流れる中、河面の白い蓮の花に止まった烏揚羽を見詰める老婆の眼から一筋涙が伝い落ちる。
「父母のような不幸な結婚はしたくない、と」
「ふん」
つまらぬ話だという風に李佐進は閉じた折扇を半ば投げるように振った。
「玲泉の目にお前は嫁いで幸せになれる相手に見えなかったからそう言ったのだろう」
「いいえ」
青年の姿をした部下は穏やかだがきっぱりと答える。
「娘御は率直な方でした」
ザッと船頭の老人が棹さす音が微かに響いた。
舟上に涼やかな微風と共に蓮の花のどこか青みを含んだ芳香が通り過ぎる。
「貴方様となら心の通った夫婦になれる気がします、と」
番の黄揚羽がひらひらと向かい合う老人と若者の間を横切る格好で飛んでいく。
「私もきっとそうなれると思いました」
かつての部下は干からびた手で閉じた扇を握り締めている老境の上司を見据えて語った。
「お前は自分でその未来を棒に振ったのだ」
尊大に言い放つ紫絹の衣の李佐進に真新しい袍を纏った呂奉國は叫ぶ。
「私は刑部にありながら相手の身分次第で平然と法を曲げる貴方という人が許せなかった」
冷ややかに黙している老人に青年は取り縋るようにして続けた。
「身分一つで有罪の者を見逃し、無実の者を死刑にする。法が無辜の民を守らなくて国が治まりますか」
老人は鬱陶しい蠅や蚊にでも纏い付かれたかのように閉じた扇を持つ手を振る。
「何度言ったら解る、丞相の息子が人殺しなどと世に知れ渡る方こそ国の危機だ」
色を失った面持ちの青年を見下ろして嗤う。
「どうせ殺されたのは辻に立つ一山いくらの売女どもだ」
切れ上がった双眸を虚ろにした若者は黙して首を横に振る。
「犯人も出稼ぎの越南人で良いのだ。あやつらのせいで治安も悪化して民の不満も高まっていたことだしな」
「暴虐です」
答える部下の声にはまるで自らが死罪を課せられたかのような絶望が滲んでいた。
「儂とて殺しの逃げ得は許さぬぞ」
閉じた扇の先で青年を指し示す年老いた李佐進の目が冷たく光った。
「だから、丞相のあの倅も病死ということで始末した」
その言葉を耳にした呂奉國の目に底知れぬ恐怖が広がる。
「それならば、何故あの越南人を」
言いかけたまま途切れた相手の言葉に李佐進は冷然と被せた。
「刑部の裁定に誤りはない」
「とにかく私は絶望して官を辞したのです」
一息に十も老けたような面持ちになった呂奉國は語った。
「玲泉殿には申し訳ないことをしました」
――ザザッ。
船頭の老人がまた棹をさして河というより海原じみた水面に進んだ。
舟の上を漂っていた清新な蓮の香りが次第に微かな泥の匂いに取って代わっていく。
白髪の老婆はただ煤けた琵琶を胸に抱いて陽に透ける薄紅や純白の蓮の花々が遠ざかっていくのを見守っていた。
「いや、お前のようなよくいる机の学問だけの無能に嫁がせなくてこちらは正解だった」
紫絹の衣の李佐進は再び扇子を広げてゆったりと自らを扇ぎ出す。
「珠泉の時よりも豪華な輿入れになるとは父親としても思わなんだ」
どこか震えの浮き出た声で笑った。
「よりにもよって曹興の後添いになど」
質素な装いに変わった青年は刺すように告げた。
「私がいた頃も、貴方は自分の同年でも曹興ほど性根の汚い男はいないと仰っていたではありませんか」
年老いた姿の妻も静かな怒りを秘めた声で語る。
「とにかく兵部を押さえていたのはあの男だったからな」
扇子を扇ぐ手が小刻みに早くなる。
「元から刑部と兵部で都の治安維持を巡って犬猿の仲だった。そこにあの男は丞相の息子の件を嗅ぎつけて脅してきたのだ」
無数の皺が刻まれた顔の中でかつての部下を睨み付ける二個の目が燃え立った。
「期待されていたはずのお前が急に官を辞したせいであやつは刑部の内部に目を付けてきたのだぞ」
壮年の面持ちに熟した相手は怒りよりむしろ悲しみを込めて首を横に振る。
「全て、貴方様の蒔いた種でございます」
陽射しが眩しく照り付ける一方で舟の上を漂う泥の匂いは強まっていく。
「貴方様は御自分の不始末で娘御を政敵に身売りも同然に嫁がせたのでございます」
呂奉國の語る声を聞きながら、江采蓮の黙して夫を見詰める眼差しにも冷ややかな蔑みが宿った。
「父親と年も変わらぬ悪名高い男に姑のような老妾たちの待ち受けている家へと」
陽射しを映して眩しく輝く水面に生じる波の影は限りなく黒い。
「婚礼の席でも酒を喰らって意気揚々と笑っているのは花婿だけ。花嫁は葬式さながら青ざめていたと評判でしたよ」
肩を落として語る男の声は寂しい。
「我が娘は不平一つ言わず嫁いでいった」
李佐進は不満を訴えるのに似た語調で続けた。
「嫁入り後も愚痴一つこぼすことはなかった」
「耳を傾ける貴方ではなかったからでしょう」
かつての妻が答える。
「貴方様は誰よりも法を守らねばならぬ立場にありながら法を曲げ、罪なき者の命を奪うばかりでなく、御息女の人生まで損なったのです」
初めと同じ塵埃にまみれた装いに戻った呂奉國は開いた扇子の金雲と鶴を微かに震わせている老人を真っ直ぐに見据えて語った。
「反省一つなさらぬとは」
「法を曲げたとな」
金雲と鶴が瞬く間に姿を消し、李佐進は立ち上がると閉じた折扇でパシリと呂奉國の太い頸を打ち据える。
「訟棍として誅せられた者が片腹痛いわ」
ピシリとまるで切り込むように再び打つ。
「儂とて一度は我が娘の婿にとまで見込んだ者の首は斬りたくなかったのだ」
浅黒い首の根に半ば食い込ませた折扇が震える。
「それなのにお前は……」
相手はびくともしない。
「私はそのままでは法に救われぬ者の手助けをしただけです」
照り付ける陽射しの眩しさと泥の匂いの強まる中、かつての部下は座したまま壮年の面を上げて語った。
「法の救いを必要としている者ほど訴える術を持たない」
切れ上がった両眼が憐れむように細くなる。
「それは貴方様もご存知でしょう」
黙した李佐進の拳が震えた。
「元より死は覚悟の上での訟師稼業です」
呂奉國はむしろ誇るかのように薄汚れた服の胸を張る。
「刑死した時も多くの者が泣いてくれました」
項に確と食い込ませていた折扇がはらりと力を失った風に閉じたまま外れた。
「犬死にというものだ」
肉の落ちた体を豪奢な絹の衣で覆った李佐進は苦い声で語る。
「言ってくれるよなあ」
舟の奥からまた新たな声が応えた。
「お前は……」
李佐進は固まる。
「俺を覚えてるか? 忘れたとは言わせねえぞ」
太く真っ黒な髪に褐色の肌、大きく円らな目をした、しかし、粗末な木綿の服を纏った体は傍らの呂奉國はもちろん年老いた李佐進と比しても華奢な若い男が舟の隅から立ち上がって紫絹の襟元に掴みかかる。
「よく見ろ、男前だろ?」
あはは、と笑って南国の青年は付け加えた。
「てめえみたいなジジイやそこの奴みたいなオッサンになる前に殺されたからな」
その言葉を耳にすると、壮年の呂奉國は黙したまま切れ上がった目を伏せる。
「あの越南人の雑役夫か」
苦しい息の下から老年の李佐進は答えた。
次の瞬間、身形賤しい若者はどんと高貴な装いの老人を船底に突き飛ばす。
「越南人の雑役夫じゃねえ。俺にはちゃんと阮岳って名前があるんだ」
泥そのものの匂いが舟の上に漂う中、眩しい陽光と光る川面を背に立つその姿は影絵のようでありながら大きな目玉の白目と真っ白な歯並びが浮き上がって見えた。
「お前らの姓は阮でなければ陳か黎ばかりで一人一人の名はとても覚えられぬ」
老人は干からびた手を蝿でも追い払う風に横に振った。
だが、船上を漂う泥の匂いはますます濃く強くなる。
「この儂が覚えるに値する者もおらぬ」
その言葉を耳にするかつての妻と部下の目にも冷ややかな怒りが宿った。
「まして底辺の雑役夫風情など……」
若者は皆まで言わせず剥き出しの足で軽く李佐進の紫絹の衣の肩を蹴ると押し殺した声で答えた。
「そうさ、俺らがやらされるのはお前らのやりたがらない仕事だ」
粗末な衣の華奢な肩が微かに震える。
「漢人が十貰える時に六か七しか貰えない給金で倍も働かされる」
体格に似合わぬ大きく節くれ立った拳が握り締められた。
「ろくにこちらの言葉も話せなければ半人前の仕事しか出来ぬ、暇さえあれば悪さを働く服を着た猿が如き連中の扱いなどそのようなものだ」
老人は乾いた笑い声を響かせる。
「京洛に来て二、三年も働けば郷里に御殿が建てられるなどという噴飯な夢を見てやって来るお前のような馬鹿者は今も都に掃いて捨てるほどいるのだ。周旋屋の好い飯の種だ」
見下ろす若者はもはや足元の相手を殴るも蹴るもせず、ただ黙して拳を振るわせている。
「南の山猿が花の都に出てきて半年もすれば大体、悪い遊びを覚える」
李佐進は俯いている阮岳を下から斜めに覗き込む風にして含み笑いする。
「そもそもお前の捕まったのは最後に殺された越南人の野鶏がその前の日にお前が店で買った簪を付けていたからだ」
笑い声を漏らしながら老人は自らの白髪の鬢を叩いた。
「白玉の偽石で出来たちゃちな代物だったがな」
空の手を投げ捨てるように振る。
「蘭は京洛に出てきてから馴染みになった、たった一人の女だ」
若者は押し殺した声で語った。
「隣の村から出てきたと言っていた」
「南蛮の雑役夫風情なぞ相手にするのはそれは同胞でも底辺の女子しかおらんだろう」
老人の顔はわずかに傾いてきた陽の光をまともに受けてどこか痛みを堪える風に歪んだ笑いを形作っている。
「元は京洛で仕立てを習おうとやって来たのにお針子として奉公に入った店で主人に手籠めにされ、飛び出したそうだ」
青年の声はむしろ淡々としていたが、傍らで耳にする壮年の男の顔にはやりきれなさ、老婆の顔には痛みが走った。
「身寄りも金もなく言葉もろくに出来ない女の身ではもう体を売るより他はなかった。もう一度は汚された身だからとも」
老人はすっかり飽いたといった調子で応えた。
「月並みな売女の身の上話だのう」
「月並みだと」
若者の声には怒りよりも虚しさを強く滲ませていた。
「お前のような阿呆が真に受けて金を出すから売女どもはそういう憐れっぽい話をするのだ。目を引く芸や美しさもなく安値でひたすら身を売るしかない女の定石ではないか」
老人は鶏がらじみた体から空気を漏らすようにして失笑する。
「あの子は……」
言い掛けた阮岳に対し李佐進は勝ち誇ったように言い放った。
「お前が貢いだ安物の簪を着けて他の客を取ろうとして殺された淫売だ」
節くれだった両手が老人の紫絹の襟首を掴んで揺さぶる。
「次に会う時までずっとあの簪を着けてると言ったんだよ」
青年の円らな双眸から褐色の頬に涙が潸然と下った。
「その前に蘭は殺された。俺はあの子はもちろん会ったこともない女まで殺した罪でしょっ引かれた」
「違うと何度も言っても誰も信じてくれなかった」
「飲まず食わずで何日も殴る蹴るの拷問さ」
あはは、と老人の胸ぐらをつかんだまま青年は再び乾いた笑い声を上げた。
「最後にやっと朱雀大路のど真ん中を歩けたよ。馬にまで乗ってさ」
「同じ村から出て来た仲間が隅っこの方に固まって見てた」
「縛られて馬に乗った俺が進むにつれて、南蛮の猿は殺せ、都の蛀虫は一掃しろと通りで大合唱が始まったからそいつらも怖がって逃げた」
涙の消えた若者の目が虚ろになる。
「後はもうお分かりの通り、首チョンパでおしまいさ」
ドサリと再び突き飛ばされた老人は船底に尻もちをつく。
「もう俺も生きてた頃よりくたばってからの方が長いし、延々恨みながら現世に留まるのも飽きて来た。せめてもうちょっとしおらしいジイサンだったら許してやっても良かったんだけどな」
李佐進の周囲をいつの間にか冤罪で処刑された青年ばかりでなくかつての妻である老婆や部下であった壮年の男が取り囲んでいた。
「貴方から少しでも悔やむ言葉が聞けたら許しても良かったのに」
「ここまで改悛の情の無い方だったとは」
「この因業爺がよ」
引き摺り込むような泥の臭いの中、照り付ける陽射しを背にした三者の姿は闇そのもののような黒い影と化して見える。
「黙れ! そなたたちの許しなど儂には要らん!」
李佐進は一喝した。
「お前らは自分でしくじって無様な最期を迎えただけだ」
黙して自分を見下ろす三つの影に老人は高らかに断じる。
「生かしてもこの儂を利するに値しない者は蹴飛ばして進むための石ころに過ぎん。世の中はそのようなものだ」
クスリと笑いを漏らすと老婆の形をした影が答えた。
「やはり、そう仰いますか」
ゴウッと地響きに似た音と共に激しい風が船上を通り過ぎる。
三つの影は巨大な体に鎧を纏いそれぞれ赤、青、緑の顔をした鬼に変わった。
舟がいつの間にか現れていた渡し場に止まる。
「我らはお前を迎えに来た地獄の捕吏である。犯した罪ならばこちらの罪人録にも詳細は既に記してある」
妻の姿をしていた赤鬼が手にした巨大な台帳を示しながら告げた。
「ここにはお前のような者が既に大勢いる」
部下の姿をしていた青鬼が述べる。
「不平も自慢もこれから好きなだけ共に過ごす仲間に語るが良い」
濡れ衣を着せられた青年の姿をしていた緑鬼が語った。
「地獄だと」
李佐進は渡し場の向こうに聳える建物の門を臨んでカラカラと肩を震わせて笑った。
「あれは儂の昇りつめた刑部衙門ではないか」
罅じみた皺が深く刻まれ、紙くずのようになった顔に一筋の涙が伝う。
「それならば、またどこかに上がり目もあろう」
そう呟くと、紫絹の衣の背をすっくと伸ばした李は捕吏たちに引き立てられて舟を降りる。
と、その皺深い顔が振り向いた。
「ここまでご苦労であった」
「恐れ入ります」
船頭の老人は恭しく頭を下げた。
それきり死者は口を噤んで捕吏の鬼たちに囲まれて地獄の門へと歩み始める。
独り残された船頭の老人は憫笑する風に見送ると、陽が傾く中、元来た河をまた下り始めた。(了)




