裁くのは手で
※本作はフィクションです。
白状しよう。私は人を殺したことがある。
目の前に用意されたスイッチを押すという指先一つの簡単な動きで、自分よりも年上の男性をいともたやすく殺してしまったことがある。
その男性は三十代後半の冴えないフリーターであったが、妙にやせこけた顔つきが不気味さを強調するように微笑んでいて、理由もなく挑発されているように感じるせいか、初めて対面した私には精神のゆがんだ凶悪な人間に思えた。
手渡された彼の顔写真を目にしただけで身震いするほどの恐怖を感じたくらいには異様な雰囲気の人間で、低いかすれ声を聞いただけで背筋に冷や汗をかいてしまうほどだった。
ただ、それでも私はその男を、肉体的には何の苦労もなく殺してしまえたのだ。
男からは一切の抵抗を受けることもなかった。
男以外の人間たちからも、一切の妨害を受けることもなかった。
実を言えば彼個人に対する憎しみの感情も、恨みも、怒りも、あるいは彼を殺すに至る正義感や義憤さえも、あげくには使命感すらも私には存在しなかった。おそらく私によって命を奪われた男にも、自分を殺した私に対して最後まで意味のある個人的な感情を抱かなかったことだろう。
命が絶える直前まで、運命に定められた己の死を受け入れるしかなかった彼はモニター越しに真っ直ぐに私の目を見つめ続けた。
恐れてはいたものの、私も彼から目をそらすことができず、同じように視線を交わしていた。
恨みつらみも、怨嗟の声をも上げず、彼は内面に煮えたぎる複雑な感情を押し殺しながら、何かを無言で訴えかけてくるように瞳を揺らし続けていた。
今でも私は、その瞬間を思い出すと恐怖で両手が震えてしまう。
誰も私のことを罪人とは呼ばない。
けれど、事実、私は私を罰したくて仕方がなかった。
当時、私は自分が殺人から最も遠い場所にいると信じていた。
きわめて普通の会社員だった私は平凡であるがゆえに幸せで、挑戦的な刺激に満ちていないがゆえに日常から逸脱した部分などなく、いかにも典型的な社会の歯車と化していた諦めにも似た自負があった。
まさか虫も殺せぬ自分が誰かを殺してしまうことになるなんて、実際にそうなる瞬間まで悪夢でさえも想像することができなかった。自分が人を殺すことはおろか、運悪く誰かに殺されることも、そういった悲惨な現場に巻き込まれることもないだろうと、特に理由もなく楽観的に思っていた。
だから私は「自分には誰も殺せない!」と主張するしかなかったのだ。相手がどこの誰であろうと、何の変哲もない常識人である私には人を殺せるわけがないと言い張ることしか。
ところが現実はそれを許さなかった。
喪服のように黒いスーツに身を包んだ男性が、怯える私の顔を見て穏やかに笑って言うのだ。
「あなたのような人こそ適任でしょう」
「私が適任ですって? それは何故ですか?」
率直に問い返すと、その男はさも当然といったように答えた。
「そう人々が望むからです。わけのわからぬ特別な人間ではなく、どこにでもいるような一般的な人間こそ、我々、善良な一般市民を代表するにふさわしい存在であると」
その瞬間、私は否応なく気がつかされた。
なぜ自分がこの場にいるのかを。
特別な信条もなく、いたずらに偏った思想もなく、個人的な動機に基づく強烈な感情もなく、ごく普通に存在する代わり映えのしない一人の社会人だからこそ、かえって私には”それ”を殺すだけの資格があったのだ。
罪としての殺人行為を否定する一般的な人間と本質的には何一つ変わらないからこそ、普通に生きてきた自覚のある私にはその責務があるのだと。その動機があるのだと。
いわく、突出した個性のない私は理想的なまでにシステムの内側へ組み込まれているのだと。
そして私は、社会によって求められたようにその男を殺した。
殺された彼と私とはそれまで全く接点はなかったのだが、そのことを誰も疑問には思わなかった。むしろ無関係であるがゆえに執行者としてふさわしいと、私は罪を問われることがなかった。
私の目の前で彼の死亡が淡々と確認されると、このことは事件として立件されることもなく、いたって事務的につつがなく処理された。
初めてにして、完璧な殺人だった。
もちろん、それを実行する前には何度も思いとどまった。
年少のころから私は特別に思い切りのよい人間でもなかったので、うじうじした態度で何度も辞退しようと願い出た。
ところが、それを強引な制度は許さなかった。
殺すに至る動機に足らないとなれば、理由の外付けが強要されていた。
私が殺さなければならない人間、すなわち今回の死刑囚を恨み呪う、不幸に包まれた人々の生々しい声が、二の足を踏んでいる私に向けられ流れ込んでくる。
「私の子供が、あの男に殺された」
「あの男は、もはや悪魔そのものだ」
「子供ばかりを狙った連続殺人犯なのだ」
「だから殺されて当然だ。いや、違う。あれは殺されるべき人間なのだ」
だからこそ死刑は当然。
あらゆる罪は、その深さに応じて罰せられて当然である。
「あの男は極悪非道だ。無実な子供の命を、いくつも奪ってしまったのだから」
ここまでのことを生々しく聞かされれば、さすがの私もその男を許すことができなくなる。
死刑も当然の判決だと思えてくる。
しかし、それが直接的に自分の手で犯人の男を殺すことにつながるのかと問われれば、少なくとも小心者である私には難しく、そこまでの覚悟ができなかったのが本音だ。
そのためらいを見透かされてしまったのか、ただちに私は詰め寄られてしまう。
「私たち被害者遺族には、もうどうすることもできません。だけどあなたはそこにいて、あなたにならそれができる」
「それともまさか、あなたはあの男を許すというのですか?」
彼らの怒りや悲しみはもっともだ。
私は答える。
「許せるわけがありません。許したいわけじゃないんです」
それは疑いようのない本心であるはずなのに、まるで何か重大で取り返しのつかない嘘をついているかのように、おろおろと声が震えていたのが自分でもわかった。
無作為抽出による死刑執行制度。
それは死刑囚に対する死刑の執行を、成人した男女からランダムに選び出された一般市民が責任をもって行うというものである。
時の権力者は、こう謳う。
「異論があることは認めます。法によって定められた刑罰とはいえ、人が人を殺すなど、倫理的に鑑みれば間違っているとする見方もあるでしょう。しかしながら一方で、その重大なる間違いを犯した人間を罪人と呼ぶことに関しては、誰の目にも疑いなき真実だと私は信じるのです。ところが、それにふさわしい罰を考えるとなると、ひとたび死刑を封じてしまえば、もはや人間には裁けなくなってしまいましょう。この場合はまさしく、罪の勝ち逃げを許すこととなります。罪が重くなればなるほど、善意ある我々には手に負えなくなってしまうのです」
「凶悪犯の更生や社会復帰が公共にとっての利益になる? なにを馬鹿なことを」
「凶悪犯の人権を守ることが正しい人権的処置であり、自分勝手に法を犯した彼らを許すことが理性ある我々のふさわしい振る舞いだと? おそろしい詭弁だ。まさしくその奪われた被害者及び被害者遺族の傷つけられた人権のためにこそ、勇気ある我々はリスクを冒してでも義理と報復を果たすべきである」
「人も法も罪を裁くための強力な手段を失ってしまえば、常軌を逸した罪人を甘やかす自称人権派の主張によって、我々は恐ろしい罪や悪事の数々をふにゃふにゃのムチで飼いならす羽目になるのです。感情では認めがたい罪のロンダリングを、極刑が禁止された絶対不変のルールに組み込まなければならなくなる。それでは社会において、悪人たちによって人権が虐げられた弱者の救済はなくなってしまうでしょう」
「法律のもと、国家機関による閉ざされた世界で執行される死刑は、単なる制度的手続きであり、罰とは呼べない。加害者と被害者との間で直接的に執行される死刑は、もはや感情的な復讐行為であり、これも罰とは呼べない。厳格で公正なる法に基づいて、感情と理性を兼ね備えた人間が代表し、その二つによって同時に裁かれるべきなのだ。つまり、人間の罪を裁くのは人間による手でなされなければ」
要するに、と言葉を繋ぐ。
「死刑制度において刑罰が執行される罪人は、死ぬことそのものが罰ではありません。人の手によって裁かれることこそ、この世における償いなのですから」
それこそが、死刑執行員制度の意味である。
同時にそれが限界でもあった。
人を殺した罪に対する罰が、まさに人をして人を殺させるのだから。
真の意味で世界から罪が消え去ることはない。
ただ、それをいえば最初に殺人の罪が発生した時点で手詰まりなのだ。
「もしも死刑制度を廃止しようと思うのなら、我々は強い信念を持たねばならないでしょう。決して大罪を犯さないという、あまりにも強く共有された信念です」
「だがそんなのは不可能だ! ならばその代わりとして、ここに新しく、血の通った死刑執行制度を残しましょう!」
「死刑制度に立ち向かう反対派を名乗る活動家の皆様方は、ぜひその熱心で一方的な労力を罪の根絶にこそ注いでいただきたい。この世から極刑に値する罪が消えれば制度だけ残る。そのときこそ、二つの意味で犠牲者はいなくなるでしょう」
けれど私は、私が殺さねばならぬ男性の親族から、こんな話も耳にした。
まったくの偶然か、それとも何かの因縁がそうさせたのか、私が死刑を執行する前日に出会うこととなった彼の姉に聞いた話である。
「私の弟は二十歳のころ、この制度によって、自分とは無関係な人間の死刑を執行させられたのです」
弟についてそう語った彼女は、目から涙を流しながら訴えかけてきた。
「その強烈な経験がきっかけとなり、あれほど残虐な連続殺人犯へと弟を豹変させてしまったのです。どうか忘れないでください。弟はこの制度の被害者でもあるのです」
それはおそらく、この欠陥だらけの死刑執行制度の根本的な問題である。
いくら相手が死刑を言い渡されるほどの重犯罪人であるとしても、たとえ法的に許された社会の制度であったとしても、最終的には自身の行為の結果として人を殺すという経験が、そう簡単に割り切れるほど軽いものであるはずがない。
それは尾を引き、影を落とし、やがて黒々とした感情として芽吹くに違いない。
「ここで弟が処刑されてしまえば、この問題もろともに葬り去られてしまうから……」
ついには嘆願までされてしまう。
「実の弟といえど、彼が犯した罪それ自体は絶対に許せません。ですが、このシステムによる死刑だけはどうか……」
その言葉を最後に、彼女は私の前から立ち去った。
しかしながら、結局のところ私は男の死刑を執行した。
彼の犯した重大なる罪は何が原因であろうと決して許されるべきではないのだから当然だとも思いつつ、ではなぜ一方で私の行為が許されるのかと、今でも不安で仕方がない。
自分の中でさえ、結論はついていないのだ。
なのに、情に竿さして流されるまま、私はそれを経験してしまった。
罪には罰が必要だと首肯してしまった。半ば後悔しつつも、今でさえそれを完全には否定できないでいる。賛成するのも反対するのも口先だけなら簡単なのだ。
しかし、たとえば今の私はそれを明確なものとして語れるだろうか?
今後の人生において私はこれを、淡々と消化できるだろうか?
あるいは――彼と同じような衝動に?
今はただ、名もなき一人の執行者として彼を裁いたこの手が、恐怖一色に震えるばかりだ。




