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サラリーマンに読んでほしい話

よんでみてください

# 第三話:嘘をつかない少年


鏡の前で、僕は笑顔を作る練習をしている。


口角を上げる。目尻を少し下げる。眉は自然に。歯は見せすぎない程度に。この角度、この強さ。クライアントには三番の笑顔。上司には五番。同僚には二番と四番の中間。それぞれに最適化された表情を、僕は使い分けることができる。


「田村さん、本当に人当たりがいいよね」


今日も誰かにそう言われた。誰だったか、もう思い出せない。


洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。三十二歳。疲れは隠せているはずだ。目の下のクマはコンシーラーで消した。髪も整えた。ネクタイの結び目も完璧だ。


でも、この顔が誰なのか、よく分からない。



中学二年の夏、僕は教室で立っていた。


「先生の授業、つまらないです」


クラス中が凍りついた。担任の顔が真っ赤になった。隣の席の佐々木が「おい、やめろよ」と小声で言ったが、僕は続けた。


「みんな寝てるか、内職してるかじゃないですか。もっと面白い授業をしてください」


職員室に呼び出された。母親が呼ばれた。「なぜあんなことを言ったの」と泣かれた。


でも、僕は間違っていないと思っていた。嘘をつかない。それが僕の誇りだった。


「建前ばかりの大人にはなりたくない」


そう宣言した僕を、親友の健太は笑って肩を叩いた。


「お前、面白いな。そのまま行けよ」


僕らは約束した。大人になっても、自分を曲げないって。



スマートフォンが震えた。メールの通知。取引先の山田部長からだ。


『例の件、前向きに検討させていただきます』


ああ、これは断るという意味だ。僕は即座に翻訳する。前向きに検討=やらない。検討させていただく=興味がない。


返信を打つ。


『ありがとうございます。ぜひとも良い方向でお話を進められればと存じます』


良い方向=どんな方向でもいいから進めてくれ。進められれば=進まないだろうけど。


送信。


これが僕の言語だ。本音を言葉にしない。誰も傷つけない。誰も不快にさせない。そして、誰にも届かない言葉。


次は営業部の後輩、小林からのメッセージ。


『田村さん、今日の商談、勉強になりました!』


彼は入社三年目。まだ目が輝いている。僕にもあんな時があっただろうか。


『いえいえ、君の方がよく準備していたよ』


本当は思う。君の提案書は甘い。数字の根拠が弱い。でも、それを言ったら彼は傷つく。僕は優しい先輩でなければならない。


優しい嘘。温かい嘘。潤滑油としての嘘。


僕は毎日、何十、何百の嘘を重ねている。



「今月も目標達成、お疲れ様」


部長が僕の肩を叩く。


「いえ、皆さんのおかげです」


本当は思う。この目標設定、低すぎませんか。もっと挑戦的な数字を立てるべきじゃないですか。


でも言わない。波風を立てない。それが僕の役割だから。


「田村は本当に頼りになるよ。君みたいな人材がいてくれて助かる」


「ありがとうございます」


本当は思う。僕のことを本当に理解している人が、この会社にいるのだろうか。


夜、居酒屋でチームの飲み会。


「田村さんって、いつも穏やかですよね。怒ったところ見たことない」


「そんなことないよ」


嘘だ。僕は怒りを感じることがある。理不尽に。矛盾に。でも、それを表に出すことはない。


「奥さんとはどうなんですか? 喧嘩とかします?」


「まあ、たまには」


本当は、妻が何を考えているのか分からない。僕も、自分が何を考えているのか、妻に伝えていない。二人とも完璧な笑顔で、完璧な距離を保っている。


「田村さんの趣味って何ですか?」


若手の女性社員が聞いてくる。


僕は数秒、考え込んだ。


趣味。


僕の、趣味。


「読書とか、映画とか、まあ普通だよ」


そう答えたが、最後に本を読んだのはいつだっただろう。最後に心から面白いと思った映画は。


思い出せない。



スマートフォンに通知が入った。Facebookのメッセージ。


『久しぶり! 来月、中学の同窓会やるんだけど、来られる?』


健太だった。十年ぶりくらいだろうか。


プロフィール写真を見る。日焼けした顔。Tシャツ姿。背景は海だ。あいつ、確か地元で漁師をやっているんだっけ。


僕は迷った。


行きたい。でも、行きたくない。


『いいね、行くよ』


送信してから、自分でも驚いた。本当に行きたいのか? それとも、これも建前なのか?


分からない。



同窓会当日。会場は駅前の居酒屋だった。


扉を開けると、懐かしい顔が並んでいた。みんな老けた。当たり前だ。僕も老けた。


「おお、田村!」


健太が駆け寄ってくる。相変わらずの笑顔。屈託のない笑顔。僕は営業スマイルを浮かべる。


「久しぶり」


「元気してた? 仕事どう?」


「まあ、なんとかやってるよ」


「そっか」


健太は僕の顔をじっと見た。


「お前、変わったな」


心臓が跳ねる。


「そう?」


「うん。なんていうか、丸くなったっていうか」


健太は笑った。悪意のない笑顔。


「昔のお前、もっととんがってたじゃん。先生に食ってかかったり、気に入らないことあるとすぐ文句言ったり」


「ああ、若かったからね」


「俺さ、お前のそういうとこ、好きだったんだよ。真っ直ぐで」


胸が痛い。


「今は大人になったってことだよ」


そう言って、僕は笑った。何番の笑顔だったか、自分でも分からない。


健太は少し寂しそうな顔をした。


「そっか。まあ、そうだよな」


乾杯の音頭が取られた。みんなで杯を上げる。


「田村、お前、東京で営業やってるんだっけ? すごいな」


「そんなことないよ」


「結婚もしてるんだろ? 順調じゃん」


「まあね」


順調。そうだ、僕は順調だ。安定した収入。妻。マンション。部下たち。順調だ。


でも。


「なあ、田村」


健太が僕の肩を叩く。


「お前、楽しいか?」


言葉が出なかった。


楽しい?


僕は、楽しいのだろうか。


「楽しいよ」


反射的に答えていた。


「そっか」


健太は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。



二次会は断った。終電がある、と嘘をついた。本当はまだ十時だ。終電まで二時間以上ある。


駅のホームで、僕は立ち尽くしていた。


「お前、変わったな」


健太の言葉が頭の中で反響する。


変わった。


そうだ、僕は変わった。


嘘をつかないと誓った少年は、嘘をつくことでしか生きられない大人になった。


スマートフォンを取り出す。今月のカレンダーを開く。予定がびっしりだ。クライアントとの打ち合わせ。社内会議。接待。上司の機嫌取り。部下のフォロー。


そして、来月の給料日。クレジットカードの引き落とし。マンションのローン。今日の同窓会の会費、一万円。


僕は、これらのために生きている。


電車が来た。


乗り込む。座席に座る。窓に映る自分の顔を見る。


疲れた顔。


誰かの顔。


帰宅して、玄関の鏡の前に立つ。


口角を上げる。眉を自然に。目尻を少し下げる。


明日のための笑顔を、僕は練習する。


クライアントには三番。上司には五番。妻には七番。


そして、鏡の中の自分には。


何番の顔を見せればいいのか、僕にはもう分からない。


リビングから妻の声が聞こえる。


「おかえりなさい。同窓会、どうだった?」


「楽しかったよ」


僕は答える。完璧な笑顔で。


完璧な嘘で。



(終)

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