第3話 黒い画面
彼は、帰宅すると同時に靴を脱ぎ捨て、母親の声も無下にして、ほとんど反射的に自室へ向かった。扉を閉めると、外のざわめきが一気に遠のき、静かな空気が肺の奥まで流れ込んでくる。だが、その静けさが、かえって背を突つくように感じられた。
机に置かれたノートパソコンの電源を入れる。黒い画面に自分の顔がぼんやり映り、思わず視線をそらした。数秒の起動音がやけに長く感じられる。いつかの夏を思い出しながら、島田は動画フォルダを開いた。
すぐに目に入るのは、白いラベルのついたファイル名だった。
『練習試合_千章学園_0515』
高校二年生の頃、マネージャーが撮ってくれた映像である。
カーソルを滑らせて再生ボタンを押すと、画面が暗転し、数秒の後に、うっすらと灼けた球場の風景が立ち上がった。スタンドのざわめき、蝉の声、甲高い声出し。全てが現実よりも鮮やかなまま、時間を閉じ込められているようだった。
二回表の途中まで動画を飛ばす。先発投手の名が、外野のボードにうっすらと映っていた。そこには「P:島田」と書かれていた。
やがて、白いユニフォーム姿の六番打者が右打席に立った。……宮内だ。サードを守るときの鋭い眼つきとはまた違う、打席でのあいつの顔。迷いが一切ない、獲物を仕留めにいく獣の目だ。島田は、背筋に電流のようなものが走るのを感じた。
宮内の足元がゆっくりと揺れ、バットがわずかに上下する。投手としてマウンドに立っていた自分の視点が、不意に胸の奥で蘇る。あの日の空気、息を吸うのも億劫に感じるような緊張。捕手のサイン。握り直した球の感触。
……抑えられる気なんて、しなかったんだ。
画面の中で、自分が投げた初球がミットに収まる前に、宮内のスイングはすでに終わっていた。金属音が球場に跳ね返り、白球が左翼の頭上を越えていく。観客席から上がる歓声。カメラがボールを追う間、宮内はまるで歩くような落ち着いたペースで塁を回っていた。
再生を止めようと手を伸ばしかけたが、指先は空中で止まった。
目が離せなかった。
島田の視界には、ホームに戻ってきた宮内の姿が映っている。仲間に頭を叩かれながらも、どこか俯きがちで、静かに頬を緩めるあの癖。派手さはないのに、存在だけで周囲を巻き込む力があった。
シークバーを無心で滑らせ、二打席目。宮内はファウルで粘った末に、外角低めのスライダーをすくい上げるように右中間へ運んだ。当時、島田は自分の指先が震えているのを、はっきりと感じていた。配球をガラッと変えたのに、スライダーを投げるたび、バットの軌道が頭の中で先回りして見えた。避けようがなかった。
「どうしろって言うんだ」
声に出した途端、胸がきゅっと縮んだ。問いかけというより、呟きにすら届かない、呼気のような言葉だった。
続いて三打席目。二死二塁、初球、インコースのストレート。投げた瞬間、島田は「入った」と思った。踏み込ませないための、意地の一球。だが宮内は腰を引くどころか、むしろ踏み込んだ。乾いた快音とともに、打球はセンターの頭上を一直線に越え、スコアボードに打ち付けた。
三安打目、決定的な一本。六回の途中で島田は降板した。
画面がスローで流れるように見えた。スイングの軌道、重心の移動、手首の返し。どれも、当時の島田には理解できなかった。いや、今でも見返したところで、自分には到底辿り着けない領域に思えた。
再生が止まり、黒い画面が部屋に沈むように静まり返る。
島田は椅子の背に体重を預け、深く息を吐いた。自分の吐息が部屋の静寂に吸い込まれていく。
彼は目をつむりながら、現実を確かめるように、昨日のドラフト会議のことを思い出していた。
六巡目になっても名前が呼ばれない時点で、島田はプロに行けないのだと悟っていた。まあ、彼に大した落ち込みはなかった。来てくれたスカウトだって一チームだけであり、彼もあまり、満足いく表情はしていないように思えた。
それに信じられないことに、あの宮内も指名が来ていなかった。なるほど、「プロの壁は厚いのだ」。そんな結論に落ち着けようとしていた。
だが……指名の瞬間が訪れた。
テレビに映った自分の名前。信じられず、何かの間違いじゃないかと胸の奥がざらついた。隣で父が声を上げ、母の目に涙が浮かんで、監督からの祝電が届いた頃になっても、島田だけはどこか、体の芯が置いていかれたような感覚に包まれていた。
…………宮内は?
県大会でも、甲子園でも、いつだって自分より先に注目されていた存在。努力も、才能も、打球の音も、何もかもが規格外だった宮内。
画面に映らなかったその名前が、何かの支柱を抜き取ったかのように、胸の中に穴をあけていた。島田は呆然としたまま、湧き上がる歓喜の声に包まれながら、本当は誰にも見えない場所で叫びたかった。
ゆっくりと顔を上げると、パソコンの黒い画面に自分の姿がぼんやりと映っていた。浮かれた雰囲気の世界から切り離されたように、その顔はひどく暗く、迷子のようだった。




