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第1話 ドラフト翌日

 ドラフト会議の翌朝、島田は落ち着かない足取りで学校へ向かっていた。


 歩いているはずなのに、地面を踏みしめている実感が薄い。昨夜から胸の奥に漂うのは、喜びと困惑のまじった霧のような感覚だった。正夢なのに、どこか現実離れしている――そんな不思議な浮遊感が、まだ身体のどこかにまとわりついていた。


 校門が見えてくると、こちらへ向けられる視線の束に気付いた。次の瞬間、黄色いどよめきが広がっていく。驚きと羨望と好奇心がないまぜになった、ざわめきの波。その中心に自分がいるという事実だけで、島田の歩幅は自然と小さくなる。濁流に押し流されるように何度も会釈しながら、彼はただ校舎へと向かった。


 玄関近くまで来たときだった。スーツ姿の大柄な男性が立っていた。いつもの教壇の上からではなく、真正面から向けられる柔らかな眼差し。その人物が校長だと気づいた瞬間、島田の胸の奥で、ようやく「現実」という輪郭が形を持ち始めた。


「島田くん、ドラフト指名……本当におめでとう」


 校長はそう言うと、どこか遠慮がちな、しかし誠意を込めた手を差し出してきた。島田は一瞬、その手をどう扱ってよいか迷った。けれど、ふと視界の端に野球部の監督が立っているのを見つけると、条件反射のように背筋が伸び、強ばった指先で握手を返した。


 それから先は、目まぐるしい展開の連続だった。気づけば校長室へ通され、校長との記念撮影、校旗とのツーショット、さらには地元紙の記者からの簡単な取材まで舞い込んできた。島田は何を答え、どんな表情をしたのか、ほとんど覚えていなかった。ただ、誰かが発した質問に、夢の中で口を動かすように、言葉が勝手に零れ出ていく……そんな感覚だけが残っていた。


 取材がひと段落すると、ようやく校長室を出ることができた。扉が閉まる音と同時に、廊下の空気がひんやりと肌に触れた。喧騒から切り離されたわずかな静けさが、なぜか逆に心をざわつかせる。島田は深く息を吸い込み、胸の奥でばたつく感情を押さえ込もうとした。


 けれど、落ち着くどころではなかった。


 部室へ戻る途中、すれ違う生徒のほとんどが、どこか浮き立ったような顔で島田を見てくる。軽い会釈に返事をすると、向こうはさらに大きく頭を下げる。まるで自分が、昨日までとは別の人物に変わってしまったかのようだった。


 階段を降りた先の掲示板には、朝刊の切り抜きが貼られていた。知らないうちに、吹き出しで囲われた自分の顔写真が載っており、その下に「岩岡高校から十五年ぶりのドラフト指名」の文字が躍っている。島田は一瞬、掲示板の前で足を止めた。だが、何かが喉につっかえるのを感じて、すぐに視線を逸らした。


「おめでとうございます、島田先輩」


 声に振り向くと、野球部の二年生たちが数人、控えめに、しかし抑えきれない興奮を顔に浮かべて立っていた。その明るさとは裏腹に、島田の胸には微かな影が差す。彼らの祝福を真正面から受け止められない理由は、すでに分かっていた。


「ありがとう……練習、もう始まってるのか?」


「はい。監督が、今日は島田に無理させるなって。でも、顔くらいは見せてほしいって言ってました」


 彼らの視線を背中に感じながら、島田はグラウンドへ向かう。フェンス越しに見える赤土は、昨日までと何ひとつ変わらないはずなのに、まるで遠くから眺めているように感じられた。


 グラウンドに足を踏み入れると、島田の姿を見つけた部員がぱっと動きを止めた。次の瞬間、あちこちから拍手が湧き起こる。嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな痛みが走った。これほど祝福されることを、島田は予想していなかった。


 マウンド脇から監督が歩み寄ってきた。いつもの厳しい顔ではなく、どこか穏やかな表情だった。


「島田、努力が報われたな。胸を張れ」


 その言葉に、島田は自然と目を伏せた。胸を張れるのか。この祝福の輪の中心に立っていいのか。


 ……なんで俺なんだよ。

 あの宮内が、指名されなかったのに?


 かつての同級生の姿がよぎる。

 自分の球を外野の奥へと運んだあの姿が、昨日のことのように蘇る。


「……はい」


 かろうじて声を絞り出しながら、島田は軽く礼をした。だが、その返事が自分の声に聞こえなかった。


 練習を少し見てから帰ろうと思ったが、島田は早々にグラウンドを離れた。祝福が重荷に感じられるわけではなかった。ただ、胸の奥で渦巻く感情の正体を、一人っきりで確かめたくなった。


 靴を履き替え、校舎を出ると、秋の乾いた風が頬を撫でる。ポケットの中で、スマホがひどく重たく感じられる。宮内からの連絡は、今もない。


 家へ向かう道すがら、島田はふと決めたように顔を上げた。

 帰ったら、あの映像を見返そう。あの練習試合で、自分が宮内に打たれ続けた場面を。あれを見れば、きっと何かがはっきりする。


 その願望だけが、足取りをほんの少しだけ軽くした。

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