第四章「闇の覚醒」第1話:勝利の代償
第四章「闇の覚醒」第1話:勝利の代償
黒月の牙との激戦から一夜が明けた。
王都の闘技場は、昨夜の戦闘の痕跡をほとんど残していなかった。各国から派遣された修復魔法使いたちの手により、破壊された観客席も、亀裂の入った闘技場の床も、まるで何事もなかったかのように修復されていた。
だが、その平穏な光景とは裏腹に、アレンの身体には確かな異変が起きていた。
「……っ」
医務室のベッドに横たわりながら、アレンは自分の右手を見つめた。手のひらを握りしめると、微かな痛みが走る。まるで体内で何かが軋んでいるような、不快な感覚だった。
『アレン』
エルフェリアの声が、いつになく真剣な響きを帯びていた。
『君の体内のマナバランスが、崩れ始めている』
「……分かってる」
アレンは小さく呟いた。
そう、分かっていた。昨夜のドラゴン級魔獣との戦闘で、三体のマナの化身と共に《双炎連撃・ツインフレア》を放った瞬間から、身体の奥底で何かが狂い始めているのを感じていた。
『イグニス』
炎のマナの化身の声が、普段の厳しさとは異なる心配そうな響きで聞こえた。
『お前は世界のマナを直接使いすぎた。体内マナを持たないお前の身体は、世界のマナを通す導管のようなものだ。だが、その導管に亀裂が入り始めている』
『そういうこと』
シルフの明るい声も、今日ばかりは沈んでいた。
『三つの属性を同時に使うのは、やっぱり無理があったんだ。光と炎と風……それぞれが君の身体を通る時、少しずつ流れがぶつかり合っている』
医務室のドアがノックされた。
「失礼します」
エリナ先生が入ってきた。治癒魔法を専門とする彼女の顔には、珍しく深刻な表情が浮かんでいた。
「アレン君、少し検査をさせてもらえるかしら」
「はい」
アレンがベッドの上で身体を起こすと、エリナ先生は手のひらを彼の胸に当てた。淡い緑色の光が彼女の手から溢れ出し、アレンの身体を包み込む。
数秒後、エリナ先生は手を離した。
「……やはり」
「やはり、とは?」
「君の体内のマナの流れが、完全に乱れているわ」
エリナ先生は深いため息をついた。
「通常の魔法使いなら、体内マナと世界マナのバランスを自然に調整できる。でも君は体内マナを持たず、世界マナを直接身体に通して魔法を使う。それ自体が既に異常なのに、三つの属性を同時に使うなんて……」
「先生、僕は……」
「次に古代魔法を使えば、取り返しがつかなくなる」
エリナ先生の言葉は、重く、そして明確だった。
「最悪の場合、君の身体が世界マナに耐えきれず、内側から崩壊する。それは治癒魔法でも治せない」
静寂が医務室を支配した。
『エルフェリア』
アレンは心の中で問いかけた。
『本当に、もう古代魔法は使えないのか?』
『……君は強くなりすぎた、アレン』
エルフェリアの声には、悲しみが滲んでいた。
『三つの属性、三体の化身……人間の器には限界がある。君はその限界を、とうに超えてしまった』
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
アレンは思わず声に出していた。
エリナ先生が不思議そうに彼を見る。
「アレン君?」
「いえ、何でもありません」
アレンは慌てて首を横に振った。
「分かったわ。とにかく、今日一日は絶対安静。明日の全国大会は……校長先生と相談してみましょう」
「でも、僕が出なければFクラスは——」
「君が倒れたら元も子もないでしょう」
エリナ先生の言葉に、アレンは黙り込んだ。
彼女が医務室を出た後、アレンは再び天井を見つめた。
『アレン』
エルフェリアの声が、ゆっくりと響いた。
『一つだけ、方法がある』
「方法?」
『……もう一つ、属性を増やすしかない』
アレンは思わず身体を起こした。
「え? それって、どういう……」
『光の対となる闇。四属性で均衡を保つのよ』
「闇……?」
アレンの脳裏に、昨夜のセレスの言葉が蘇った。
——君の中に眠る闇、ノクティアでなら目覚めさせられる。
『そう。君の中には、光と対をなす闇の力が眠っている』
エルフェリアの声は、静かだった。
『でも、それを目覚めさせるのは……簡単ではない』
「何をすればいいんだ?」
『分からない。私にも、その方法は……』
エルフェリアの言葉が途切れた。
その時、医務室のドアが再び開いた。
「アレン!」
ヒナタが息を切らして飛び込んできた。その後ろには、トム、マルク、カイル、リサ、エマの姿もあった。
「みんな……」
「無理すんなよ、アレン」
トムが照れくさそうに笑った。彼の額にはまだ包帯が巻かれているが、昨夜の負傷は既にほとんど癒えているようだった。
「ヒナタちゃんから聞いたぜ。お前、身体ボロボロなんだって?」
「大丈夫だ。少し疲れてるだけで——」
「嘘つき」
ヒナタが真っ直ぐにアレンを見つめた。
「私には分かる。アレン、あなたは無理をしてる」
その瞳には、心配と、そして少しの怒りが滲んでいた。
「昨夜の戦い、確かにあなたは凄かった。ドラゴン級魔獣を一撃で倒したあなたは、本当に格好良かった。でも……」
ヒナタは拳を握りしめた。
「でも、私たちは仲間でしょう? あなた一人に全部背負わせるつもりはない」
「ヒナタ……」
「次の試合は、私たちに任せて」
リサが優しく微笑んだ。
「私たちだって、あなたに頼ってばかりじゃいられないもの」
「そうだぜ」
カイルが拳を掲げた。
「俺たちだって、スクロールで魔法を習得したんだ。もう足手まといじゃない」
「みんな……ありがとう」
アレンは、仲間たちの顔を一人ずつ見つめた。
そうだ。自分は一人じゃない。Fクラスには、こんなにも頼れる仲間たちがいる。
「でも、次の相手は——」
「知ってるわよ」
ヒナタが不敵に笑った。
「セルフェン王国代表。氷魔法の天才、クリストフでしょう?」
アレンは目を見開いた。
「もう発表されたのか?」
「さっき、掲示板に貼り出されてた」
マルクが頷いた。
「セルフェン王国代表隊長、クリストフ・フロスト。SSS級スクロール《絶対零度領域・アブソリュートゼロ》の使い手だってさ」
「SSS級……」
アレンは息を呑んだ。
SSS級スクロールは、全ての魔法使いが憧れる最高峰の魔法だ。その習得難易度は極めて高く、成功率は僅か数パーセントとも言われている。
「でもよ」
トムが肩を竦めた。
「俺たちだって、全国大会でここまで勝ち上がってきたんだ。SSS級だろうが何だろうが、戦ってみなきゃ分からねえだろ」
「そうだよ!」
エマが元気よく拳を突き上げた。
「アレンがダメなら、私たちが頑張ればいいんだもん!」
仲間たちの言葉に、アレンは胸が熱くなるのを感じた。
その時、医務室のドアが三度目に開いた。
「おや、随分と賑やかですね」
現れたのは、銀髪をストレートに伸ばした美しい女性だった。氷のように冷たく、それでいて優しさを秘めた微笑みを浮かべている。
「リアナ先生!」
ヒナタたちが一斉に声を上げた。
アレンの姉であり、学園の氷魔法教師でもあるリアナ・アルカディアが、医務室に入ってきた。
「姉さん……」
「弟が倒れたと聞いて、駆けつけてきました」
リアナはアレンのベッドの傍に座った。
「エリナ先生から、大体の事情は伺いました。古代魔法の反動で、身体が限界を迎えているのですね」
「姉さんまで心配かけて、ごめん」
「謝る必要はありません」
リアナは優しく微笑んだ。
「それより、あなたに伝えておきたいことがあります」
「何?」
「次の対戦相手、クリストフ・フロストについてです」
リアナの表情が、わずかに曇った。
「彼は……私の元同級生の弟です」
「元同級生の……弟?」
アレンは驚きの声を上げた。
「姉さんがセルフェン王国の魔法学園に留学していた時の?」
「ええ」
リアナは遠い目をした。
「彼の姉、エリシア・フロストは、私の親友でした。氷魔法の天才で、優しくて、誰からも愛されていた……」
「でした、って……」
「三年前、エリシアは亡くなりました」
リアナの声は、静かだった。
「魔獣討伐任務中の事故で。彼女は仲間を庇って……」
医務室に重い沈黙が降りた。
「クリストフは、姉の死をきっかけに変わってしまったと聞いています」
リアナは続けた。
「元々は明るく優しい子だったそうですが、今は……氷のように心を閉ざしてしまった」
「姉さん……」
「アレン」
リアナは弟の目を真っ直ぐに見つめた。
「クリストフは強い。SSS級魔法の使い手というだけでなく、その心に深い悲しみを抱えている。そういう人間は、時に恐ろしいほどの力を発揮します」
「分かってる」
アレンは頷いた。
「でも、だからこそ……僕は戦わなきゃいけない」
「無理はしないで」
リアナは弟の頭に手を置いた。
「あなたには、まだやるべきことがある。ここで倒れるわけにはいかないのよ」
その言葉の意味を、アレンは完全には理解できなかった。
だが、姉の瞳に宿る真剣さは、何かを訴えかけているように感じられた。
「みんな、そろそろ出ましょう」
リアナが立ち上がった。
「アレンには休息が必要です」
「はい……」
ヒナタたちが渋々と医務室を出ていく。
「アレン、絶対に無理しないでね」
ヒナタが最後にそう言い残して、ドアを閉めた。
再び一人になった医務室で、アレンは深いため息をついた。
『アレン』
エルフェリアの声が、優しく響いた。
『君には、まだ時間がある。焦る必要はない』
「でも……」
『君の仲間たちを信じなさい。彼らは、君が思っているよりもずっと強い』
アレンは目を閉じた。
そうだ。自分一人で全てを背負う必要はない。
Fクラスの仲間たちがいる。
ヒナタがいる。
そして、エルフェリア、イグニス、シルフもいる。
「……分かった」
アレンは小さく呟いた。
「次の試合は、みんなに任せる」
『良い判断ね』
エルフェリアの声には、安堵が滲んでいた。
『でも、覚えておいて。闇の力は、いずれあなたの中で目覚める。その時が来たら……』
「その時が来たら?」
『恐れないで。闇は、光の敵ではない。光と闇は、表裏一体なのだから』
エルフェリアの言葉の意味を、アレンはまだ理解できなかった。
だが、その言葉は、彼の心に深く刻まれた。
その夜。
アレン・アルカディアの父、ゼノス・アルカディアは、アルディア王国の自宅書斎で一通の手紙を読んでいた。
差出人は、王国騎士団長。
内容は、全国大会での黒月の牙襲撃事件の詳細報告だった。
「……三体のマナの化身を同時に顕現させ、ドラゴン級魔獣を一撃で倒した、か」
ゼノスは深いため息をついた。
「アレン、お前は……あまりにも早く、強くなりすぎている」
書斎の奥には、古びた羊皮紙が保管されていた。
5000年前の古代魔導王国から伝わる、アルカディア家の秘伝書。
そこには、こう記されていた。
——光の継承者、三体の化身と契約せし時、封印は解かれ、第四の力目覚めん。
——四属性を統べる者、世界を救うか、滅ぼすか。
——その運命は、継承者自身の選択に委ねられる。
「第四の力……闇か」
ゼノスは羊皮紙を見つめた。
「アレン、お前の中で、闇が目覚め始めているのか」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。
月のない、暗い夜だった。
「護衛騎士団を派遣するだけでは、足りないかもしれない」
ゼノスは決断した。
「私自身が、王都に向かうべきか……」
アルカディア家当主の決断は、やがて大きな波紋を呼ぶことになる。
翌朝。
全国大会の会場である王都闘技場には、既に大勢の観客が集まっていた。
昨夜の黒月の牙襲撃事件にも関わらず、大会は予定通り続行される。
各国の威信をかけた戦いは、誰にも止められない。
「本日の準々決勝、第一試合!」
実況の声が闘技場に響き渡った。
「アルディア王国代表Fクラス対、セルフェン王国代表Aクラス!」
歓声が巻き起こる。
闘技場の中央に、二つのチームが向かい合った。
Fクラス側は、ヒナタを先頭に、トム、マルク、カイル、リサ、エマ、そして——。
「アレン!」
ヒナタが驚きの声を上げた。
アレンが、チームの最後尾に立っていた。
「無理しないでって言ったのに!」
「大丈夫」
アレンは微笑んだ。
「今日は、お前たちが主役だ。俺は……サポートに回る」
「アレン……」
ヒナタの瞳が潤んだ。
「ありがとう」
対するセルフェン王国代表の先頭には、一人の青年が立っていた。
銀髪に、氷のように冷たい青い瞳。
整った顔立ちは、まるで氷の彫刻のように美しく、それでいて人を寄せ付けない冷たさを纏っていた。
クリストフ・フロスト。
セルフェン王国が誇る、氷魔法の天才。
「アルディア王国のFクラス、か」
クリストフの声は、氷のように冷たかった。
「噂は聞いている。古代魔法使いのアレン・アルカディアがいるチームだと」
彼の視線が、アレンを捉えた。
「だが、君は今、満足に戦えない。そうだろう?」
アレンは何も答えなかった。
「……やはり」
クリストフは薄く笑った。
「リアナさんから聞いていたよ。君が古代魔法の反動で身体を壊していることを」
「姉さんが……」
「安心しろ。私は君と戦いたいわけではない」
クリストフは手を広げた。
「私が戦いたいのは……君の仲間たちだ」
その言葉に、ヒナタたちが身構えた。
「試合、開始!」
審判の声が響いた瞬間——。
闘技場の温度が、急激に下がった。
「《氷結領域・フロストドメイン》」
クリストフが手を掲げると、闘技場全体が氷に覆われた。
観客席から悲鳴が上がる。
「これは……」
アレンは息を呑んだ。
闘技場の床、壁、天井……全てが純白の氷に覆われている。
「ようこそ、私の領域へ」
クリストフが冷たく微笑んだ。
「ここでは、私が絶対だ」
氷の貴公子と呼ばれる天才魔法使いとの戦いが、今、始まった。
【次回予告】
氷に覆われた闘技場で、Fクラスの戦いが始まる。
クリストフの氷魔法は、アレンの炎さえも凍りつかせる。
絶望的な状況の中、ヒナタたちは新たな力を発揮する。
そして、アレンの中で、何かが目覚め始める——。
第2話「氷結の貴公子」、お楽しみに。




