第96話:一時の休息
会議が散会すると同時に蒼真は椅子の背から手を離し、ふらりと立ち上がった。
黒い左眼が脈打つ。まだ、どこかで何かが動いているのを感じる。
「現場に行く。レグナが倒れた場所だ」
短くそう告げ扉へ向かおうとした瞬間、肩を二つの手が同時に掴んだ。朱音とセリスだ。
「だめ!行かせられないよ」
「今のあなたは歩くのもやっとです。まず治療を」
「時間が――」
「ある。私たちが稼ぐ」
朱音の声はきっぱりと、逃げ道をふさぐように言い放った。
「倒れられたら元も子もないでしょ。動けるようにしてから。いいね?」
隼人が口笛を鳴らすふりだけして肩をすくめた。
「へぇ。いい護衛だな。蒼真、任せとけ。現場はこっちで押さえる。お前は動けるようになってから来いよ」
紫苑がすかさず頷く。
「現場保存は私が。美咲、包囲線の外周を広めに回って敵の移動先を洗って」
「わかった!片っ端から洗うね!」
レンはなおも渋面を崩さない。だが重臣の決定が出た以上、これ以上は噛みつけないらしい。舌打ちだけを残して踵を返した。
蒼真はなおも言おうとしたが、次の瞬間、視界が揺れた。膝が笑い床が近づく。
「っ……!」
倒れる前に、朱音が右腕をセリスが左脇を抱え上げる。
「言ったでしょ。歩くのもやっとだって」
「休息も戦術の一部ですよ」
倒れかける身体を必死に支えたその背後から、もうひとつの影が近づく。
「やはり無理でしたか」
低く落ち着いた声。アメリアが歩み寄り、冷静な眼差しで蒼真を見下ろす。
「今のあなたに現場へ向かう余力はありません。命を削ってまで立つことが、勇気ではない」
セリスが頷きながら言葉を添える。
「アメリアさん……」
アメリアは静かに視線を巡らせ、仲間たちへと告げた。
「現場の保存と調査は、隼人殿と私に任せてください。本来それは私たちの役目です。あなたは休息を優先すべきです」
朱音は蒼真の肩を抱き締めながら、短く頷いた。
「……聞いたでしょ。あんたは治療に専念しなさい」
蒼真は苦く笑みを浮かべ、わずかに首を振ることしかできなかった。
二人はそのまま、半ば強引に蒼真を寝室へと運んだ。
ベッドに押し当てられる背中と同時に、セリスの掌から柔らかな光が広がった。
澄んだ鐘の音のような微かな響きとともに、裂けた筋肉が縫い寄る痛覚が走る。だが左眼だけは、聖なる光を嫌うように微かに軋んだ。黒い燐光がきしむ。
「……反発が出てる?」
セリスの睫毛がかすかに震える。
朱音は眉間に皺を寄せる。
「ほら、動かない。はい、深呼吸。……もう一回」
彼女は腰を下ろし背を支えながら蒼真の呼吸を整えた。手のひらから伝わる体温が、無理やり昂った神経を落ち着かせる。
セリスは祈りを重ねながら、淡い銀糸のような結界を胸元に編み置く。
「過負荷で心肺が乱れています。応急ですが、夜明けまでに持ち直せるはず。左眼には干渉しません。……これは私にもどうすることもできません。痛みが強くなったら呼んでくださいね」
「助かる」
「助かる、で済ませない」
朱音が蒼真の額へ冷たい布を載せ、じいっと覗き込む。
「ねぇ、蒼真。あんた一人で全部背負おうとすんの、ほんっとに悪い癖だから」
「背負ってるつもりはないよ」
「背負ってるよ。顔に書いてある」
朱音はそっと視線を落とし、握った拳をゆるめた。
「……怖いの。あんたがいなくなるのが。だから、お願い。今は休んで」
蒼真は目を閉じ、浅く頷いた。
「ごめん……分かったよ。夜明けまでゆっくり休ませてもらうよ」
セリスが柔らかく微笑む。
「約束ですね。破ったら――」
「破ったら私がぶった斬る」
「言い方……ですが、概ね同意です」
朱音とセリスの息が合って、小さな笑いが零れた。張り詰めた空気がわずかに緩む。
蒼真は上体をわずかに起こし、二人へ短い指示を出す。
セリスが頷いてメモ代わりの札に術式を走らせる。
「承りました。私は治療を続けつつ敵の情報を調べます」
朱音は立ち上がり、鞘に手を添えた。
「私は扉の前で見張る。誰一人通さないわ。さっきの会議で感じた嫌な気配、特に怪しい人たちは要注意ね」
「二人とも――ありがとう」
その言葉に、朱音はほんの少しだけ頬を赤らめ、すぐにそっぽを向いた。
「お礼なんていらないわ。あんたが元気になれば、それで十分よ。」
セリスは布団の端を整え、そっと額へ触れる。
「おやすみなさい。良い夢が見れますように」
扉の外。
朱音は壁にもたれ静かに耳を澄ませる。部屋の中の寝息が、やがて一定のリズムに落ち着いたのを確かめてから、隣に立つセリスへ小声で言った。
「セリス。……ありがと」
「こちらこそ。あなたが強く叱ってくれたから、彼は止まった」
「叱ってない。事実を言っただけ」
朱音は視線を扉に戻す。
「私たちで守る。周りにどんな目で見られてもね」
「ええ。彼を決して捨て石になどさせません」
二人は短く視線を交わした。
夜はさらに深まり、寝室は静寂に包まれていた。
蒼真の呼吸はようやく波のように穏やかさを取り戻し、左眼の黒は眠りの底で淡い光を灯す。




