第91話:雷の勇者墜つ
胸を上下させながら荒い息を吐くレグナは、氷に閉じ込められたギルとイリアを見据えた。仲間――いや、暴れることだけを共有した共犯者。その姿は哀れで、無様で、しかし何よりも現実を突きつけていた。
(……チッ。あっけなくやられやがって。まったく役立たずどもが)
拳を握りしめながらも心の奥底では分かっていた。
どれだけ荒れ狂おうが自分の力では届かない壁がある。
(化け物だ……あんなの人間が勝てる相手じゃねぇ……!)
思い返すのは、巨体が一歩踏み出すたびに地が震える感覚。
視線ひとつで息が詰まり、声を聞いただけで肺が凍りつく。
神器を振るっても、かすり傷すら残らない。
(この世界に来てからずっと好き勝手に暴れて、欲望のままにぶち壊してきた。
誰も止められなかった。俺の槍に立ちはだかる奴なんざ、一人もいなかった……!)
思い返すのは、燃え落ちる街、呻き声を上げて転がる泣き叫ぶ人々。力を手にして以来、すべてが玩具でしかなかった。壊すことが正義であり、暴力こそが快楽だった。
(なのに……!)
眼前に立つ巨影――グラウゼル。
今まで享受してきた暴力の優越がすべて粉々に打ち砕かれる。
(あんな化け物と……戦えるかよ……勇者? そんなもん知るか! 俺は生き延びる……!)
次の瞬間、レグナの足は無意識に後ろへ跳び闇の中へと駆け出していた。
土煙を巻き上げながら必死に駆け出し、石につまずき、転びかけては顔を歪める。
その姿は、もはや勇者と呼べるものではなく、ただ狩られるのを待つだけの哀れな獣に過ぎなかった。
その背を、グラウゼルは冷ややかな眼差しで見ていた。
「……逃げられると思うか」
低く吐き出された声とともに、巨体が一歩を踏み出す。
(逃げろ……逃げろ……! 仲間? 知るか! 役立たずが勝手に凍ってるだけだ!)
しかし背後から響くのは、地を揺るがす巨獣の足音。あらゆる抵抗を嘲るような轟きだった。振り返った瞬間、グラウゼルの圧倒的な影が迫り来る。
呼吸は乱れ、肺は焼けるように軋み、視界の端は白く霞んでいった。
「やめろォォッ! 来るなぁぁぁ!!」
「敵を前にして背を向けるとは……愚か者が!」
拳から放たれる圧力が、轟音と共にレグナの背へ叩きつけられた。
骨がきしみ、肺の奥から絞り出されるような呻き声が漏れる。
「ぐあああッ……!」
大地が震え、背中に走る衝撃は皮膚を突き破り、内臓を捻じ曲げるかのようだった。
その一撃はただの打撃ではない、圧倒的な氣そのものが、容赦なく肉体を貫ぬく。
レグナは地に膝をつき、血を吐きながら必死に顔を上げた。
その瞳には誇りも矜持もなく、ただ生に縋る醜悪な光が宿っていた。
「ま、待て……! お、俺は……降伏する……!」
「魔族だろうがなんだろうが、仲間になる……だから、命だけは……!」
震える声で必死に吐き出す言葉は、かつて勇者と呼ばれた男の面影を完全に打ち砕く。その姿に、戦場の空気が凍りついた。
グラウゼルはしばし黙したまま、哀れな命乞いを耳にしていた。
やがて、その眼光からは怒りすら消え、ただ深い失望だけが宿る。
「こんなものが勇者か……。期待などするだけ無駄だった」
低く響く声が、大地を震わせる。
次の瞬間、巨拳が振り下ろされ、雷鳴のような衝撃が戦場を揺るがした。
「――消えろ」
「い、いやだぁあああッ!!」
恐怖と絶望の叫びが響き渡る。だが、その声はすぐに掻き消された。
巨腕が振り下ろされ、骨と肉が砕け潰れる鈍い音が響き渡る。
鮮血が飛沫となって舞い、地面に叩きつけられた肉体は二度と動かない。
かつて勇者と呼ばれた男の声は、無惨な破砕音にかき消され跡形もなく途切れた。
グラウゼルは二度と動かぬ骸を一瞥し、冷ややかに吐き捨てた。
「背を向け、命を乞う者に剣を持つ資格はない。こいつは勇者などでは断じてなかった」
その言葉が風に溶け重苦しい沈黙だけが残った。
やがて、そこへイリスとベルクが歩み寄ってきた。
二人は血塗れの地に沈むレグナを一瞥し、グラウゼルへと視線を向ける。
「仕留めたみたいですね」
イリスが口元に笑みを浮かべ、楽しげに問いかける。
グラウゼルは無表情のまま低く唸った。
「これほどあっけなく終わるとはな。勇者と呼ぶには、あまりに脆い」
その言葉を吐き終えると、巨体をゆっくりと翻し、冷ややかな眼差しをベルクへと向ける。
「ベルク――この死骸を王都の近くに晒してこい。勇者が倒れたと知れ渡れば、奴らも動揺するだろう」
「承知しました。ただ……できれば、もう少し見栄えよく仕留めてくださればよかったのですがね」
血に塗れた亡骸を一瞥しながら、ベルクは肩をすくめた。
その日、王都の門近くを行き交う人々は、思わず足を止めて凍りついた。
街道脇に打ち込まれた巨大な槍。その穂先には、無惨な人間の死骸が突き刺されていたのだ。
「ゆ、勇者……レグナ……!」
「うそだ……勇者様が……」
農民は悲鳴を上げ、兵士たちは蒼白な顔で槍を見上げる。
街に入った噂は瞬く間に広がり、王都全体を揺るがした。
「勇者でも魔族には勝てないのか……」
「じゃあ、俺たちを守るのは誰なんだ……」
「もう終わりだ……魔族が攻めてくる……!」
恐怖と絶望の声が市場にも、貴族街にも溢れていく。
人々の心に希望を与えるはずだった勇者の死は、まるで王都そのものの防壁を打ち砕くかのように、人々の士気を根こそぎ奪っていった。




