第87話:逃走勇者に迫る影
蒼真が二人からきつく迫られていたころ――。
分厚い鉄格子の奥、湿った石牢の中で、ひとり荒々しい息を吐く影があった。
「……クソが……」
鎖で縛られたまま膝をつくのはレグナ・ブラッドフォード。
何度鎖を引き千切ろうとしても、腕には力が入らない。
だが、その目の奥に宿る獰猛な光は、決して消えなかった。
怒りと暴力への渇きが身体の内側で轟いている。
――その時。
牢の前を見張る兵士の一人が不意に呻き声を上げ、音もなく崩れ落ちた。
「……!?」
レグナが顔を上げると、闇の中から軽い足取りで二つの影が現れる。
「やれやれ、らしくねぇなレグナ。こんなみっともない姿、二度と見たくねぇ」
低い声と共に現れたのは、大斧を背負った巨漢ギル。
「本当に手間をかけさせるんだから。けど、退屈は嫌いじゃないわ」
妖艶な笑みを浮かべたのは、イリア。
「……お前ら……!」
レグナの口元が、獣のように歪んだ。
ギルが鎖を握り締め、膂力だけで金属を軋ませる。
イリアが詠唱を囁けば、術式が淡く砕け散り、封印が解かれていく。
「行こうか。もうこの国に用はないでしょ……国に戻ってまた暴れましょう」
イリアが挑発的に囁くと、レグナは荒々しく笑った。
「ククッ……ようやくか! 会議だの理屈だの、もう知ったことか! 俺は暴れるだけだッ!……ッ、ぐあ……ッ、くぅ……ッ!」
しかし、すぐに両腕をかばうように顔を歪めた。
蒼真にやられた闘技場での戦いの傷。それが動かすたびに軋む。
「チッ……このザマじゃ全力で動けねぇ」
舌打ち混じりの呻きに、イリアが妖しく微笑んだ。
「安心して。いい物を用意してきたわ」
彼女が袖から取り出したのは、銀細工の小瓶。
淡く虹色に輝く液体が揺れ、ひと目でただの薬ではないとわかる。
「……まさか、それは……!」
ギルの目が驚きに見開かれる。
イリアは小瓶を指先で弄びながら甘く囁く。
「王宮の宝物庫から拝借してきた国宝級のエリクサーよ。本来なら、王族の血筋にしか使わせない代物よ」
「へっ……相変わらずとんでもねぇ女だな」
ギルが呆れ笑いを漏らす。
イリアは瓶の封を切り、光を放つ液をレグナの傷口に注ぐ。
瞬間、一度は切断された両腕の肉が音を立てて再生していく。
千切れかけていた筋肉が編み直され、皮膚がつややかに覆い直される。
「……おお……おおおッ!」
レグナの腕が震え、力がみなぎるのを感じる。握った拳から雷光が迸り、かつて以上の凶暴な氣が溢れ出した。
イリアが挑発的に微笑む。
「さぁ、これでまた暴れられるでしょう?」
レグナは獰猛に笑い、槍を肩に担ぐ。
「ハッ! 最高だ……! これで心置きなく壊せる! 殺せる!もうこんなところに用はねぇ!」
「ふふ……では、どうするつもり?」
レグナは獰猛に槍を突き立て、雷鳴を響かせた。
「決まってんだろうが! 国に戻って適当に魔族をぶっ殺してやる! そうすりゃ連中は大喜びだ。堂々たる英雄様の帰還ってわけだ!」
ギルが豪快に笑い、肩の斧を担ぎ直す。
「なるほどな。魔族を餌にすりゃ英雄扱いか。上手ぇ話だ」
イリアは艶やかに肩をすくめた。
「まったく、ちょろいものね」
「そうと決まれば、この国を出るぞ!」
「でも真正面から出たら流石に止められるわよ? 王都は今、騎士団で固められてるもの」
その言葉に、レグナは獰猛な笑みを広げた。
「止められる? ハッ、上等だ。全員まとめて殺して突破すりゃいいだけだろ!」
ギルは豪快に笑い、斧を肩に担ぎ直した。
「さすがレグナだな。やることがシンプルで助かるぜ!」
イリアも小さく息を洩らし、艶やかに微笑む。
「血の雨ね。いいわ、派手にやりましょう」
王都・東の城門。
夜更けにもかかわらず、厳重な見張りが立ち並び、篝火の明かりに槍と鎧が鈍く光っていた。
「異常なし――」
兵士の合図が交わされるその瞬間。
――ズドォン!!
轟音と共に、城門の前の石畳が爆ぜた。
閃光が夜を切り裂き、蒼白い雷が奔る。
「な、なにごとだ!?」
「雷光!? 敵襲か!?」
動揺する兵士たちの視界に、雷光を撒き散らしながら突進してくる一台の馬車が映った。その奥から、雷獄槍を担いだレグナが顔を覗かせ、獰猛に吠える。
「どけぇえええッ! 俺は帰るんだよ!」
車輪が火花を散らして石畳を削り、馬車は狂ったように加速する。
「ヒャハハハハッ! 道は開けたぞォ!」
御者台に立ったギルが手綱を乱暴に引き、馬車が轟音を立てて走り出す。
幌の中から顔を覗かせたレグナは、粉々になった門を振り返りながら獰猛に笑った。
「ハッ! これが守りの要だとよ! 笑わせやがる!」
「勇者の力の前では城壁なんて、紙細工同然ね」
レグナたちを乗せた馬車は夜の街道を疾走していた。
ギルが豪快に笑い、イリアが勝ち誇ったように頬杖をつき、レグナは王都を見て嘲笑する。
「見たかよ!このまま国境まで一直線――」
その瞬間。
――バリィィィンッ!!
耳をつんざく轟音と共に、天から蒼白い雷が落ちた。
爆ぜる火花と閃光に、車体は空中にバラバラに弾け飛ぶ。
「ぐああああッ!!」
「きゃあああッ!」
「ぬおおおッ!?」
悲鳴を上げ、三人が宙を舞った。
車輪が転がり、木片が飛び散り、地面に叩きつけられた馬が無惨にのたうつ。
瓦礫と煙の中で、レグナは焼け焦げた土を叩き割りながら立ち上がる。
「……チッ! なんだ今のは……!?」
黒煙渦巻く街道に、ゆらりと二つの影が浮かび上がった。
一人は、鋭い眼差しを放つ魔族――ベルク。
その傍らに立つのは、場違いなほど柔らかな笑みを浮かべる女魔族――イリス。
ベルクの背からは黒い瘴気が立ち昇り、周囲さえ飲み込むように渦を巻く。
一方でイリスは、月明かりの下で口元に微笑を浮かべ、無邪気とも挑発ともつかない声音で口を開いた。
「ちょっとお伺いしますけど……」
倒れ伏すレグナをまっすぐに見据え、首をかしげる。
「あなたは勇者様ですか?」
その軽やかな言葉が、逆に場を圧する。
ギルが歯を食いしばり、イリアが呻きながら立ち上がる中、レグナの瞳がギラリと光った。
「……勇者だと? ハッ! そうだよ……俺こそが勇者レグナ・ブラッドフォードだ!」
槍を高く掲げ、獰猛な笑みを浮かべるレグナ。
その宣言にも魔族の二人は微動だにせず、ただ愉快そうにその姿を見つめていた。




