第84話:眠りの中で
蒼真は、あの戦いから二日が経ってもなお目を覚まさなかった。
城の一室に敷かれた寝台の上、彼の呼吸は規則正しく安定しており外傷はどこにも見当たらない。まるで深い眠りに落ちているだけのようだった。
「……傷は一つもないのに」
セリスが額に手を当てながら小さく呟く。彼女の聖なる力でも異常は確認できず、ただ静かに目覚めを待つしかなかった。
一方で朱音は、腕を組んだまま椅子に腰かけ、時に睨むように、時に心配そうに蒼真を見つめていた。
「……まさか、二日も眠りっぱなしなんてね」
その眼差しには不安と焦りが隠しきれない。
二人は交代することなく、ずっと傍らにいた。
外傷がない以上、できることはただ待つことだけ。
それでも朱音もセリスも、その場を離れる気は微塵もなかった。
部屋の窓から差し込む朝日が、三日目を告げようとしていた――。
三日目の朝。
窓から射し込む淡い光が部屋を満たし、静かな空気が漂っていた。
朱音は椅子に座ったまま舟をこぎ眠りに落ちていた。
セリスもまた祈りを捧げるように手を組んだ姿勢のまま、いつしかまぶたを閉じ眠り込んでいた。
その時――。
「……ぐっ……あ……」
苦しげな声が漏れ、蒼真の指先がピクリと震えた。
朱音がハッと目を覚まし、勢いよく立ち上がった。
「蒼真!?」
セリスもすぐに目を覚まし彼の胸に手を当てた
「うなされている……? でも、これは……」
途端に感じ取ったのは、静かな鼓動の裏で暴れるように渦巻く黒い氣。
「まるで何かと必死に抗っているみたい……」
朱音はぐっと拳を握る。
「……だったら、私が呼び戻す!」
蒼真の肩を強く揺さぶりながら、声を張り上げる。
「蒼真! 目を開けなさい! 私たちがここにいる! 一人じゃないんだから!」
しかしその呼びかけに応じるように、蒼真の口から再びうめきが漏れ、左目の周囲に薄い黒い光がじわりと滲み始める。蒼真の左目からにじみ出した黒い光は、まるで部屋を呑み込むように広がろうとしていた。
朱音は迷わずその肩を掴み叫ぶ。
「蒼真! 目を覚ましなさい! あんたはそんな闇に負ける人じゃない!」
セリスも両手を胸の前で組み、必死に祈りの言葉を紡ぐ。
「蒼真……! 戻ってきてください。私たちがここにいます、どうか……!」
二人の声が重なった瞬間、黒い氣が一瞬たじろいだように揺らめいた。
苦しげに顔を歪めていた蒼真の表情がわずかに和らぎ、固く閉じられていた瞼がゆっくりと開かれていく。
「……っ……朱音……セリス……?」
掠れた声と共に、蒼真の瞳がようやく光を取り戻した。
黒い氣は霧が晴れるようにすっと消え去り、代わりに深い疲労の色だけが残っている。
「よかった……!」
セリスは安堵の息をつき、胸に手を当てる。
朱音は顔を背けながらも、震える声で吐き出した。
「まったく……三日も眠りっぱなしで……どれだけ心配させるつもりよ」
蒼真は弱々しく微笑み、目を細めた。
「……ごめん。少し……長い夢を、見ていた」
その声は確かに生きていて、二人の胸を強く揺さぶった。
蒼真は荒い呼吸を整えながら、天井を見つめてしばらく黙っていた。
朱音とセリスは不安げにその顔を覗き込む。
黒い瞳がかすかに揺れる。
終わりのない闇の中で、無数の声が俺を責め立ててきた。
「お前には力がない」、「守れない」、「切り捨てられるだけの弱者だ」って……。どれも昔の僕が心のどこかで抱いていた言葉だった。
蒼真の手が、胸の上で無意識に握りしめられる。
「そこに、あの黒い氣が入り込んできた。耳元で囁くんだ。力をやろう。全てを斬り伏せろって……。一歩間違えれば俺はあの闇に呑まれていた」
セリスは小さく息をのむ。
「……だから、あんなにうなされて……」
蒼真は二人を見つめ、微笑みを浮かべた。
「でも……朱音の声と、セリスの祈りが聞こえた。あの闇の中で、その声だけが確かで、俺を引き戻してくれたんだ」
朱音は視線を逸らしながらも、耳まで赤く染めて言葉を返す。
「……当たり前でしょ。あんたがあんな闇に飲まれるなんて、許すわけないんだから」
セリスは静かに頷き、微笑んだ。
「私たちはいつでも、あなたを呼び戻します。だからもう、独りで苦しむ必要はありません」
蒼真は深く息を吐き、ようやく心から安堵したように目を閉じた。
朱音はしばらく黙って蒼真を見つめていたが、堪えきれないように問いかけた。
「……蒼真。そもそも、その黒い左眼……どうしてあんなものを宿してるの?」
部屋の空気がぴんと張りつめる。
セリスも視線を落とし、答えを待った。
蒼真は唇を結んだまま、しばし沈黙する。
やがて、苦しげに目を伏せて小さく呟いた。
「……ごめん。今は……言えない」
朱音の目が見開かれる。
彼女は思わず言い返そうとしたが言葉を飲み込んだ。
「私にも言えないの?……そんなに私、信用できないの……?」
朱音は視線を逸らし、歯を食いしばる。
蒼真はかすかに首を振り、再び二人を見た。
「いつか必ず話す。けど、今はまだ……その時じゃないんだ」
その表情は決して嘘ではなく、何か大きな決意を秘めていた。




