第73話:血に染まる闘技場
支配人に案内され、蒼真は再び夜の街を駆け抜けた。
湿った石段を降りるたび、地下から吹き上がる歓声と鉄の匂いが濃くなっていく。
蒼真は途中で足を止め、腰袋から仮面を取り出す。
(暴れてるのが何者か知らないが、今は仮面の戦士ラセツで通す)
重い扉を押し開けると、視界に飛び込んできたのは地獄絵図だった。
中央の檻は壊れ、血に濡れた観客たちが通路まで押し寄せている。
その中心で暴れていたのは、槍を振り回す青年、斧を叩きつける巨漢、そして双剣を舞わせる女。
「はははっ! もっと叫べぇっ!」
「抵抗しろよ、すぐ死んじまうだろうが!」
「綺麗な声で泣くのねぇ、最高じゃない!」
笑い声と悲鳴が入り混じり、床は血溜まりと化していた。
支配人が怯えた声を漏らす。
「あ、あれだ……! あの三人だ! 早く止めてくれ!」
蒼真は仮面越しに視線を細め、ゆっくりと一歩を踏み出した。
その瞬間、血塗れの場を支配していた槍の男レグナがこちらを振り返る。
「……ほぉ」
獲物を見つけた獣のように眼光がギラリと光る。
「まだ骨のありそうなのが残ってやがったか」
ギルが手斧を肩に担ぎ、イリアは妖艶に舌なめずりをする。
観客は恐怖で逃げ惑い、闘技場全体が異様な静寂に包まれた。
蒼真は無言のまま、腰の剣を抜き放つ。その刃先が淡い光を帯びた瞬間、場の空気が一変した。
「来い。僕が相手になろう」
挑発のような声音に、レグナの口元が獰猛に歪む。
「はははっ! いいじゃねぇか! 退屈しのぎには丁度いい!」
レグナは肩に槍を担いだまま、一歩も動かない。
その口元には、獲物を品定めする肉食獣の笑みが浮かんでいた。
「おい、ギル。イリア。まずはお前らがやれ」
ギルは口角を吊り上げ、手斧の刃を指先で軽く撫でた。
「はは、いいだろう。なかなか面白そうな相手だ」
イリアは双剣をくるくると回し、艶めいた笑みを浮かべる。
「ふふ……その仮面の下はどんな顔してるのかしら?」
観客たちは固唾を呑み、檻の残骸越しにこの異様な対峙を見守っていた。
蒼真は剣を構えたまま微動だにせず、仮面の奥から静かな気配だけを漂わせる。
(……来る)
次の瞬間、ギルの巨体が弾丸のように飛び出した。斧が唸りを上げ、正面から頭を割ろうと迫る。同時に、イリアの姿がふっと掻き消え背後から双剣が閃いた。
「死ねッ!」
「背中もらった!」
だが――。
蒼真の剣が、わずかな残光を描いた。
振り返りもせず、背後の斬撃をいなすように受け流し同時に前方の斧を半歩で躱す。
乾いた衝撃音が響き、二人の攻撃は空を裂いた。
「なに……っ!」
「嘘でしょ!?」
ギルの額に汗が浮かび、イリアの笑みが一瞬だけ凍る。
蒼真は静かに吐き捨てるように呟いた。
「その程度か」
レグナの笑い声が低く響いた。
「クク……いいな。やっぱ骨がある」
「舐めやがってぇ!」
ギルが吠えると同時に、全身に力を込めて斧を振り上げた。
筋肉が唸りを上げ、石床が軋むほどの一撃が真上から振り下ろされる。
「動きを封じるわ!」
イリアはギルの動きに合わせ、横から双剣を閃かせた。
二人の息は獣の狩りのように連動し、前後から挟み潰す形を作り出す。
観客席がざわめく。
「やばいぞ……! あれは避けられねぇ!」
「仮面の男、終わりだ!」
その攻撃に対する蒼真の動きは驚くほど小さかった。
斧が振り下ろされる寸前、わずかに足をずらし重心を滑らせる。
鋭い風切り音だけが耳を裂き、巨体のギルは空を切った。
「なっ――!?」
その隙を突いて飛び込んできたイリアの双剣。
しかし蒼真の剣が一閃し、火花を散らして二本の刃を弾き飛ばした。
金属音と共にイリアの手から力が抜け、剣が床を滑る。
「きゃ――っ!」
同時に、蒼真の掌底がギルの胸に叩き込まれた。
「ぐっ……ぅああっ!」
巨体が持ち上がり、数メートルも吹き飛ばされて石壁に叩きつけられる。
イリアが息を呑む間もなく、仮面の剣士は一歩で間合いを詰めた。
腹部への軽い突き。それだけで肺の空気を奪われ、イリアは膝から崩れ落ちる。
観客が凍り付いた。
数呼吸前まで暴虐を楽しんでいた二人が、まるで子供のように転がされている。
「その程度じゃ話にならないよ」
蒼真は冷たく言い放ち、二人を無造作に見下ろした。
ギルは血を吐き、イリアは剣を拾うことすらできずに震えている。
その光景に、レグナがついに腹の底から笑い声を上げた。
「はははははっ! やるじゃねぇか仮面野郎!」
獣のような視線が蒼真を射抜き、肩に担いでいた槍がゆっくりと下ろされる。
「ようやく、俺の血が騒ぐ相手が出てきやがった」
倒れ伏すギルとイリアを一瞥し、蒼真は剣先を静かに下ろした。
「……お前は何者だ?」
その問いに、観客席のざわめきが再び広がる。この場の誰もが、レグナの正体を知る者はいない。ただ、目の前で暴虐を繰り広げるその存在が、常人でないことだけは誰もが理解していた。
「何者か、だと?ははっ、いい質問だ」
一歩、また一歩と歩みを進めるたびに、地響きのような氣が場を圧する。
蒼真はその氣の質を感じ取った。獣の咆哮に似た、制御不能の暴力衝動。
レグナは肩を揺らし、血に濡れた闘技場を踏み鳴らした。
「俺の名は――レグナ・ブラッドフォード。
この世界に召喚された勇者の一人だ」
その言葉に、観客たちが一斉に息を呑んだ。
蒼真の剣先がわずかに揺れる。
(……勇者、だと? こんな人間の屑が……?)
レグナの口元が獰猛に歪む。
「だが勘違いすんなよ。俺にとっちゃ勇者なんざ肩書きの飾りだ。
戦いと暴力だけが俺の正義。それ以外は全部どうでもいい」
槍が闘技場の床に突き立てられ火花を散らした。
「さぁ、仮面野郎。かかってこい!俺を楽しませろ!!」




