第71話:聖女の圧
リリーナが去り、静寂が戻った廊下で、蒼真はすぐに顔を上げた。
「……セリス、違うんだ。今のは――」
「――座ってください、蒼真」
慌てて否定しようとした言葉は、セリスの柔らかながらも有無を言わせぬ声音に遮られた。微笑を浮かべたまま、彼女は廊下の端を指し示す。
その笑顔の奥に潜む、聖女らしからぬ鋭い圧が、蒼真の背筋をわずかに冷やした。
「いいですか? 話を聞く前に……まずは態度を整えてもらいます」
「いや、だから違――」
「正座です」
「はい・・・」
反論の余地はなかった。蒼真は、しぶしぶ正座をする。
膝を折り正座したまま、上から降り注ぐセリスの視線に軽く息を詰まらせた。神殿の廊下は朝の光が差し込み、静謐な空気が漂っているはずなのに、今この場の空気は妙に重い。その理由が目の前の聖女にあることは、言うまでもなかった。
「まず最初に申し上げておきますが」
セリスは微笑を崩さず、ゆっくりと腰を下ろし、蒼真の正面に膝をついた。
「私は、蒼真さんのことを疑っているわけではありません」
「じゃあ――」
「けれど、誤解されそうな状況を平然と作るのはやめていただきたいんです」
その言葉と同時に、微笑の奥で光る瞳が鋭さを増す。
「特に、先ほどのように女性と親しげにしているように見える場面を、私の目に入れるような真似は」
「いや、だから違うって言って――」
「いいえ、違うかどうかは、これから私が判断します」
遮られた蒼真は、思わず唇を閉ざした。
この聖女は怒っている。それも、相当に。
声色こそ柔らかいが、膝の上で組まれた彼女の手の指先がわずかに震えているのを見れば、それが感情を抑え込んでいる証拠だと分かる。
「順を追って説明してください」
セリスは、膝を少し前に寄せ、蒼真との距離を縮めた。
「すべて、順番に。細かいことも省略しないでくださいね?」
(……完全に取り調べじゃないか)
心の中でそう呟きながらも、蒼真は逆らう術がなかった。
ここで反抗すれば、余計に話がややこしくなることは目に見えている。
「……わかった。じゃあ、最初から話す」
蒼真は観念し、言葉を紡ぎ始める。
その様子を、セリスはじっと見つめていた。
慈愛の微笑を湛えたまま、しかしその瞳の奥では、昨夜の出来事を一言一句聞き漏らすまいという鋭い光が揺らめいていた。
「……蒼真。私に嘘が通じないことは、わかっていますね?」
その声音は穏やかでありながら、胸の奥に冷たい刃を突きつけられたような圧があった。蒼真はわずかに視線を逸らし、低く返す。
「ああ……わかってる」
「よろしい。それなら、すべて正直にお話しください」
セリスは微笑を絶やさないまま、まるで心の奥まで見透かすような視線を蒼真に向け続けた。
(……これは下手な言い訳はできないな)
蒼真は心の中で小さく息を吐き、腹を括った。
蒼真は一呼吸置き、膝の上で握った拳をゆっくりと開いた。
「……わかった。じゃあ順番に話す」
セリスの視線は微動だにせず、ただ静かに次の言葉を待っている。
その真剣さに押されるように、蒼真は昨夜の出来事を語り始めた。
「昨日、裏通りで怪しい動きをしている連中を追った。そいつらは……魔族だった」
セリスの表情がわずかに固まる。
「魔族は連合会議の会場を狙っていた。爆破兵器を持ち込み、会議の最中に爆発させるつもりだったらしい」
「……爆破計画……」
セリスは低く呟き、指先を強く組み合わせた。
「俺とリリーナでその兵器を見つけ何とか解体した。だが、その現場で魔族と戦闘になった」
「戦闘……あなた一人で?」
「ああ。ベルクって名乗っていた。瘴氣を使いこなす、厄介な奴だったよ」
蒼真の脳裏に、昨夜の戦闘が鮮明に蘇る。
空気を裂く黒い刃、骨の奥まで侵食してくる瘴氣の圧迫感――そして一瞬の隙を突いた決着の感触。
「ベルクはなんとか倒したが、仲間がどこかで動いてる可能性がある」
蒼真はセリスの目を見据え、言葉を締めくくった。
「だから……時間がない。これ以上、王都に魔族をうろつかせるわけにはいかない」
セリスは深く息を吐き、しばし沈黙した。
「……わかりました」
その声は落ち着いていたが、奥底には確かな緊張があった。
「爆破兵器の件は、すぐに王宮へ伝えます。連合会議の警備体制も、至急見直させなければなりません」
彼女は組んでいた手を解き、立ち上がる。
「蒼真さん、あなたが止めてくれたおかげで、最悪の事態は免れました。本当に感謝します」
そう言いながらも、その視線には「これで終わりではない」という厳しさが残っていた。
セリスはひと呼吸置いてから、再び蒼真の正面に視線を戻した。
そして、わずかに口元を引き締める。
「……それと、リリーナのことについては――」
蒼真が反射的に眉を動かすより早く、彼女は微笑を浮かべた。
しかしその笑みは、どこか冷たい光を帯びている。
「会議が終わったあとに、ゆっくりと……じっくりと、聞かせてもらいます」
「……はい」
蒼真は短く返事をしながらも、内心で小さくため息をつく。
(……結局、そこは逃げられないのか)
セリスは視線を逸らさず、ほんの一瞬だけ柔らかな声色に戻した。
「安心してください。ちゃんとお話を聞くだけですから」
その言葉の「だけ」に、妙な圧を感じたのは気のせいではなかった。




