第7話:羅刹丸の想い
夕暮れ。山肌を紅く染めながら、風が吹き抜ける。
天城蒼真は息を整え、羅刹丸の前で黙して座っていた。
羅刹丸は、燃えるような赤い瞳を山の彼方に向けたまま、静かに口を開く。
「……剣は、斬るためにある。だが、それだけでは空しい」
蒼真は顔を上げた。
「空しい、ですか?」
「ああ。俺は強さに飢え、各地を巡り、腕ある者を次々と斬ってきた。だがある時、一振りの剣に打ち砕かれた。」
羅刹丸の言葉には苦味と敬意が入り混じっていた。
「それが先ほども言った剣聖だ。あの者の一太刀には、怨念も執念もない。ただ、静かだった」
「静か……?」
「まるで風のようだった。俺の全霊の一撃を、微塵も無理せず受け止めたよ」
「……その剣聖を、恨んでないんですか?」
羅刹丸の瞼が静かに持ち上がる。赤く輝く瞳が火を見つめた。
「恨む理由がない」
「でも……あなたの剣は、打ち砕かれたんでしょう? 命を懸けて、求め続けた剣が……」
羅刹丸は小さく笑う。その声には悔しさではなく、静かな満足がにじんでいた。
「俺の剣を壊したあの者は、俺の限界を教えてくれた。
もしあのまま勝ち続けていたら――俺は、剣を終わらせていたかもしれん」
「……終わらせていた?」
「ああ。誰にも負けぬ強さは、成長を止める。剣を極めたつもりで、己が傲慢に染まる。 だが剣聖は違った。まだ高みがあると、俺に思い知らせた。……だから感謝している」
蒼真は焚き火を見つめたまま、口を開いた。
「……どうして、あなたはこの山にいるんですか?」
羅刹丸は少しだけ眉を上げたが、すぐに静かに目を閉じた。
「……寿命を悟ったからだ」
「寿命……?」
「こう見えてかなり長生きしている。無茶をしたツケも回ってきている。俺は近い内に朽ち果てるだろう」
「剣聖ともう一度戦おうとは思わなかったんですか?」
「リベンジか……。考えなかったわけじゃない。だがあの女――剣聖サクラの剣には、怒りを向ける隙など一つもなかった」
「……女、だったんですね」
「でも戦わない理由にはならないでしょ。そのために剣を磨いたのでは?」
蒼真の問いかけに、羅刹丸は長く黙した。
やがて、焚き火の揺らめきに照らされた横顔が、わずかに笑みを浮かべる。
「……いや。そう言えるほど、簡単な感情じゃないさ」
「……?」
「俺は、彼女に――剣聖サクラに、惚れていた」
蒼真の目がわずかに見開かれる。
「気づいたのは、敗れたあとだ。あの剣に、あの眼差しに、俺は……ずっと憧れていた。ただ強いからじゃない。剣の奥にある想いに触れてしまったからだ」
「……じゃあ、どうして戦わなかったんですか。もう一度、会いに行けば――」
羅刹丸は首を横に振った。
「無理だった」
炎の音だけが、しばし空気を満たす。
「数年後、俺は知った。彼女が他の男と結ばれたことを」
「……」
「それを知った瞬間、俺の中の剣が、静かに折れた。
あれだけ追い続けた背中に、もう剣を向ける資格はない。俺の想いも、剣も、彼女には届かないんだと……」
静かに、だが確かに。
その声音には、長い孤独と未練がにじんでいた。
「それでも剣を捨てなかったのは……いつか、俺の前にもう一人の剣が現れる気がしていたからだ。お前のようにな、まっすぐな目をしたやつが」
蒼真は言葉を失ったまま、羅刹丸の背を見つめていた。
それはまるで、恋にも敗れ、剣にも敗れた男の、最後の灯火のようだった。
──
夜風が山の木々を撫でる音の中、羅刹丸は黙って蒼真の剣筋を見つめていた。
「……やはり、お前は凡人だな」
静かに告げられたその言葉に、蒼真はぴたりと手を止める。
「……そうですね。僕は隼人みたいな天才じゃない。だから、こうして……」
「違う。そういう意味ではない」
羅刹丸の眼が、炎の奥で鋭く光った。
「お前の剣には、凡人の形をして、神域の芯がある」
「……?」
「足運び、氣の流し方、どれも粗削りだ。だが、そのすべてに迷いがない。
己を信じ、目指すものを一寸たりとも逸らさぬ剣。それは、才ある者にはできぬことだ」
蒼真は言葉を失った。
「才ある者は己の力に酔う。だが、お前は違う。
お前は持たざる者として、自分の弱さを認めたうえで、真っ直ぐに前へ進んでいる」
羅刹丸は静かに続けた。
「……その剣は、やがて誰も届かぬ場所へ辿り着く。
気づいていないのは、お前自身だけだ。だからこそ――俺は、お前に託したい」
「……俺の剣を。魂を。命を、だ」
焚き火の炎が、音を立てて燃え上がった。
蒼真の胸に、言葉では言い表せない熱が宿る。
今の自分は、たしかにまだ弱い。
だが、その先があると、初めて誰かが信じてくれた。
その事実が、何よりも重く、誇らしかった。




