第69話:聖女の胸に芽吹く影(セリスside)
セリスはふと、目の前の議場の喧騒から心を離した。
(……蒼真は今頃なにしてるかな?)
彼は目立つことを嫌い、必要以上に関わろうとしない。
それはセリスがよく知っている、彼らしい距離の取り方だった。
(初めてくる王国で観光でもしているのかしら……?)
少し想像してみる。
屋台で串焼きを買い食いしながら、物静かに街を歩く蒼真。
商人たちの呼び込みに困惑しながらも、丁寧に断って回る姿が浮かぶ。
それとも、どこか人目のつかない場所で、いつものように一人黙々と修行しているのだろうか。
(……でも、まさかとは思うけれど)
セリスの目が細められる。
(女遊びなんて、してないわよね……?)
いやいや、とすぐに首を振る。
(蒼真にかぎって、そんなこと……!)
彼はそういう軽薄な人間ではない。
寡黙で、誠実で、誤解されがちだけれど、誰よりも真っ直ぐで――
(でも……でももし、もし万が一……)
頭をよぎるのは、道端で微笑む美しい踊り子たち。
甘い言葉をささやく給仕の女性。
それにまんざらでもなさそうな蒼真の――いや、あり得ない。絶対にない。
(……ないけれど)
彼女はそっと、胸の前で指を組んだ。
(もし万が一、そんなことをしてたら――神殿で一晩中懺悔してもらいますからね)
ぴたりと微笑を浮かべるその顔は、慈愛に満ちた聖女そのもの。
だがその奥に、ごくわずかに怒りと呆れと嫉妬の混じった気配が確かに存在していた。先ほどまで浮かべていた慈悲深い笑みが、わずかに引きつった。
(どうしてこんなに、いらだってるんでしょう、私)
自分でも不思議だった。
彼がここにいないことは、予定通りだった。
目立つ場に出てこないのも、神殿を経由せずに勝手に動き出すのも、いつもの蒼真だ。なのにどうして、胸の奥がこんなにもざわつくのか。
(別に、心配してるわけじゃ……)
いや、しているのだ。
だからこそ、蒼真が今どこで何をしているのか――想像せずにはいられない。
胸をよぎるのは、あの勝ち気な剣士の少女――朱音の顔。
いや、彼女ならまだいい。互いに剣士同士、信頼の上にある関係だと理解している。
だが、もし。
もし、街で声をかけてきた女に、蒼真が気を許していたら――
(……ほんの出来心だったとしても、許しません)
微笑みながら、手元の書類にふと指を滑らせる。
彼女の視線の奥には、もはや聖女の柔和さではなく、少しだけ「怒れる乙女」の片鱗があった。
「セリス様、何か……?」
隣の補佐官が小声で尋ねると、セリスはハッとして顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「いえ、なんでもありません。ただ……」
言葉を濁し、そっと窓の外へと視線を移す。
澄んだ空の先に、彼の姿があるわけではないのになぜか目が離せなかった。
(どうか、無事でいてください。そして……変なこと、してませんように)
それは祈りと呼ぶにはあまりにも個人的で、そしてどこか愛らしい感情だった。
やがて報告がひと段落し応接室へと移る。
王への拝謁を終え、控えの間で静かに休憩するセリスのもとで静かに扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れぬ少女――リリーナ。
背筋を伸ばし周囲に気配を漏らさぬような歩みでまっすぐセリスの前に進み出る。
「聖女セリス様。天城蒼真から、これをお預かりしています」
差し出されたのは封蝋で閉じられた手紙。
セリスは眉をひそめつつ受け取り、封に刻まれた簡素な印を指先でなぞった。
見覚えはないはずなのに直感が告げていた。これは確かに蒼真からだ。
封を切ると、羊皮紙には短い一文だけが記されていた。
『ひとひらの風』
(……前に決めた神殿で会おうという合言葉。丁度いいです。私も話したいことがあった)
口元にわずかな笑みが浮かぶが、その裏で別の疑問が膨らむ。
なぜ、この少女が蒼真の手紙を持ってきたのか。
彼は人を選んで動く男だ。無関係な者に託すはずがない。
セリスは視線をリリーナに戻し、柔らかな声で問う。
「どうして、あなたが蒼真の使いをしているの?」
リリーナは怯むどころか唇の端を艶やかに吊り上げ、小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「それは……蒼真さんと、ちょっと深い関係になりまして」
その声音に含まれた含みを感じ取った瞬間、セリスの胸の奥で警戒心が鋭く研ぎ澄まされる。
(……会う前から、相当ややこしい匂いがするわね)
セリスは視線を逸らさず、まっすぐにリリーナを射抜く。
「その事情とやら、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
リリーナは、まるで秘密を独り占めするかのように艶やかな笑みを浮かべた。
「ふふ……それは聖女様でも秘密です♪今日は本当に刺激的な一日でした。おかげで、蒼真さんのことをもっと知りたくなりました」
その言葉が、鋭くセリスの胸を突く。
怒りの矛先は、目の前の少女ではなく――なぜか蒼真に向かっていた。
(……私の知らないところで、この子に何を話したの、蒼真)
微笑を装いながらも、セリスの心中では冷たい炎が静かに燃え上がっていた。




