第68話:ベルクとの戦いで得たもの
蒼真とリリーナは王都の外れに差し掛かると、互いに足を止めた。
冷たい夜風が吹き抜け、街灯の影が石畳に揺れる。
「……ここで別れましょう。私の方は神殿に戻ります」
リリーナがそう切り出すと、蒼真は頷き、懐から一通の封筒を取り出した。
封は固く閉じられ、淡く擦れた羊皮紙には簡潔な宛名が記されている。
「これをすぐにセリスに渡してくれ。緊急の用件だ。明日直ぐに神殿で会って状況を説明する」
その声は低く、しかし切迫していた。
リリーナは封筒を受け取り、指先で軽く重みを確かめる。
「わかりました。……今日中に、すぐセリス様に渡します」
「頼む」
二人の間に短い沈黙が落ちる。
その間、互いの視線は言葉以上のものを伝え合っていた。
リリーナは封筒を胸元の内ポケットに仕舞い込み、片方の口角をわずかに上げる。
「じゃあ……無事にまた会いましょう、蒼真さん」
蒼真は小さく手を上げて応え、暗がりの中へと足を向けた。
リリーナもまた反対方向へ歩き出し、その背中はやがて夜の帳に溶けていく。
(……魔族の企みさえ判れば、勇者たちは何とか対応するだろう。俺は俺で動くか)
そう心の中で呟き、再び視線を前へ向ける。
王都の外れから続く細い裏道を、風を切るような速さで駆け抜けた。
胸の奥では、リリーナが封筒を無事に届けられるかという不安と、迫る危機を一刻も早く断たねばならない焦燥が渦巻いていた。
同じ頃、神殿へ向かうリリーナもまた、表情を引き締めていた。
街角ごとに視線を巡らせ、背後を確認しながら足を速める。封筒の重みは、単なる羊皮紙の質量以上に、王都の命運を背負っているかのようだった。
蒼真は夜風を裂く歩みの中で、先ほどの戦いを思い返す。
ベルクの振るった瘴氣の拳、肌を叩くような衝撃波、骨の髄にまで染み込む異様な氣。あれは生まれて初めて味わう、言葉では形容しがたい圧力だった。
(……あんな速度と質量、まともに受ければどうなっていたか)
動きは読めても、魔族が操る瘴氣と魔力の性質は予測を裏切る。
全てを見切ったつもりでも、その一歩先にある異能が常識を粉砕してくる。
そして改めて思う。これまで自分は魔族や魔術を駆使する敵と戦った経験がほぼなかった。人間同士の戦いには長けていても、魔術や瘴氣の前では未熟と言わざるを得ない。
(……この状態で魔族領に踏み込もうとしていたなんて、浅はかすぎる)
夜気に混じる吐息は苦味を帯びていた。
剣の技量に頼り切っていた自分が、魔族という存在を何も知らなかった現実。その未熟さを、今日の戦いが容赦なく突きつけた。
だが同時に、この死闘は確かな収穫をもたらした。
瘴氣の流れ方、纏い方、攻撃の前兆を感じ取る感覚。
これらは今後の戦いで命をつなぐ大きな糧となるだろう。
(次に同じ手合いと相まみえた時、今日得た感覚を必ず活かす)
蒼真の瞳からは迷いの色が消え、研ぎ澄まされた光が宿る。
(魔族領に足を踏み入れる前に、こうして実際に魔族と刃を交える機会を得られたのは、ある意味、僥倖と言えるかもしれない)
蒼真は歩きながら、改めてその事実を噛みしめた。
もし今回の戦いがなかったなら、自分は魔族の特性も癖も知らぬまま、ただ剣の腕を信じて敵地へ飛び込んでいたはずだ。それは無謀を通り越し、命知らずという愚かさに等しい。ベルクとの死闘で得られた情報と感覚は、今後の戦いにおいて計り知れない価値を持つ。
魔族の纏う瘴氣の質は、ただの氣や魔力とは根本的に異なる。
触れた瞬間に肉体を蝕み、意志を削ぐような圧迫感がある。
それが斬撃に乗せられた時、威力は数倍にも膨れ上がり、ただ防御するだけではじき返されてしまう。
さらに、攻撃の間合いや動きも人間のそれとは違い、こちらの予測をあざ笑うように変化してくる。今までの経験則では通用しない。それを身をもって理解できたのは、まぎれもなく今回の最大の収穫だった。
(……本番はこれからだ。魔族領に潜む連中は、ベルク以上に強く、狡猾で、容赦がないだろう)
想像するだけで、背筋に冷たい感覚が走る。
だが、それと同時に胸の奥に小さな火種のような熱も生まれていた。
それは恐怖とは別の感情。未知を乗り越えたいという渇望だった。
これまでの自分は、人間相手の戦いに慣れすぎていた。
どれだけ強者と渡り合っても、根本は同じ種族同士の戦いだ。
だが魔族は違う。存在そのものが異質であり、戦い方も命のやり取りの感覚すら違う。そこに挑むためには、同じ常識の延長では足りない。新たな感覚と戦い方を身につける必要がある。
(ベルクとの一戦は、その入口を開く鍵になった)
たとえわずかな時間でも、実際に命のやり取りを交わした事実は揺るがない。
そして、その中で掴んだ感覚は、次に生き残るための武器になる。
蒼真は唇を引き結び、夜の路地を真っ直ぐ進んでいった。
王都の闇の奥へと消えるその背には、恐怖も迷いもなく、ただ静かに研ぎ澄まされた決意だけが宿っていた。




