第61話:覚悟の意味を知る
月が雲に隠れた夜の王都――
人々が眠りについたはずの路地裏には、まだ息を潜める者たちがいた。
蒼真とリリーナは、人気のない裏道を選びながら、王都中央へと近づいていく。
リリーナの動きはまるで影のように滑らかで、蒼真もまた、氣を抑えて気配を消していた。
「……ねぇ、蒼真さん」
突然、リリーナが小声で口を開く。
「どうした?」
声を潜めながら返すと、リリーナは少し前を歩いたまま、ふっと息を吐いた。
「こうして並んで歩いてると、ちょっとだけ……昔を思い出します」
「昔?」
「訓練施設で、チーム任務っていうのがたまにあって。番号で呼ばれる子たちと二人一組で潜入とか……ああいうの、よくやらされてたんですよ」
「……まさか、それと今を重ねてんのか?」
「ふふっ、さすがに蒼真さんの方が頼りになりますよ。当時の相方は途中で泣き出して任務放棄しましたから」
軽口を叩いてはいるが、リリーナの声にはどこか懐かしさと痛みが混じっていた。
「その子はどうなったんだ?」
「わかりません。でも、生き残る確率は低かったと思います」
「……そうか」
二人の会話が途切れたその瞬間。
リリーナの表情が変わった。目が鋭くなり、すっと腕を上げて停止の合図を送る。
「……前方、建物の屋上に一人。監視役……ですね」
蒼真もすぐに氣を集中し、周囲を探る。気配は一つ、だが動きに迷いがない。訓練された兵か、あるいは――
「魔族か?」
「たぶん、協力者の人間でしょう。魔族はもっと、濃い気配を放ちますから」
リリーナは腰の短剣を一本抜き、小さく呟く。
「排除、してもいいですか?」
「……できるのか?」
「はい、得意分野です」
リリーナの姿がふっと闇に溶けた。
蒼真はその間、建物の影に身を潜め、氣の流れを探り続ける。
数十秒後――
「……処理完了。報告、以上です」
リリーナは何事もなかったかのように戻ってきた。服には汚れ一つない。手際の良さに、蒼真は小さく息を吐く。
「お前……本当に神殿の人間か?」
「今はそうです。でも、必要なら昔の顔も使いますよ」
皮肉交じりの冗談に、蒼真はかすかに笑うしかなかった。
やがて、二人は目指す倉庫街の一角にたどり着く。
リリーナが手にした地図には、魔族が物資を集積していると思われる拠点のマークが記されている。
「この中に、魔族が仕込んだ何かがあります。明日の夜には、連合会議の会場に運び込まれる予定です」
「それを止めるには……今夜、ここを叩くしかないってわけか」
蒼真は腰の剣に手を添える。
「なぁ、リリーナ。一つ確認しておく。もし、俺たちの存在がバレたらどうする?」
リリーナは、迷わず答えた。
「――始末して、すぐに逃げます。神殿にも被害が及ばないように」
「……だろうな」
重苦しい空気の中で、二人は倉庫の入り口を見上げた。
――この扉の先に、何が待つのか。
魔族か、あるいは人間の裏切り者か。
どちらにせよ、もう後戻りはできなかった。
「リリーナ。背中は預けるぞ」
「はい。まかせて下さい」
短く言葉を交わし、蒼真は静かに刀を抜いた。
夜の帳に包まれた王都で、ふたりの密やかな戦いが始まる――。
蒼真は、抜いた刀の重みを掌で確かめるように握り直した。
冷えた夜気が剣身を撫でる。だが、それ以上に彼の胸を冷やしたのは――隣にいる少女の気配だった。
(……リリーナか)
この数日、彼女と関わる中で、蒼真はどこかで彼女を「明るくて、ちゃらけた神殿の子」としか見ていなかった気がする。
お調子者で、人懐っこくて、時にふざけた言動も多くて――
でもそれは、ただの仮面だった。
「もし捕まったら、助けに来ないで」
あのときの言葉が、胸に刺さるように残っていた。
言葉の軽さに騙されていた。
あの笑顔に、どこか安心していた。
――だが、違った。
彼女は、最初から死ぬ覚悟を持っていた。
それも、気負いでも演技でもなく、当たり前のように、呼吸するように――。
(まだまだだな・・・僕も。)
蒼真の胸の奥が、ひどく重くなる。
今、隣にいるのは笑顔の少女じゃない。
かつて生きるために人を殺し、神殿に拾われてようやく人になれた――
そんな過去と共に、それでも前を向こうとしている、強い意志の塊だ。
どこかで自分は、正義の側に立っていると錯覚していたのかもしれない。
剣を振るう覚悟はあると思っていた。命を賭けることもできると信じていた。
けれど――
「死んでもいい」と自然に口にできる者の覚悟を、甘く見ていた。
リリーナは本物だ。
痛みを知っている。絶望も、裏切りも、死の恐怖も、そのすべてを飲み込んだ上でこの場所を守ろうとしている。
蒼真は、視線をわずかに横に向けた。
リリーナは静かに呼吸を整え、短剣を両手に持ち、気配を研ぎ澄ましている。
背筋がまっすぐで、隙がない。
あの明るい笑顔の面影は、そこにはもうなかった。
(……強いな。お前は)
心のどこかで、リリーナを守る側として見ていた自分を、今は恥ずかしくすら思う。彼女に守られるかもしれない――
そんな予感すらあるほどに、彼女の背には揺るぎない覚悟が宿っていた。
(けどな……)
蒼真は目を伏せ、静かに息を吸った。
胸に湧き上がるのは、焦りでも劣等感でもない。
――なら、僕もそれに応えるだけだ。
過去を語り、弱さを見せて、それでも覚悟を語ったあの目を。
あんな目を見せられて、誰が背を向けられるっていうんだ。
「……行くぞ」
囁くように言ったその声に、リリーナは短く頷いた。
その瞬間、蒼真の中の迷いは消えていた。
彼女を見誤っていた。
だが今、ようやく正しく見ることができた。
だからこそ、この背中は預けられる。
二人の足音が、夜の石畳に吸い込まれていく。
静寂の奥で、何かが始まろうとしていた。




