第56話:助けたことを後悔
王都の裏通りでの出来事から、数日が過ぎた。
蒼真は宿の一室で、無言のまま刀の手入れをしていた。油の匂いと鉄の冷たい輝きだけが、静かな部屋に漂う。
深夜をとうに過ぎ、外の通りからも人の気配はほとんど消えている。
眠るには早く、しかし外を歩くには遅すぎる、そんな時間帯だった。
コン、コン――。
唐突な小さなノックが、張り詰めた静寂を破る。
この宿の部屋を訪れる者などいるはずがない。蒼真は眉をひそめ、無意識に刀の鞘に手を添えて立ち上がった。
「……誰だ?」
警戒をにじませながら扉をわずかに開けると、そこには見覚えのある少女が立っていた。淡いランプの明かりに照らされたのは、柔らかな笑顔と小柄な体。けれどその瞳には、妙に肝の据わった光が宿っている。
「あ、こんばんは~。覚えてます? この前、助けてもらった者です。リリーナっていいます。よろしく♪」
裏通りで暴漢に襲われていた、あの神殿の女だ。
「……どうして、ここがわかった?」
「ふふっ、神殿を舐めちゃ困りますよ? 調べようと思えば、だいたいわかるんです」
彼女――リリーナは、まるで悪戯を成功させた子どものように笑った。
蒼真はわずかに引きつった顔で後ずさる。心の中で「面倒ごとか……?」と呟きつつも、刀を握る手は自然と離れていた。
「そんな顔しないでくださいよ。今日はちゃんと、お礼を言いに来ただけですから」
リリーナは軽く手を振りながら、小さな包みを差し出す。
中には、ふっくらと焼かれたパンと、陽に透けるような果実のジャムが丁寧に詰められている。
「神殿で作ったやつです。保存もきくし、お腹に優しいんですよ。剣士さんにはぴったりでしょ?」
「……ありがとう。ありがたく、いただくよ」
「いえいえ、命の恩人ですから。これくらいじゃ足りないくらいです」
そう言うなり、リリーナは当然のように部屋の中へ一歩踏み込んだ。
「お、おい……」
「せっかくお礼に来たんですし、少しだけお話しましょうよ。
お茶の一杯くらい、いいじゃないですか?」
押しの強さに、蒼真は完全に気圧される。
だが、その人懐っこい仕草に、悪意の欠片もないことはわかった。
「そういえば、あなた……セリス様と知り合いなんですよね?」
「……どうしてそう思う」
「やっぱりそうですか~。実はもう、船であなたとセリス様が一緒にいたって情報は入ってるんですよ♪」
「……っ!」
思わず蒼真の手が止まる。そんな細かいことまで知られているのかと、胸の奥に薄い警戒が走った。リリーナはその反応を楽しむように、にこっと笑みを深める。
「ねえ、セリス様のお知り合いなら、ちょっと手伝ってほしいことがあるんですけど……いいですよね?」。
「……なんで俺がそんなことをする必要がある」
「え~? じゃあ、この間あなたがいかがわしい店で女の人と遊んでたこと、セリス様に報告しちゃおうかなぁ」
「なっ……!?」
蒼真は絶句した。
そんな事実はないが、リリーナの口ぶりだと、いかにも本当のように伝わりかねない。セリスが聞けば、間違いなく誤解されるだろう。
リリーナは唇に指を当て、にやりと悪戯っぽく笑った。
その瞳には、からかいと小さな狡猾さが宿っている。
「安心してくださいよ。誰にも言いませんよ? でも……ちょっとだけ、手伝ってくれたら、ね?」
蒼真は眉をひそめ、鋭い視線でリリーナを睨んだ。
「……で、何をしろっていうんだ」
「ふふっ、そんなに身構えなくても大丈夫ですって」
リリーナは椅子に腰を下ろし、くつろいだ様子で足を組む。まるでここが自分の部屋であるかのような態度だった。
「実はですね、神殿の裏通りに、最近ちょっと怪しい連中が出入りしてるんですよ。荷物を運んでるみたいなんですけど、私たちじゃ近づけなくて」
「……怪しい連中?」
「うん。裏稼業っぽい人たち。ああいうのは私より、剣を振るえる人に頼んだほうが早いでしょ?」
リリーナは身を乗り出し、にこりと笑う。
だが、その笑みの奥には、したたかな計算が透けて見えた。
「だから、蒼真さんにちょっとだけ調べてきてほしいんです。出入りしてる連中の顔と動きくらいは見てきてくれると助かるなぁ」
「……それを断ったら?」
リリーナは両手を頬に当て、わざとらしく首をかしげる。
「ん~……セリス様に、『蒼真さんって、裏通りで女遊びしてましたよ』って、うっかり言っちゃうかも?」
蒼真は深くため息をついた。
(……俺は、とんでもない女を助けちまったな)
あの夜、ほんの気まぐれで手を貸しただけのはずが、
今や彼女は当然のように自分の部屋に上がり込み、
好き勝手に振り回してくる始末だ。
運命の悪戯というには、あまりに騒がしい縁だった。
だが、リリーナの瞳は好奇心といたずら心に満ちているだけで、悪意はなかった。
そのちゃっかりした押しの強さに、蒼真は観念したように頭をかく。
「……わかった。少しだけだぞ」
「やった♪ 頼りにしてます、蒼真さん!」
リリーナは満面の笑みを浮かべ、まるで勝利の女神のように手を叩いた。
「ふふっ。今度は神殿に来てくださいね。裏庭でお茶会でもしましょう。あそこ、意外と雰囲気いいんですから」
蒼真は困ったようにため息を吐くしかなかった。
(……ちゃっかりしてる。こういうのを言うんだろうな)
満足したのか、リリーナはひらりと手を振って帰っていく。
その背を見送りながら、蒼真は小さく笑った。ほんのわずかだが、王都の冷たい夜気が柔らかくなった気がした。
扉を閉めると、手には温もりの残る包み。
甘い果実の香りがふわりと部屋に広がり、妙に彼女の残り香のようで、蒼真は首をすくめた。
「……リリーナ、か」
見た目は清楚で可憐だが、押しの強さと度胸は相当なものだ。
しかも――
「俺、名前……名乗ったか?」
あの夜はただ、暴漢を退けただけだ。
やはり神殿の者は侮れない。素性も名前も、すでに調べ上げられていたのだろう。
(……ああいうの、苦手だな)
窓を開け、夜風を吸い込む。少し冷たい風が火照った頬をなでた。
部屋には甘い果実の香りと、ほんのりとした温かさだけが残る。
(……変な奴)
そう思いながらも、嫌な気はしない。
あの夜助けたことに、誰かがこうして「ありがとう」と言いに来る――
それがこんなにも心を軽くするとは思わなかった。
彼女は、きっとまた来る。
断ろうとしても、あの押しの強さでは無駄に違いない。
蒼真は小さく苦笑し、包みを見つめながらぽつりと呟いた。
「……ほんと、ろくな奴に会わないな。こっち来てから」
けれどその声には、わずかな笑みが混じっていた。




