第49話:狂犬バルクとの戦い
地獄階層――
それは闘技場の底にある禁じられた舞台だった。
表の試合表には載らず、招待された観客と、一部の貴族、裏社会の重鎮だけが知る
選ばれし狂宴。
試合の勝敗ではなく、命の有無そのものに金が賭けられ、
出場者の多くは二度と地上に戻らない。
そこへ、蒼真は足を踏み入れた。
鉄の梯子を降りた先、壁には血の手形、床には染みついた絶命の残滓。
薄暗い灯りが天井をぼんやり照らし、空気は重く湿っていた。
案内役の男が低く呟く。
「引き返すなら今だぞ。ここから先は、客も運営も止める気はねぇ。……相手は、殺すために飼われてる」
「だから来た。命を賭ける覚悟を、俺はもう済ませてる」
男はそれ以上何も言わず、黙って扉を開いた。
待機室。
血に染まったまま放置された武器、崩れかけた檻、誰かが殴り壊した壁。
これまでの階層とは空気が違う。そこには理性のない獣のような匂いが充満していた。
「次の相手は……バルク。元は盗賊団の団長だったが、魔術実験の被験体にされて精神を壊した。今はただ殺すことしか覚えていない」
そう言われて渡された紙には、かつての経歴、そして試合中に人間を殺した記録。
蒼真は紙を無言で見つめ、静かに破り捨てた。
「相手が誰であれ、やることは変わらない」
鞘に収めた古びた片刃の剣を確かめ、仮面をかぶり直す。
彼はもう、恐れていない。
必要なのは恐怖ではなく、静かな剣気と、見る眼だ。
やがて、地響きのような歓声が地下の奥から響いてくる。
「さあ今夜も開幕だ! 地獄の宴に舞い降りるは、無敗の記録を誇る超新星――仮面の剣士・ラセツ!!
扉が開く。
地獄の舞台の空気が、灼熱のように肌を焼いた。
――蒼真は、一歩を踏み出す。
そこはもう、剣技だけでは足りない。
意志が濁れば、殺される。覚悟が鈍れば、潰される。
だが彼は、背負っている。
約束を。
恩義を。
そして、羅刹丸の剣を受け継ぐ者としての魂を。
「……俺の剣は、まだまだこれからだ」
仮面の奥で、蒼真は静かに呟いた。
地獄の渦が開く。
そして、次の戦いが、今、幕を開ける。
扉が重く軋む音を立てて開くと、地下の奥底――《地獄階層》が姿を現した。
広さは通常の闘技場の倍。
壁には鉄格子が張り巡らされ、観客席との境を隔てている。
だがその格子の外側からも、無数の目と声が飛び交っていた。
「来たぞォ! 仮面の剣士、ラセツだァ!」
「今度はどうやって殺る? 首か? 心臓か?」
「いや、今回は逆に殺されるんじゃねぇか? 相手は狂犬バルクだぞ!」
観客たちは酒と煙草、女と賭け札に酔いながら、命のぶつかり合いを娯楽として喰らっている。その異様な熱気に包まれながら、蒼真はただ静かに、土の上に足を置いた。
――そして、対面の檻が開く。
ガシャアアンッ!!
鉄が悲鳴を上げるとともに、現れたのはバルク。
かつて傭兵団を束ねたという男の面影は、もうそこにはなかった。
巨躯の半裸の肉体には無数の縫い跡と魔術刻印。
腕には鉄鎖、眼には血走った狂気。
鉄棒のような剣を引きずりながら、泡を吹き、うめき声を漏らしている。
「ガ、アァァ……ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”!!」
言葉にならぬ咆哮が響き渡ると、観客が一斉に沸き立った。
「始めろォォッ!!」
鐘の音が鳴るよりも早く、ベルクが地を蹴った。
――速い。
その巨体からは想像できない速度。
土が跳ね、空気が裂ける。
(……正面、来る)
蒼真は身構えた。だが、初手を斬り合うつもりはなかった。
“見極める”――それが彼の戦い方だ。
ベルクの剣が振り下ろされる。
ズガァンッ!!
地面が爆ぜ、砂塵が舞う。観客が歓声を上げる。
ラセツはその直前で身を引き、間一髪で直撃を回避していた。
だが、空気が違う。初戦や中層の戦士たちとは別物の殺意が、肌にまとわりついてくる。
(気配がまるで感じ取れない……動きも読めない。理性のかけらもない気配だ。止まらない……いや、止まるつもりすらない」
それでも、恐怖はなかった。
むしろ――彼の目は、静かに燃え始めていた。
(これでいい。こうでなくちゃ、俺の剣は高みに届かない)
ベルクが再び突っ込んでくる。狂乱の剣が唸りを上げる。
蒼真は一歩下がり、回避しながら、視る。
その筋肉の動き。呼吸の乱れ。攻撃の軌道と、氣の流れ――
(相手の動きが読めない……まだだ、まだ斬り込める隙が足りない)
一撃で終わらせられるような相手ではない。
終焉の刻は、必ず訪れる。
その瞬間を逃さぬために、今はただ、相手のすべての動きを見極め、切っ先に刻み込むだけ。
歓声が地鳴りのように響く闘技場の中心で、仮面の剣士は静かにその身を沈める。
無数の視線と狂気の叫びが飛び交う中、彼はただ一人、冷たい沈黙の中で牙を研ぎ澄ます。
狂犬の咆哮など意に介さず、殺意の濁流すらも受け流し――
やがて訪れる一閃の時を待ちながら、鋼のような意志と共に、研ぎ澄まされた刃として立ち続けていた。




