第47話:闘技場の戦い
蒼真――いや、“ラセツ”は重たい扉を抜け、武器庫と呼ばれる石造りの空間に足を踏み入れた。
そこは湿気と油の混ざった匂いが漂い、壁際の棚には剣、槍、斧、鎖鎌、あらゆる武具が無造作に並べられていた。どれも傷だらけで、使い込まれた痕が残っている。
棚に並ぶ武器をひとつひとつ見渡しながら、背中の布袋をそっと外す。中には、鋼屋が打ってくれた特注の刀があった。美しい反りと独特の刃文。まだ一度も実践で使っていない魂のこもった一振り。
だが蒼真は、それを静かに棚の隅に置いた。
(……この刀は、こんな場所で使うためのものじゃない)
血塗られた賭け場で、賭け金と観客の歓声にまみれるためではなく、もっと大切な場で抜くと決めていた。
「……悪いな、今日は出番じゃない」
そう呟くと、彼は代わりに片刃の古びた剣を手に取る。
少し重いが、使えないほどではない。刃こぼれがあるが問題ない。
馴染まぬ剣でも構わない。
今はただ金を稼ぐ。それだけが目的だった。
ごぉぉぉぉん――
重く低い鐘の音が地下に響き渡る。
それは、闘技場に戦の幕が降りたことを告げる合図だった。
「仮面の剣士、“ラセツ”――第一層、試合場へ」
無表情な係員に促され、蒼真は石造りの通路を歩き出す。仮面の内側には、汗ばむほどの熱気。そして、観客たちの怒号と笑い声が混じった騒音が、徐々に近づいてくる。
重たい鉄格子が開かれると、眼前に広がったのは闘技場。
血に染まった土の地面。丸く囲まれた円形の石壁。
その上から、粗野な笑いや歓声、罵声が飛び交っていた。
「おい見ろ、仮面だぜ! また変わり者かよ!」
「あいつ賭け率低っ! すぐ終わるだろ!」
侮蔑、期待、嘲笑――あらゆる感情が渦巻く中、“ラセツ”は静かに闘技場の中心へと進んでいく。
対面には、すでに待ち構える影があった。
大柄な斧使い。上半身裸の筋骨隆々とした男。
肩には傷跡、右腕には無数の刺青。獣のような気配を纏い、鉄の斧を肩に担いでいる。
「へっ、子供が仮面で隠れて何を守るってんだ。すぐに砕けて泣き叫ぶ面が見てぇなァ!」
男が嘲り笑いながら、斧を叩きつけるように構える。
蒼真は応じず、ただ静かに、拾った片刃の剣を抜いた。
観客の声も、相手の威嚇も、すべてを遮るように、仮面の奥で息を整える。
(……やるしかない。先へ進むために)
次の瞬間、鐘が二度目を鳴らす。
その音が終わる前に、戦いの火蓋が――切って落とされた。
ごぉん……という残響が消えぬうちに、対峙する斧使いが大地を蹴った。
「うおおおおッ!!」
唸り声とともに振り下ろされる巨大な鉄斧――
それは力任せの一撃だったが、速度も重さも並の兵士を叩き潰すには十分すぎた。
だが、蒼真は動かない。
――いや、正確にはほんのわずかに身を引いた。
斧が土を穿つ音とともに、破片が飛び散る。
土煙の中、蒼真はその動きのすべてを見ていた。
(重い……だが、速さはそこそこか。重心が甘い。振り下ろしたあとに隙ができる)
仮面越しの視界。限られた空間で、彼は慎重に敵の癖を観察していた。
真正面からぶつかれば押し潰される。だが、流せばいい。いなして、崩せばいい。
斧使いは二撃、三撃と容赦なく振り下ろす。
そのたびに蒼真は紙一重で避け、足を半歩だけ動かす。必要以上には動かず、無駄な氣も使わない。
(まだだ。今は斬る場面じゃない。まずは見極める。この闘技場の戦士のレベルを)
観客席からは罵声が飛ぶ。
「なに逃げてんだよ、仮面野郎!」
「へタレか! 反撃しろ、臆病者!」
だが、その言葉も蒼真の耳には届かない。
仮面の奥の視線は冷静だった。
一手。二手。三手。
斧の軌道、踏み込みの癖、右脚にわずかな違和感……。
蒼真の頭の中で、敵の構造が少しずつ組み上がっていく。
(……次の一撃で、左に体が流れる)
“見えた”。
次に踏み込めば、反撃の隙が生まれる。
静かに、蒼真は構えを下げ、呼吸を整えた。
(――今だ)
次の瞬間、斧使いの身体がわずかに左に傾く。
連撃による勢いの余波。重心が外れ、足がわずかに滑る。
「なっ――」
男が気づいたときにはすでに遅かった。
仮面の剣士は土煙の中を滑るように踏み込み、
無駄なく、正確に、鋭く斬る。
“ガシュ”
乾いた音とともに、斧使いの右手首が弾けた。
悲鳴を上げる暇すら与えず、蒼真は剣を回し、膝裏を刈るように一撃。
巨体が音を立てて崩れ落ちる。
土埃が舞い、観客の歓声が一瞬止まった。
「――ッ!」
斧を落とし、呻く相手の喉元に、冷たい剣の刃が突きつけられる。
だが、蒼真はとどめを刺さなかった。
静かに仮面の奥で目を閉じ、剣を引いた。
「これで終わりだ。動くな。……それで済むなら、殺す理由はない」
沈黙。
次の瞬間、観客席から一斉に歓声が沸き上がった。
「やるじゃねぇか、仮面!」
「仮面の剣士、意外とイケるぞ!」
「今の見たか!? 一撃で決めやがった!」
無数の叫びが飛び交う中、蒼真は一切の感情を見せず、剣を鞘に納めた。
――この程度なら、問題はない。
必要な金を得るための第一歩。
命を落とすまでもなかった。
だが、蒼真は知っている。
この先には、もっと深い闇が待っていると。
そして、戦いはまだ始まったばかりだった。




