第44話:闇の情報屋
ギィ……と、重たい音を立てて開かれた奥の扉の先には、ひどく薄暗い廊下が続いていた。灯りは少なく、壁には剥がれかけた紙片や、焼け焦げたような痕が残る。
蒼真は慎重に歩を進めた。
(ここは……酒場の裏というより、まるで地下の取引場だな)
足元の床材が石に変わったあたりで、ようやく広間に出る。
そこには小さなテーブルが並び、数人の男女が、フードを目深に被ったまま静かに酒を酌み交わしていた。
空気は重く、ただならぬ気配が漂う。
誰もが武器を隠し持ち、誰もが他者を信用していない。そんな世界だった。
その奥に、ひときわ異質な存在がいた。
背の高い女。
白銀の髪に、細工の施された黒いベールをかぶっている。
長い脚を組み、煙管を手にしていたその女は、蒼真が現れるとわずかに顎を動かした。
「ようこそ。何の情報をお求めで?」
女の声は低く、艶やかだが、その内に冷えた刃のようなものを含んでいた。
蒼真は臆することなく一歩踏み出す。
「南方……魔族の地に通じる道を探している。金は払う。情報も買う。命を張る価値があると俺は思ってる」
「ふぅん……勇敢、あるいは愚か、あるいは……その両方かしら」
女は煙をゆっくり吐き出しながら、椅子の背にもたれた。
「名前は?」
「蒼真」
女はくす、と微笑む。
「蒼真。あなたのような者は年に数人いるの。けれど、ほとんどは途中で死ぬか、途中で変わる。人であることを捨ててね。それでも行く?」
蒼真はわずかに黙り込んだが、やがてはっきりと頷いた。
「行く。尊敬する人と交わした約束だ。どんな手を使ってでも、魔族の地の先を見たい」
女は、その言葉を受け止めるようにしばし沈黙した。
目を閉じ、深く静かな息をひとつ吐いた後、ゆっくりと口を開く。
「……本当に愚かね。でも、その愚かさこそが、扉を開く鍵になることもある」
その声には、呆れと、ほんの僅かな期待が混ざっていた。
「魔族の地へ行く方法はいくつかある。だが、どれも人としての道ではない。国境を越える道は封じられ、空も地も結界に覆われている。正規の手段では、王の許可すら下りない」
蒼真は眉をひそめた。
「じゃあ、どうする?」
女はゆっくりと立ち上がり、手のひらをかざす。
女は蒼真の決意をじっと見つめたまま、わずかに表情を曇らせた。
「……その前に、言っておくことがあるわ」
「ん?」
「魔族の地へ向かうには……大金が要るの」
蒼真は目を細めた。
「……金?」
「ええ。単に道が危険だからじゃない。そこへ向かうには、まず最前線地帯に潜り込まなきゃならない。そのためには、密偵の協力、裏輸送網、偽造書類、装備の手配……すべてが正規のルート外。命だけじゃなく、金も差し出さなければ門は開かない」
女の声には冷たさすらあった。
蒼真はしばらく無言のまま考え込む。
「……どれくらい、必要なんだ?」
女は指を一本立てて、容赦なく答えた。
「最低でも《白金貨10枚》分。それも前払いよ。理由を聞く必要はない。命の保証料だと思えばいいわ」
蒼真はわずかに息を詰まらせた。
白金貨10枚――それは庶民の生涯分でも届かない額だった。
「……なるほど、簡単にはいかないな」
「資金もなしに志だけで挑む者ほど、すぐに死ぬ。夢に酔う前に、現実を踏めるかどうかが第一関門よ。……どうする?」
蒼真は拳を握り、低く答えた。
「用意するよ。手段は問わない。……その金で、俺の道が開けるなら」
蒼真がそう言い切った瞬間、女はわずかに目を細め、静かに頷いた。
「その覚悟があるなら、ひとつ方法を教えてあげる」
「方法?」
「闘技場よ。王都の外れ、地下に広がる非合法寄りの試合場。名目は娯楽施設だけど、実態は命懸けの金稼ぎの場。実力さえ見せれば、賭け金も跳ね上がる」
蒼真は眉をひそめた。
「闘技場……か」
「ええ。観客のほとんどは貴族や軍人、傭兵団の連中よ。彼らは強者に金を賭け、時には人材を買おうとする。貴族との契約や傭兵団へのスカウトもあるけど……あくまで闘って勝ち続ければ、の話」
「命を懸けたショーってわけか」
「その通り。賭けられる命にしか、金は落ちない」
女は冷たく言い放つ。
「だが、あなたのように戦える者には、最も早い稼ぎ口でもある。白金貨10枚分の価値。あそこでなら、現実になるかもしれない」
蒼真は拳をゆっくりと握りしめた。
「……場所は?」
「王都の西区にある市場の裏手。武器屋の看板が二つ並んだ道を抜けた先に、鉄扉がある。合言葉は“沈黙の刃”。それで案内されるわ」
「わかった。ありがとう」
「……本当に行くつもりなら、覚悟して。闘技場で死んでも、誰も責任なんて取ってくれないから」
その言葉を残し、女は闇に消えた。
蒼真はしばらくその場に立ち尽くした後、静かに前を向く。
稼がなければ、進めない。
その現実を受け止め、蒼真の目に迷いはなかった。
「やってやるよ……俺には、その先を見る理由がある」
それは人知れず始まる、戦場とは異なるもう一つの戦いの始まりだった。




