第42話:正体を隠して上陸
しばらくの言い合いの末、二人はようやく落ち着きを取り戻していた。
蒼真が手すりにもたれながら、ぼそっとつぶやく。
「……で、結局、合言葉はどうすんだよ。もう詩っぽいのはやめとくからさ」
セリスは腕を組みながら、少し考える素振りを見せた。
「では……もっと簡単で、目立たなくて、自然な言葉にしましょう」
「うん、それがいい。誰が見てもただの言葉って思えるやつな」
「たとえば……“ひとひらの風”とか」
「……おっ、いいなそれ」
蒼真は意外そうに目を見開いた。
「詩っぽすぎず、でも神殿の雰囲気には合ってるし。なんか静かに合図してる感じもあるし」
「はい。それでは合言葉は決まりです」
セリスは微笑みながら頷き、確認するようにもう一度言った。
「もし合言葉が書かれていたら、それは“翌日、会いたい”という合図です。場所は神殿の祈りの間で。時間は、お昼頃にしましょうか」
「了解。今度は文句なしだ」
「よかったです」
ふたりは小さく笑い合う。
風は穏やかに吹き、王国の港はもうすぐそこに迫っていた。
港が近づくにつれて、船の速度が徐々に落ちていく。
白い城壁が間近に迫り、王都の威容が静かに姿を現す。高くそびえる塔と石畳の街並み。整然とした港にはすでに王国の兵らしき者たちが数名、整列して待機していた。
セリスはその光景を見て、蒼真の方を向く。
「あれが迎えの者たちです。私の名を告げれば、すぐに船を寄せてくれるはずです」
「そうか……」
蒼真はわずかに目を細め港を見つめた。人影の数や兵の視線、警備の間隔まで、自然と観察が研ぎ澄まされていく。
セリスは一歩近づき、静かに言った。
「……ここからは、別行動ですね」
「ああ」
蒼真は小さく頷くと、どこか寂しげに笑った。
「でも、また会おう。神殿の祈りの間で」
セリスはくすりと微笑み、蒼真の目を見つめた。
「ええ。また会いましょう。」
「セリスこそ。……王都には、他の勇者たちもいるんだろ?油断しないでくれよ」
その言葉に、セリスはわずかに表情を引き締めた。
「分かっています。私も、できる限り情報を集めておきます」
ふたりの視線が重なり、互いの信頼と覚悟がそこに交錯する。
やがて船が岸に寄せられ、セリスが軽やかに甲板を後にした。
迎えの兵士たちはすぐに彼女の姿に気づき、恭しく頭を下げる。
その背中を見送りながら、蒼真は小さくつぶやいた。
「……さて、こっちはこっちで、やるべきことをやるか」
船の別の側面。貨物用の積み下ろし口へと静かに足を運ぶ。ちょうど荷を運んでいた商人たちの列に紛れるようにして、彼は姿勢を低くし、音もなく船を降りた。
港の喧騒。貨物の積み下ろしを指示する声や、波止場のざわめき。
そのすべてのなかに、蒼真は一滴の影のように紛れ込む。
(……朱音には見つかりたくないな、今はまだ、お前にだけは)
そう胸の内でつぶやきながら、蒼真は石畳の裏路地へと姿を消した。
石畳の道をすり抜ける風に、潮の香りがまだ色濃く混じっていた。
港からそう遠くない路地裏に身を潜め、蒼真は一度深く息を吐く。
「……ふぅ、なんとかバレずに上陸できたな」
だが、ここからが本番だ。
この王都では、隼人や朱音をはじめ、彼を知る者が数名いる。
(とはいえ……このまま歩いてたら、どこかで顔を見られる)
蒼真はふと足を止め、建物の壁にもたれながら思案する。
(隼人たちは城にいるだろうけど、街でバッタリあう可能性もあるしな……)
人目を避けるなら、顔を隠すのが一番早い。
だが――
「……仮面か」
ぽつりとつぶやいた自分の声に、思わず眉をひそめる。
(いや、ダメだ。セリスに見せたら絶対にバカにされる。
またセンスがないとか言われる未来が見える……!)
蒼真は頭を抱えてしゃがみ込む。
「……どうしてあいつの顔がすぐ浮かぶんだよ」
そのとき、近くの通りを通りかかった商人たちの会話が耳に入る。
「この時期は仮面祭も近いから、露店が増えてるな」
「おお、仮面細工の店も来てたぞ。珍しい獣面とかもあったな」
「……は?」
蒼真はすっと顔を上げた。
(仮面祭……? なるほど、そういう季節の行事か……)
静かに口元に笑みが浮かぶ。
それなら、仮面をつけていても不自然には見えない。市民に紛れる格好としては、むしろうってつけだ。
「よし……だったら、ちょっと覗いてみるか。なるべく目立たないやつを選ぼう。絶対、またセリスにネタにされないように……!」
そう呟いて立ち上がると、蒼真はすぐ近くの仮面市を目指して歩き出した。
その背中はどこか軽やかで、しかし真剣な眼差しで町並みに溶け込んでいく。
(問題は、その前に宿を見つけないとな……)
王都の大通りは、夕刻の活気に包まれていた。
行き交う人々、呼び込みの声、焼き菓子の香ばしい匂い――
それらすべてが、旅人としての蒼真を歓迎するように混ざり合っている。
(あまり目立たず、王城からも少し距離があるところがいい)
蒼真は路地をいくつか抜け、人通りの少ない裏通りに出た。
周囲を見渡せば、派手さのない古びた木造の宿屋がぽつりぽつりと並んでいる。
そのなかで、ひとつの看板に目が留まった。
――《ラステリア》
古めかしい文字ではあるが、清潔感のある外観と、小さな中庭がのぞくその建物に、蒼真は足を向けた。
木の扉を押すと、控えめな鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
迎えたのは年配の女性。人のよさそうな笑顔に、蒼真も自然と頭を下げた。
「一泊、いや……何日か滞在するかもしれません。部屋、空いてますか?」
「ええ、ちょうど港から来た方たちが出たばかりで、一部屋だけ空いてますよ。素泊まりなら三銀貨、朝食付きなら五銀貨になります」
「助かります。朝食付きでお願いします」
そう言って、銀貨を差し出すと、女性は鍵を渡しながら優しく告げた。
「裏手の二階、窓のある部屋です。ごゆっくり」
「ありがとうございます」
簡素な階段を上がり、自室に荷を置いた蒼真は、窓を開けて夜の風を浴びる。
(さて……次は仮面か)
街の灯がちらほらと灯り始め、遠くの広場では小さな演奏会が始まっていた。
祭りの準備が着々と進んでいるようだ。
宿を出て大通りに戻ると、すでに数軒の仮面屋が店を広げていた。
獣の面、羽根付きの仮面、金銀の装飾が施された派手なもの……どれも目立つ。
「……ちょっと違う」
蒼真は小声で呟きながら、いくつかの店を回っていく。
そして、ある屋台の奥で、地味ではあるが精巧に彫られた木彫の仮面を見つけた。
装飾も派手さもなく、眉から頬にかけて力強い彫りがある。
しかし何よりどこか無表情で、静かな気配が漂っていた。
「……これ、いただけますか?」
「おっ、そっちかい。派手なやつよりそっち選ぶとは、渋いねぇ」
店主の言葉に曖昧に笑いながら、蒼真は代金を払い、仮面を懐にしまった。
(……これならセリスにも何も言われない。たぶん)
ふと、遠くの王城を見上げる。
あの場所に、自分をよく知る者たちがいる。
だが今の蒼真は、かつての彼ではない。
(……さあ、静かに始めよう。俺だけの戦いを)
そう胸の奥で呟き、蒼真は仮面の男として、王都の影へと紛れていった――。




