第37話:旅立ちの時
道場を出発する日の朝――
蒼真は、門の前で深く息を吐いた。今日が旅立ちの日だ。
だがその前に、ひとつだけ、果たさなければならないことがある。
道場の奥、広間に入ると、すでに長机には湯気の立つ料理が並べられていた。
炊きたての白米、味噌汁、焼き魚、季節の煮物。
どれも見慣れた、けれど今はどこか特別に思える。
「遅いわよ、主役が」
声の主は柚葉だった。
いつもより少しだけ丁寧に結った髪に、淡い色の着物。
いつもの毒舌は控えめで、どこか寂しげだった。
道場の仲間たちもすでに集まっており、それぞれの席から蒼真を見ていた。
無言で頷く者、静かに微笑む者、わざとそっぽを向く者。
だがそのどれもが、別れを感じていた。
琴音が席に着くと、手を合わせる声が一斉に響いた。
「いただきます」
箸が動き始め、しばしの間、食卓には静かな温もりだけが満ちていく。
誰もが気を遣い、特別な言葉を探しているようだった。
そんな中、柚葉がふいに箸を置いて言った。
「……言っておくけど、私は泣かないからね」
「別に、泣いてくれてもいいぞ?」
「うるさい。調子に乗るな」
それでも、彼女の声はどこか震えていた。
蒼真は笑ってご飯をかき込む。
この味、この空気、この時間――すべてが胸に刻まれていく。
仲間の一人がぽつりとつぶやいた。
「……蒼真がいなくなると、静かになりそうだな」
「また戻ってくるよ」
誰かが笑い、誰かが目を伏せた。
それぞれのかたちで、蒼真を送り出そうとしている。
食事が終わり、後片付けの後。
最後にもう一度、蒼真は全員の前で深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。必ず……強くなって戻ってきます」
柚葉がふいに立ち上がり、何か言いかけて、やめた。
それでも、小さな声で言葉を残す。
「……待ってるから」
蒼真はその言葉に、一瞬だけ立ち止まった。
振り返りたい衝動をぐっとこらえて、拳を握りしめる。
(……ありがとう、柚葉)
その感謝は声にならず、ただ胸の奥に静かに沈んだ。
門を出たその先、道場の坂道を下りながら、蒼真は隣に立つセリスをちらりと見る。
彼女は朝日を浴びながら、どこか楽しそうな笑みを浮かべていた。
「……なんだよ、急に笑って」
蒼真が眉をひそめると、セリスは両手を後ろに組んだまま、わざとらしく首を傾げた。
「ふふ。なんでもありません。ただ……「待ってるから」って、いい響きですね」
「聞こえてたのか」
「ええ、ばっちりと。しっかりと。はっきりと」
蒼真はむっとした顔を見せたが、すぐに苦笑に変わる。
「ったく……からかって楽しいか?」
「はい、とても。なんだか、そういうのって青春って感じがして」
「お前、そういうキャラだったっけ……」
セリスは肩をすくめた。
「表情はとても素直ですね。……でも、いいと思いますよ」
「何がだよ」
「あなたが、ちゃんと誰かのために強くなりたいって思えてること」
その言葉に、蒼真は返す言葉を失った。
しばしの沈黙のあと、セリスが一歩前に出て、振り返る。
「さあ、行きましょう。船が待ってます。世界も」
蒼真は小さく頷き、その背を追うように歩き出した。
まだ見ぬ地へ向かうその一歩に、ほんの少し、力がこもっていた。
朝の光が海面にきらめく頃、港には潮の香りと穏やかな波音が満ちていた。
蒼真はセリスと並んで桟橋を歩いていた。
「ここが……旅立ちの港、ですね」
セリスがつぶやいたそのとき、蒼真の視線が前方にとどまった。
「見送りに来てくれたんだな」
港の一角、出航を待つ船の前に、二人の女性が立っていた。
ひとりは、清らかな佇まいの中に芯の強さを感じさせる神代静流。もうひとりは、道着姿の上から羽織をまとい、腕を組んでこちらを見ている早乙女琴音だった。
静流が一歩、蒼真に近づく。
「……旅立ちに水を差す気はありません。ただ、最後に言葉を交わしたくて」
蒼真は素直に頷いた。
「ありがとうございます、静流さん」
「静流で構いません」
その言葉に、蒼真の表情が少しだけ引き締まる。
「……静流の一閃、今も頭に残ってます。いつか必ず越えてみせます」
「ふふ、それを聞けて嬉しい。けれど忘れないでください。剣は誰かを斬るためだけではなく、守るためにもある」
そこへ琴音が口を開いた。
「守るものを見失ったら、どれだけ剣が冴えてても、ただの獣と同じ。蒼真、あなたはまだ未熟。世界を見てきなさい」
「はい」
蒼真が小さく頭を下げたその背後で、セリスが静かに歩み寄る。
「少し、羨ましいですね」
その声音は、いつになく真剣だった。
「蒼真。この子を無事に王国まで送り届けなさいね」
蒼真は真っ直ぐにその言葉を受け止め、深く頷いた。
「……はい。命に代えても、守り抜きます」
琴音は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに口元をわずかにほころばせた。
「命に代えなくていいの。無事で帰ってきさえすれば、それで十分なんだから」
その言葉に、セリスも小さく頭を下げた。
そのときだった。琴音がふと声のトーンを変えて、少しだけ蒼真に近づいた。
「……で、セリスを送ったあと、朱音に会うつもり?」
蒼真はわずかに目を見開き、口を開きかけて、言葉を失った。
「……それは、まだ……」
琴音は鼻先で小さく笑い、そっけなく言葉を返す。
「ふぅん。別に詮索する気はないけど」
その声色とは裏腹に、その目には確かな思うところがにじんでいた。
「ただ――あの子は、あんたのこと……」
言いかけたところで、琴音はふっと視線をそらし、口をつぐむ。
「……いや、やめた。余計なこと言うのは野暮ね。あとは自分で考えなさい」
「……?」
蒼真は首をかしげるが、琴音はもうそれ以上、何も言おうとしなかった。
「では、行ってきます!」
潮風が頬をなで、港の空気が次の旅立ちを促していた。
蒼真とセリスは、仲間たちの想いを背に受けながら、静かに船へと歩き出す。
その一歩が、新たな運命の扉を開く。




