第32話:それぞれの道
木造りの簡素な部屋に、静かな陽光が差し込んでいた。
湯気の立つ茶碗が並ぶ卓を囲んで、蒼真、セリス、静流の三人が座っていた。
言葉少なに茶を啜りながらも、皆その胸の内に、別れの刻が迫っていることを悟っていた。やがて、が口を開く。
「僕はここを出て、魔族の地へ行く」
その言葉に、セリスが小さく目を見開く。
「……本気、なのですね」
「ああ。師匠との約束だ。自分の目で世界を見ろってな。あの地に何があるのか。
人類の敵なのか、それとも違うのか。それを確かめなきゃ、僕自身が進めない」
迷いはなかった。
それは誰かに与えられた使命ではなく、自ら選び取った道の言葉だった。
静流が微かに目を細める。
「危険な場所だと聞いています。本当に大丈夫ですか?」
「確かなことは何もない。だが、あの地へ足を踏み入れなければ、何も見えてこない。この目で確かめる。この耳で真実を聞く。必要なら、剣を交える覚悟もある。
どれだけ危険でも……僕は行くと決めた」
蒼真の言葉に、セリスはゆっくりと頷いた。
「私はリグゼリア王国へ向かいます。勇者たちと合流しなければ。
もともと、彼らとは合流するという約束を交わしていました。
どれほど気がかりなことがあっても、それを違えるわけにはいきません」
わずかに伏せられた目が、迷いを断ち切るように強く輝いていた。
「……本当のことを言えば、蒼真が魔族の地へ向かうのは、危険すぎると思っています。たった一人で行くなんて、あまりにも無茶です」
その声音には、抑えきれない不安と心配が滲んでいた。
「できることなら私も力を貸したい……もしよければ、蒼真も王国へ一緒に来ませんか?あなたの実力なら勇者たちの助けになれるはずです」
蒼真はしばらく沈黙したまま、視線を遠くへ向けていた。
やがて、低く静かな声で言葉を返す。
「……気持ちはありがたいけど、僕は行かない」
セリスがわずかに目を見開く。
「隼人とは……今は、わかりあえる気がしない。
あいつに粉々にされたんだ。僕の努力も、誇りも――全部、あっさりと」
拳を握る指先に、悔しさが滲む。
「きっといつかは……いや、いずれ向き合わなきゃいけないことだって分かってる。
でも今はまだ、その時じゃない」
蒼真はそう言って、まっすぐにセリスを見返した。
「だから僕は、自分の足で自分の道を選ぶ。このまま誰かの背中を追うんじゃなく、自分の剣で証明するために魔族の地へ行く」
蒼真の言葉を聞いたセリスは、そっと目を伏せた。
その横顔には、わずかな寂しさが滲んでいる。
「……そう、ですか」
かすかに微笑もうとしたが、それは途中で消える。
「きっと、あなたなりの誇りがあるんですね。
だからこそ、無理に引き止めることはできません」
一瞬だけ、静かに目を閉じたあと、ゆっくりと顔を上げる。
「本当は、一緒に来てくれたら心強かった。
今のあなたとなら、どんな困難も越えられるって……そう思っていました」
その声は柔らかかったが、確かに名残惜しさを含んでいた。
「でも……その選んだ道が、あなたをより強くすると信じています」
「……ならせめて、王都までは送るよ。
途中で何があるか分からないし、護衛くらいはさせてくれ」
その瞳にはまっすぐな意志と、静かな優しさが宿っていた。
「合流するかは別としても、あんたを一人で向かわせるわけにはいかない。
それくらいのことは、させてくれ。頼む」
セリスは驚いたように瞬きをして、そしてふっと微笑んだ。
「……はい。ありがとう、蒼真。とても、心強いです」
静かに話が落ち着いたそのとき、静流がそっと口を開いた。
「……私は、この地を離れるわけにはいきません。少なくとも今は」
その声は穏やかで揺るぎなく、誰に対してというより、自らに言い聞かせるようでもあった。
「この場所には、私が背負うべき責任があります。
鍛錬を重ねた日々も、共に剣を学んだ者たちも……すべて、ここにありますから」
少しだけ間を置き、微笑みを浮かべて蒼真を見やる。
「でも、あなたがもし助けを求めるときがあれば――私はすぐに駆けつけます。
この命に誓って、必ず」
その言葉に込められた真剣な想いに、場にいた誰もが静かに頷いた。
蒼真は、その言葉に目を細めた。
静流のまっすぐな瞳に、揺るぎのない覚悟が宿っているのを見て、自然と微笑がこぼれる。
「……頼もしいな。じゃあ、いざって時は遠慮なく呼ばせてもらうよ」
「ええ。あなたが声を上げれば、私は迷わず刀を取ります。
あなたのためなら、それがどんな場所でも構いません」
静流は真っ直ぐにそう言い切った。
その言葉に偽りはなく、そしてどこか――名残惜しさすらにじんでいた。
セリスはふたりの様子を静かに見守っていたが、ふと口を開く。
「……不思議ですね。
みんな、別々の道を選んでいるのに、どこかでまた交わる気がします」
その声に、蒼真もうなずいた。
「それぞれの場所で、それぞれの戦いをする。
でも……また必ず、どこかで会える。そんな気がするんだ」
「ええ、きっと」
三人の間に、静かで温かな沈黙が流れる。
その日――
それぞれの別の道へと向かう覚悟を決めた、小さな分かれ道だった。
けれど、それは決して終わりではない。
むしろ、未来で再び交わるための、始まりにすぎなかった。




