第31話:女の勘(朱音side)
蒼真はうつむいたまま、膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
どれだけ言い訳を並べたところで、いま自分のしていることは
朱音にとって、裏切りにも似たものに映ってしまうかもしれない。
(……頼む。朱音には……知られませんように)
そう心の中で、神にも祈るように願った。
静流とのやりとりに悪意はなかった。
ただ剣士として同じ高さで斬り結べる相手として、
尊敬の念が芽生えただけだ。
それ以上の感情を抱いたつもりはなかった。
けれど、それが言い訳でしかないと今の彼にはわかっていた。
(あいつがこれを聞いたら、どう思うだろう)
どんな顔をするか想像したくなくて、蒼真はさらに視線を落とす。
――そのころ。
遥か離れたリグゼリア王国。
朱音は、ふと足を止めた。
「……っ」
背筋に、冷たいものが走る。
鍛えられた朱音の勘は常にに敏感だった。
今、彼女の肌を撫でたのは、それとは正反対の、ゾクリとするような冷気。
「……蒼真?」
何の根拠もない。
でも、胸の奥で何かが騒いでいる。
――嫌な予感。
彼女はしばらく無言で立ち尽くし、やがて溜め息をついた。
「……まさかね」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「……っ、なんなのよもう!」
朱音は無意識に拳を握っていた。
理由はわからない。
けれど、胸の奥がむしゃくしゃして、やたらとイライラする。
(なんか……すっごくムカつく)
蒼真の顔が頭に浮かぶ。
情けなくて、不器用で、でも時々かっこつけて勝手に走っていくやつ。
(……いや、だから何なのよ。別にあたしには関係ないし)
朱音はぶんぶんと首を振って振り払おうとするが、
むしろイライラは増していくばかりだった。
その様子を、やや後ろから歩いていた人物がじっと観察していた。
「……おやおや。これは何かあったかい?」
振り返ると、そこには飄々とした顔の勇者――瀬名隼人が立っていた。
ニヤニヤとした表情で、片眉を上げる。
「何よその顔。気持ち悪いわね」
「失敬だな朱音ちゃん。いや、ただの観察だけどさ。
最近の君って、なんかピリピリしてるっていうか……あれでしょ?蒼真くん関連でしょ?」
「違うっつーの!!」
反射的に大声を出したあと、しまったと口を噤む。
だがすでに手遅れだった。
隼人は口元をゆがめて、ますます面白がったように笑う。
「いや~そうやって過剰反応する時点で、もう答え合わせ完了だよねぇ」
「うっ……」
朱音は言葉に詰まり、俯く。
けれど、顔を赤らめたわけでも、泣きそうになったわけでもない。
その表情は、ただどうしようもなくムカついていた。
「……あいつ、なーんか、やらかしてる気がするんだよね」
「へえ、なるほどなるほど。直感型のヤンデレ予備軍だな、君は」
「誰がヤンデレだこのバカ勇者ッ!!」
怒鳴りながら拳を振り上げる朱音。
隼人はひらりとそれをかわしながら、軽く笑った。
「でもまぁ、なんとなくわかるよ。
君のそのムカつきって多分、自分でもまだ気づいてない感情から来てるんだろうね」
朱音は言い返そうとして何も言えなかった。
何かが、胸の中に渦巻いている。
それはまだ名前のつかない何か。
でも確かに、それは蒼真と関係している気がしてならなかった。
「……ったく、あいつほんと放っとけないんだから」
小石を蹴り飛ばしながら、朱音は不機嫌そうに言った。
その表情には怒りというよりも、呆れと妙な誇らしさが混ざっている。
その隣を歩いていた瀬名隼人は、ちらりと視線を向けて、ニヤリと笑った。
「放っとけないって……なに、保護者目線?」
「は? 違うし。あたしはただ、事実を言ってるだけ」
朱音は腕を組み、わざとそっぽを向く。
「蒼真なんてさ、自分じゃ洗濯物の干し方もまともに覚えてなかったし、朝起きなきゃご飯も食べ忘れるし、道場に来る時間も遅れるし……」
まくし立てるように話すその姿は、完全に世話焼き女房だった。
「休みの日は一人で練習してても無茶ばっかするし、
放っておいたら水も飲まずに倒れてるし、
無理に気を張ってるくせに熱出しても隠すし……」
一つひとつ思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛む。
そしてその痛みが、今のイライラの正体なのだと朱音自身もわかっていた。
「だから、あいつはあたしがいないとダメなの。
あいつ自身がどう思ってようと、実際そうだったんだから……私が……」
言いかけて、朱音は口をつぐんだ。
自分でも何を言おうとしていたのかに気づき、慌てて顔を背ける。
だが隼人は、その反応を見逃すはずがなかった。
「なるほどなるほど……つまり君は、あたしがいなきゃ蒼真は何もできないっていう絶対の立場から内心ざわざわしてるわけだ」
「うるさい! そういうことじゃないし!!」
朱音の声が裏返る。顔がほんのり赤い。
「ま、でもいいと思うよ。
君のそういう私は蒼真の居場所だったって自負。
それがなくなったって思うのが一番悔しいんだろうね」
「……っ」
図星だった。
悔しさと寂しさがごちゃ混ぜになって、自分でも処理しきれない。
朱音が拳を握りしめて前を向いたその瞬間――
「ふふっ、なるほど。つまり放っておけないっていうのは、愛情の裏返し、というわけですね」
後方からさらりと差し込まれる、落ち着いた声。
振り返ると、いつの間にか近づいていた綾小路紫苑が、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「し、紫苑!? な、なんであんたがそこにいんのよ!?」
「隼人さんが面白そうな顔をしていたので、つい」
ぴたりと併走しながら、紫苑は朱音を真横から眺める。
「でも意外でした。朱音さん、てっきりもっとドライな方かと思っていましたけど。
私がいなきゃダメな男とか、可愛いところ、あるんですね」
「ちょっ……それ言い方ァァァァ!!」
朱音の叫びが空に響く。
そこへさらに、草の上を跳ねるように軽やかな足取りで、もう一人の少女が加わる。
「おーおーおー! なにこれ修羅場の予感!? 朱音ちゃん、蒼真君のことで赤くなってるのバレバレだよ~?」
東雲美咲だった。
明るい笑顔で朱音の横にぴったり張りつく。
「あたしがいないとダメなのってセリフ、まるで新妻みたいだったもんね!
ふふ、蒼真くんってばモテモテ~♪」
「誰が新妻だバカ!!」
朱音は両手で頭を抱える。
「なんなのあんたたち……!? どこから聞いてたの!? っていうか何!? 今日はあたしをからかう日なの!?」
「え? 毎日ですけど?」
「ええ、特別なことでもありませんよ?」
紫苑と美咲の即答に、朱音は崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「……蒼真がいるときよりムカつくわ、あんたら……」
それでもその背中には、どこか楽しそうな空気が滲んでいた。
言葉では否定していても、蒼真の名前が出たときの反応は、あまりに素直すぎる。
「ふふ……でも、私たちは応援してますからね?」
紫苑が静かに言う。
「そうそう。だって朱音ちゃん、悔しそうっていうより――
本当は会いたそうに見えたから」
その言葉に、朱音はゆっくりと顔を上げた。
少しだけ赤くなった目を隠すように、髪をかき上げると、小さく呟く。
「……バカ。誰が、会いたいなんて」
けれど、次に歩き出すその足取りは、さっきよりずっと軽かった。




