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第3話:旅立ちの時

朝の竹林に、鳥のさえずりがかすかに響いていた。


蒼神流・蒼月道場の前。

旅支度を整えた朱音が、道場の門の前に立っていた。

その傍らには、勇者・瀬名隼人と、仲間の紫苑、美咲の姿がある。


「じゃ、準備できたら出発ね〜」と美咲が明るく声をかける。


「……うん」と朱音は短く頷いたが、視線はその背後をちらりと見る。


少し遅れて、蒼真がやってきた。

道着のまま。木刀も持たず、ただ立っている。

二人の間に流れる空気は、どこかぎこちない。


朱音は何か言おうとしたが、唇が動くだけで、言葉にはならなかった。


「……気をつけて」と、蒼真の方が先に口を開く。


「……うん。ありがとう」


それだけだった。

いつもなら笑い合って、剣を交える前に交わしていたような軽口も、気取らない冗談もなかった。


沈黙が、痛いほど長く続く。

紫苑と美咲が空気を察して、先に歩き出す。

朱音は一度だけ、振り返って言った。


「……じゃあ、行くね」


蒼真はうなずくこともせず、ただその背中を見つめていた。

やがて、彼女の姿は竹林の向こうに消えていく。

蒼真はその場に立ち尽くしたまま、拳を強く握りしめた。


(……何も言えなかった)


(どうしてこんなに胸が痛いんだ)


彼の耳には、風に揺れる竹の音だけが虚しく響いていた。


道場の庭。

朱音が旅立った後、蒼真は一人で静かに木刀を構えていた。

何度斬っても、何度踏み込んでも――


(……届かない)


あの日、瀬名隼人との打ち合い。

自分も朱音も、全力を出したつもりだった。

けれど、隼人はただ一度、軽く木剣を振っただけだった。


“型”を持たず、“氣”を学ばず、剣を「知らない」人間が、すべてを無力化する。


あれは剣ではない。

だが、抗えなかった。


(勇者か……あんなものに、俺たちの積み重ねは――)


拳を強く握る。

その音が、静寂の中に小さく鳴った。


(……このままじゃ、全部失う)


朱音も、剣の誇りも、自分が信じてきたものすら。

あの日、蒼真の心は――確かに折れかけていた。

勇者という理不尽な存在に。


(なら、俺は……死ぬほどの修行で超えてみせる)


蒼真は顔を上げ、遠くの山を見た。

濃い霧のかかるその山は、かつて「修羅の山」と呼ばれ、入った者の多くが帰らなかったと伝えられている。

その眼に宿るのは、恐怖ではなく、決意だった。


(勇者。魔族。封印された異形たち……。そんな世界の中で、朱音は戦うんだ。なら僕も戦うまでだ)


ワノクニの禁足地。

常人が入ることを禁じられた、氣が荒れ狂う場所。


「……行くしかない。そこで死ぬなら僕はそれまでの人間だ」


蒼真は旅支度を整え、琴音への置手紙を残して

静かに道場を出た。



――蒼月道場


道場はいつもと同じ、澄んだ空気に包まれていた。

だが、そこにいるはずの者が、いなかった。


「……蒼真?」


道場主・早乙女琴音は、敷地を見渡す。

庭、裏手の井戸、小屋の前。

いつもなら、一番に木刀を振っている彼の姿が、どこにもない。


(おかしい……あの子がこの時間に道場にいないなんて)


朱音が勇者の一行に加わって旅立ったのは朝のこと。

やはりショックを受けたのだろうか。


「……話さなくてはと思っていたのに。朱音のこと……あの子が旅に出た理由を」


琴音は、急ぎ足で道場の奥の稽古場へと向かった。

そこは、蒼真がよく一人で型を磨いていた場所だった。


しかし、そこにも彼の姿はない。

代わりに、床の上に置かれた一枚の封筒が目に入った。

封には、きれいな筆致でこう書かれていた。


「師範へ」


(……手紙?)


嫌な予感に背を押されるように、琴音は急いで封を切った。


―――――

琴音さんへ


無断で姿を消してしまうこと、深くお詫びします

直接お話すれば止められるだろうと思い、この手紙にてお伝えします。


朱音が旅立つのを見て、ようやく自分の甘さに気づきました。

きっと、あの人にしか果たせない役目があるのでしょう。


あの人は……強いです。

剣を知らないのに、ただの一撃で僕たちのすべてを壊してしまう。

努力では届かないという現実を、あれほど無情に突きつけられたのは、初めてでした。


僕は小さな頃から先生に教わって、懸命に木刀を振ってきただけのどこにでもいる凡人です。


でも凡人には、凡人にしかできない戦い方があります。

何百回でも、何千回でも、立ち上がって振るう剣。

それを僕は、信じたい。


先生、僕は修行の旅に出ます。


ただの鍛錬ではありません。

死を覚悟するような、命の削り合いの修行です。

それでも、行く価値があると感じています。


この道場に育てられた者として、必ずいつか戻って戻ります。

その時、胸を張って先生に会えるように。

どうか、見守っていてください。


―――――


最後まで読み終えた時――


「……蒼真」


その声は、どこか震えていた。

琴音はその場に静かに座り込み、膝の上で手紙を握りしめる。

目元に浮かんだ涙を、彼女は手の甲でぬぐおうとしなかった。


「朱音がいなくなることが、どれだけ苦しかったか……。言葉にすらしなかったくせに……」


思い出すのは、まだ幼かった蒼真の姿。

小さな手で竹刀を握り、何度打たれても泣かずに立ち上がる少年だった。


「凡人だと?……違うよ。お前は、誰よりも真っ直ぐだった。誰よりも……、剣に誠実だったんだ」


琴音は唇を噛んだ。

心のどこかで、蒼真と朱音がいずれ夫婦となり、自分の後を継いでくれる未来を信じていた。

だが――


「……私は、何も見えていなかった」


目の前の才ばかりを気にし、蒼真の心の痛みに気づこうとしなかった。

そして、彼がそれでも何も言わず、前を向こうとしていることすら。


「行かせるしか、ないのね……」


その言葉は、自分自身に言い聞かせるようだった。


蒼真の行く先だと思うと、胸が苦しく締めつけられる。


「……必ず、生きて帰ってきなさい。蒼真」


彼女は、心からそう願っていた。

師としてではない。

朱音の母としてでもない。


一人の大人として、剣に生きる少年の旅路を――ただ祈るように見送った。

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