第28話:決着の時
観客席の熱狂が鳴り止まぬ中、
舞台の中心で向かい合うふたりの剣士。蒼真と静流だけが、
まるで別の空間にいるかのような静けさに包まれていた。
蒼真は、まだ荒い呼吸を整えられないまま、微かに目を細めて静流を見つめていた。
その表情に、痛みも疲労も浮かんでいなかった。
あるのは、ただ一つ。満ち足りた誇り。
静流もまた、剣の柄から手を離し、ゆっくりと息を吐く。
「……こんな気持ちになるのは、初めてです」
「え?」
「私が誰かに届かれたと思ったのは……本当に、初めてです」
柔らかく、けれど確かに胸の奥に届く声だった。
それは神代静流という孤高の剣士が、長い間心のどこかで抱えていた渇きを滲ませた言葉。
「私は、強くなりすぎたのかもしれません」
静流の視線が遠くを見た。
過去を振り返るように。
「いつの間にか誰とも正面から斬り結べなくなっていました。
皆が私を恐れ避けるようになり、私も……そういうものだと、受け入れてしまった」
だが――
「あなたと剣を交えて、気づきました。私が欲しかったのは、勝つことではない。
斬り結ぶこと。そのものだったのだと」
静流の声には、一切の飾り気がなかった。
凛とした美しさの中に、ひとつの本音があった。
蒼真は、黙ってそれを聞いていた。
剣を通じてのみ分かり合えた感情。
それはどんな言葉よりも重く、深かった。
そして、静流は一歩だけ蒼真に近づいた。
ふたりの距離が、ほんのわずか縮まる。
「天城蒼真。あなたが剣を捨てぬ限り――私は、何度でもあなたと戦いたい」
それは誓いだった。
剣士として、ライバルとして、魂を賭ける者への、真正面からの宣言。
蒼真は、それを静かに受け止めたのち、わずかに頷く。
「僕も……あんたとなら、何度でも斬り結びたいと思える」
互いの想いが、言葉を超えて交差した瞬間だった。
静流の言葉に、蒼真はゆっくりと息を吐いた。
その胸の奥に、もうひとつの記憶が静かに浮かび上がる。
――あのときも、視えなかった。
(……剣聖)
無明の扉の奥、最後の試練として現れた剣聖サクラ。
幻とはいえ、纏っていたのは紛れもなく本物の殺気だった。
美しく、冷たく、完璧だった。
理を超えた速さと技。気配すら残さぬ太刀筋。
あの刃を前に、ただ立っているだけでも魂が削られるような感覚だった。
けれど――あのとき、蒼真の剣は確かに届いた。
一瞬だけでも、彼女の剣を止め、押し返した。
(いや……あれは、僕の剣じゃない)
あの一太刀は、自分一人で振るったものではなかった。
それは、羅刹丸から叩き込まれた、魂ごと刻まれた剣だった。
(羅刹丸の夢が……届いたんだ)
彼はかつて語っていた。
「一度でいい。サクラの剣を、この手で越えてみたかった」と。
決して叶わなかった夢。
だが、蒼真という器を通して、羅刹丸の一太刀はその夢に届いた。
そして今――
目の前には、幻ではない。
現実に生き、剣を振るう神代静流という剣士がいる。
その斬撃には、サクラの剣に通じる本質が確かにあった。
幻を超えたなら、次は――現実だ。
(今度こそ、自分自身の剣で)
蒼真は、わずかに笑った。
羅刹丸の夢を継ぎ、超えた先で、ようやく自分の剣の意味が見えてきた。
(あんたの剣に、僕のすべてで届かせてみせる)
そう心に誓いながら、蒼真は再び、握り締めた拳に力を込めた。
(あの剣――《凪ノ太刀》を超えるには、今のままじゃ足りない)
静流は言った。「もう一度受ける覚悟はあるか」と。
蒼真は即座に応じた。「何度でも受けてみせる」と。
その言葉は嘘じゃない。けれど今は、ただ受けるだけじゃダメだ。
次は、自分の剣で真正面から“斬り結ぶ”。
そのために――
「……行くか」
誰に向けるでもなく、静かに呟いた。
静流の刃が、再びわずかに鞘から音を立てる。
もう一度《凪ノ太刀》を撃つつもりだ。
その氣の流れを、蒼真は確かに視た。
「静流さん……もう一度、来てくれ」
それは挑発ではなかった。
ただ、正面から向き合いたいという願い。
静流も、それを理解したのか、静かに頷き――再び、踏み込む。
風が止まり、世界が一瞬、沈黙する。
「――《凪ノ太刀》」
斬撃が放たれる。
今度も、蒼真には視えない。
だが、身体が応えていた。
蒼真は、羅刹丸に教えられた最終の構えをとる。
全身の氣を逆流させるように集め、一点に集中――
「……うおおおおおおっ!!」
吠えるように振り下ろした一太刀が、静流の居合とぶつかる。
瞬間、空間が軋み、鋭い衝撃音が炸裂する。
静流の刀が――砕けた。
鞘から半ば出たその刃が、斜めに折れ、破片が舞い上がる。
「――っ!」
静流の目が大きく見開かれる。
信じられないという驚愕と、そこに微かに混じる歓喜。
蒼真は、砕けた刀を手に、なおも立っていた。
足元はぐらつき、膝は震えている。
それでも、その目は真っ直ぐだった。
「……あなたの剣を、越えたわけじゃない。
でも……僕の剣は、届いた」
そう告げる声に、静流は息をのんだまま立ち尽くす。
そしてゆっくりと、深く頭を垂れた。
「……はい。たしかに、届きました。今の一撃で」
砕けた刃の破片が宙を舞い、ゆっくりと地面に落ちていく。
静流はそれを見つめながら、深く静かに息を吐いた。
そして――刀を鞘に収めることなく、そのまま柄から手を離す。
「……完敗です」
その声は穏やかで、清らかで、そしてどこまでも潔かった。
「私の奥義を、真正面から破られたのは……あなたが初めてです。
間違いなく、これは――私の負けです」
言葉の一つひとつに、剣士としての覚悟と敬意が込められていた。
観客席が静まり返る中、静流はゆっくりと膝をつき、頭を垂れる。
「あなたの剣、その意志、その技。すべてに敬意を。
私はあなたと戦えて嬉しかった。そう、はっきり言えます」
その姿は、敗者ではなかった。
誇り高き剣士が、ただ真正面から強さを称え、認めた姿だった。
蒼真は、震える呼吸を整えながら、それでも力強く立ち尽くす。
やがて、かすかに唇を動かした。
「……ありがとうございました。静流さん」
それは、勝者の言葉ではない。
一人の剣士としての、誠実な感謝の言葉だった。
その瞬間、観客席から再び嵐のような歓声が湧き上がった。
だが蒼真の心にあるのは、ただ一つ。
(ようやく、僕の剣が始まった)
その確信だった。




