第27話:剣聖の奥義
初めて、静流の唇がわずかに動いた。
彼女は確かに感じていた。
これまで誰一人届くことのなかった、剣の高みに踏み込む者の存在を。
それでも彼女は、剣聖の血を受け継ぐ者。
その名に、誇りと覚悟を背負う者だった。
だからこそ――
「私の奥義をお見せしましょう。人に向けるのは、あなたが初めてです」
静流の氣が、静かに、しかし圧倒的な密度で収束していく。
鞘に収められた刀の柄に、そっと手を添える。
その構えは誰も見たことがない奥義の型。
蒼真はそれを視た。
「来る……!」
静流の足がわずかに動いた、その瞬間だった。
氣の流れが一変する。
空気が音を失い、観客すら息を呑んで動けなくなる。
「――《凪ノ太刀》」
囁くような技名と同時に、静流の身体が霞のように消えた。
居合だが、それは常識の範疇を超えていた。
氣と肉体の完全な一致。
抜刀と踏み込みと斬撃が、時間軸すら超えて一つに重なる。
咄嗟に体を捻る。木刀を前に突き出し氣を一点に集中させる。
だが、間に合わない。
次の瞬間、蒼真の身体が後方へ弾き飛んでいた。
「がっ……!」
肩口から脇腹にかけて裂けるような衝撃。
吹き飛ばされた先で、膝をつき荒い呼吸を繰り返す。
観客席がざわめきに包まれる。
だが蒼真は立っていた。
血を流し、膝をつきながらも、顔を上げ静流を見据える。
静流の剣は、鞘に戻されていた。
その佇まいは崩れず、ただ静かに彼を見つめ返していた。
「……よく、耐えましたね」
その声には、驚きと――何より、深い敬意が込められていた。
蒼真は膝をついたまま、肩で荒く息をしながら、その声を聞いていた。
肺が焼けるように痛い。
視界は揺れ、耳の奥で脈打つ音が響く。
だが、それでも心は折れていなかった。
(……見えなかった)
音も氣もなく放たれた居合の奥義。
自分の技量では視えないのが当然だ。
鍛えに鍛えた反応すら、紙のように破られた。
(……でも、僕は、まだ動ける)
裂けた道着の下、滲む血。
倒れてもおかしくなかった一撃を自分は受け止めきった。
膝が震える。
それでも足に力を込める。
静流の声が、確かに届いていた。
敬意と賞賛。
神代静流という剣の申し子から、それが向けられたという事実。
(こんなもんじゃ、終われない)
蒼真はゆっくりと、震える脚に力を入れて立ち上がる。
血を拭うこともせず、ただ静流をまっすぐに見返す。
(僕は……あんたと並び立つ剣士になる)
その意思だけは、どんな痛みよりも強く胸に灯っていた。
蒼真の瞳が揺らがないのを見て、静流はごくわずかに目を細めた。
それは笑みとも、驚きともつかない。けれど確かな感情の揺れだった。
そして蒼真は、心の中で静かに誓った。
(次は、あんたの剣を――越える)
蒼真は、ふらつく足を地に踏みしめ、ゆっくりと完全に立ち上がった。
全身が悲鳴を上げていた。
腕は痺れ、視界は霞み、傷口からは熱い血が流れている。
それでも、蒼真の中に灯った炎は一層強く燃えていた。
(僕は……まだやれる)
あの一閃――《凪ノ太刀》は、まさに絶技だった。
視えない斬撃、読めない氣。
神速を極めたその太刀筋に、ほんのわずかでも抗えたのは、
鍛錬の果てに手にした勘という意志の力だけだった。
――それでも。
(一瞬。死を覚悟した)
(だけど……あの瞬間、心が震えた)
恐怖ではなかった。
畏れでもない。
あれは、歓喜だった。
本気で命を賭けなければ触れられない世界に、一歩だけ届いたという実感。
「……静流さん。あなたの強さに、心から感謝します。こんな世界を見せてくれて」
かすれた声で、蒼真はそう言った。
静流はただ何かを確認するように、蒼真の立ち姿を見つめていた。
「今の一太刀で、あなたがどれほど高みにいるか、はっきりと分かりました。
そんなあなたと剣を交わせたことに……心から感謝します」
そう言って頭を垂れる静流。
それは敗北の礼でも、形式の所作でもなかった。
一人の剣士として、認めた者に向ける、誠実な敬意だった。
観客席が、ふたたびざわつき始める。
誰もがこの光景の意味を理解し始めていた。
――あの神代静流が、頭を垂れた。
たった今、蒼真という少年を、同格の剣士として受け入れたのだと。
蒼真は拳を握り、胸の奥で静かに言葉を刻む。
(あんたに一歩届いた。でも――これが終わりじゃない)
あの一閃の全ては、まだ視えていなかった。
本当の意味で超えるには、まだ足りない。
だからこそ、また剣を握る理由がある。
そのとき、静流がふっと微笑んだ。
それは、戦いの最中には見せなかった、どこか柔らかな表情だった。
「もう一度受ける覚悟はありますか?」
「……ああ。何度でも受けてみせる」
互いに微笑んだその瞬間、
観客席から、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。




