第16話:次の目的地
鳥居の前。
朝靄の中、白銀の髪をたなびかせた老人が丸太に腰掛けていた。
手には湯気の立つ湯呑み。
蒼真はその姿に見覚えがあることをすぐに思い出した。
「……あなた、あの時の」
「……ほう?」
湯呑みを口に運びかけていた老人が、ぴたりと動きを止めた。
目を見開き、驚きの色をそのままに蒼真をまじまじと見つめる。
「お主……あのとき、修羅の山に入ると言っていた若者か……? まさか、生きて……いや、それにしても……」
しばらく言葉を探すように黙ったあと、老人は小さく息を吐いて言った。
「随分と変わったな。面影はあるが……お主……何を背負った?」
老人の声には畏れと敬意が滲んでいた。
「全部です」と、蒼真は静かに言う。
「羅刹丸という侍から、その生き様と剣を継ぎました」
「羅刹丸……」
「彼はもうこの世にいません。でも、その技と想いは、この剣に残ってる」
老人はしばらく黙ってから、問いかける。
「それで、お主はこれから、どこへ向かう?」
蒼真は風に髪をなびかせながら、はっきりと口にした。
「魔族の地へ。俺は、知りたいんです。魔族が本当に敵なのか。人間が信じてきたものが正しいのか」
「愚かな考えだと、誰かに言われても?」
「……自分の目で確かめずに剣を振るうのは、もっと愚かだと思います」
その言葉に、老人はわずかに目を細めた。
「ならば、行くがいい。だが、迷えば帰れ。剣に溺れそうになったら、ここを思い出せ。」
蒼真は微笑んだ。
「ありがとうございます。……もう、迷いません」
鳥居をくぐるその背中を、老人は長く見送っていた。
そして呟くように、誰にも届かぬ声で言った。
「……羅刹丸。お主が遺したもの、確かに育っておるぞ」
風が吹いた。鳥居の鈴が一つだけ澄んだ音を立てた。
蒼真は山を下りたその足で街道を歩いていた。
空は高く晴れ渡り、鳥の鳴き声すら遠くに響いている。
(……まずは、大陸に渡らないと)
魔族の領地は、ワノクニから離れた別大陸にある。
その先に人々が「魔の地」と呼ぶ世界が広がっている。
蒼真は立ち止まり、空を仰いだ。
(そのためには、まず港町へ行く必要がある。だが……)
ポケットに手を突っ込む。
じゃらり、と音がした。
中にあったのは、修行に入る前に持ってきた最低限の銅貨数枚だけ。
(宿にも泊まれない……飯もギリだな)
現実は剣より重い。
いくら修行を積み強くなったところで、旅の第一歩は金がなければ踏み出せない。
蒼真はため息をついた。
魔族の地へ。その決意は揺るがない。
だが現実は、剣では切り拓けないものもある。
彼は立ち止まり、草むらに腰を下ろした。
靴を脱ぎ、冷たい川の水に足を浸す。
(……まずは、金を稼ぐ。それが先だ)
そのためには――何ができる?
彼は考える。
剣士としての腕、修行で得た氣の制御、そして羅刹丸から受け継いだ型。
「……用心棒でも、賞金首狩りでもいい。何でもやってやる」
舗装もされていない山道を歩いていた蒼真は、ふと足を止めた。
歩きながら、蒼真はふと空を仰いだ。
(……そういえば、琴音さんには手紙だけ残して、あのとき道場を出てきてしまった)
心を決めた修行の旅だった。
迷う暇などなかった。だが、あれから随分と経つ。
(心配してるだろうな……朱音のことも、俺のことも)
思えば、あの道場での日々は蒼真にとって家のようなものだった。
厳しくも温かく、誰よりも真剣に剣を教えてくれた人。
あの人の言葉の一つ一つが、今でも胸に刻まれている。
(……一度、道場にも戻ってみるか)
魔族の地に行けば、何が待っているか分からない。
大陸を越えた先にある未知の世界。
下手をすれば、二度とこの地には戻って来られないかもしれない。
(琴音さんにも、当分会えないだろう)
自分の剣の礎を築いてくれた人。
だからこそ、せめて――
挨拶くらいはしておきたかった。
「……行こう。俺の原点へ」
蒼真は向きを変える。
陽射しは穏やかで、足元の土は少し湿っている。
道端には、見覚えのある草花が咲き、遠くから子どもたちの笑い声が風に乗って届いてくる。
「……変わらないな」
ぽつりと呟いた声は、小さく風にかき消された。
髪は伸び、背も高くなった。
だがそれよりも、歩き方が変わっていた。迷いのない、静かな一歩。
村に近づくにつれ、道場の屋根が見えてくる。
木々の合間から覗くあの屋根は、かつて自分が何度も見上げた場所。
(……ただいま、とは言えないか)
けれど、胸の奥にほんの少しだけ温かい感情が湧いた。
「琴音さん……」
その名を口にした瞬間、歩みは自然と速くなっていた。
会わねばならない。
今度こそ、自分の言葉で別れを告げるために。




