第15話:山を下りる時
羅刹丸の肉体が闇に溶けて消えた瞬間。
黒き光が渦を巻き、蒼真の胸元から身体中へと流れ込む。
「ぐ……ッ……!?」
全身を貫く、焼け爛れるような激痛――
血管が裏返り、骨が軋み、内臓が熱で膨張するような錯覚すら覚えた。
蒼真は膝をつき、喉の奥から絞り出すような呻きを漏らす。
「これは……ッ、クッ……!」
視界がぐにゃりと歪む。
世界が反転し、鼓膜をつんざくような音が頭の中で鳴り響く。
羅刹丸から聞いた言葉が脳裏をよぎる。
『――加護を奪う者は久しくいない……。
人間の身でこれを受けるお前には、想像もつかぬ苦痛が訪れるだろう』
「そんなの……どうでもいい……!」
蒼真は、歯を食いしばった。
額から血混じりの汗が滴る。
筋肉が痙攣し、背中が反り返る。
「あなたの……剣を……僕が背負うって、決めたんだ……!」
左眼に激痛が走った。
焼けるような熱。
次の瞬間、蒼真の左眼は黒く染まった。
氣の流れが狂い、内から溢れ出す何か―
それでも彼は、叫び声ひとつあげなかった。
「……これくらい、どうってこと……ない……!」
握りしめた拳から血が滴る。
だが、蒼真は立ち上がった。
ふらつきながらも、踏みしめた大地に、その意志は確かだった。
「僕は……前に進む」
羅刹丸の剣を継いだ者として。
そして、己の信念のままに歩むために。
蒼真は、ふらつく足取りのまま岩壁に背を預け、深く息を吐いた。
左眼に渦巻く力が、今なお体内を蝕むようにざわついている。
それは、羅刹丸から受け継いだ加護の痕。
剣鬼が生涯に渡り抱えていた力の残滓だった。
これは人のものではない。
いずれ自分の意志を侵すかもしれない。そう本能が警告していた。
蒼真は、道着の腰に結んでいた白い手拭いを外す。
静かに左眼へ巻きつける。
一度、二度。きつく、しっかりと。
「……今の僕に、この力は必要ない」
その声には迷いはなかった。
「羅刹丸の剣を継いだ。だが……羅刹丸にはなれない。僕は僕だ」
最後に結び目をぎゅっと縛る。
包帯のように巻かれた手拭いが、左眼をすべて覆い隠す。
視界は半分になった。
だが、その眼差しには、不思議と曇りはなかった。
「力に呑まれるな。氣に流されるな。剣を握る者は、己を律せ」
羅刹丸が最後に遺した教えを、胸の内で繰り返す。
蒼真は、改めて木刀を手に取った。
そして、また――型を振り始める。
左眼を封じたまま、ただひたすらに。
それは、力を持ってなお、自らを磨くための修行だった。
羅刹丸に教えられた剣。
それを、己の中に刻み続けるために。
加護を封じてから一月。
蒼真は、再び剣にすべてを捧げていた。
朝も夜もなく剣を握る。
寝食を忘れるほどの集中。すべては、羅刹丸の遺した型を己の骨に刻むため。
左眼には、今も手拭いが巻かれている。
時折、内側から疼くような痛みが走った。
だが蒼真は、それを力の誘惑と知っていた。
だから一度も解かない。決して覗かない。
「僕は、力のために剣を振るんじゃない」
そう呟き、また木刀を振る。
筋肉が悲鳴を上げ、血がにじんでも止めなかった。
呼吸。重心。氣の巡り――
一太刀に込める意味を、何度も見直し、深めていく。
時には、羅刹丸との日々を思い出し。
時には、朱音の背中を思い浮かべ。
そしてまた、自らの未熟さに歯を食いしばる。
ある日。
蒼真の刀が、まるで氣そのもののように揺らめいた。
それはもはや斬撃ではない。
氣と肉体が融合し、世界そのものに斬るという意志を刻みつけるかのような動き。
蒼真はひとつ深く息を吐いた。
「……そろそろ、行くか」
左眼を覆った手拭いは、まだ解かない。
その時は、まだ来ていない。
だが、次に向かう先はもう決まっていた。
魔族の地――人類の敵と呼ばれる者たちの世界。
朝靄に包まれた山の頂。
蒼真は、小さな石塚の前に静かに立っていた。
そこには、粗削りな木片に「羅刹丸」と書かれただけの、簡素な墓標が立っている。
土を掘り、石を積み上げただけの墓。
だがその傍らには、羅刹丸の剣が一本、静かに立てかけられていた。
「……ありがとう、羅刹丸」
声は低く、しかし確かな感情が込められていた。
蒼真は膝をつき、深く頭を垂れる。
「あなたの言葉も、技も、生き様も……全部、僕の中にある」
手を合わせた拳が、小さく震えていた。
けれど目に涙はなかった。ただ、静かな敬意だけがその場にあった。
風が吹く。
木々がざわめき、まるで羅刹丸が「行け」と背中を押してくれたかのようだった。
蒼真は立ち上がり、手拭いで左眼を覆い直す。
「……じゃあね、師匠。また来るよ。」
そう言い残して背を向ける。
踏みしめるたび、地は柔らかく、そして重かった。
羅刹丸と過ごした時間のすべてが、この山に染み込んでいる。
だが蒼真はもう、迷わない。
「僕は、僕の道を行く――」
静かに、しかし力強く。
天城蒼真は、修羅の山を下りていく。




