第12話:一夜の地獄
気がつけば、季節が巡っていた。
現実では一夜の夢にすぎぬこの空間で、蒼真はすでに半年――地獄に身を置いていた。
何百、何千と斬られ、砕かれ、心を削られながらも、彼は立ち続けた。
歯を食いしばり、血を吐き、叫びを噛み殺しながらも。
もはや、数えることすらやめていた。
立ち塞がった敵の数も、斬り結んだ剣の回数も、全ては一太刀に還元されていく。
この半年で彼が習得した剣技は、五十を超えていた。
それらの剣技は、そのまま彼の血肉となり、無意識に滲み出す本能の剣へと変わっていた。
ある夜――否、この空間に夜など存在しないが、空気が沈むような時間。
蒼真の前に現れたのは、一人の女剣士だった。
黒革の装束。二振りの細身の刃。
その立ち姿は風のように静かで、凪のように美しかった。
「お前が次か……」
蒼真は剣を構える。
その動作はかつての自分とは比べ物にならないほど洗練されていた。
女剣士は、ひとつだけ名乗った。
「イルゼ。羅刹丸を二度殺しかけた女」
蒼真の喉が僅かに鳴る。
(……“二度”殺しかけた?)
その瞬間、視界が跳んだ。
風すら斬る斬撃が、蒼真の頬をかすめていた。
(速い……!)
間合いにすら入らせてもらえない。
しかし蒼真の瞳に、恐怖はなかった。
「半年……いや、もっとか。何度死んでも俺は立ち上がってきた。なら――」
刹那。
彼の身体が、イルゼの背後へと移動していた。
斬撃が空を裂き、彼女の背へ届こうとした瞬間――
ガキン!
細剣が逆手に振るわれ、蒼真の太刀をいなす。
女の瞳に、ほんの僅かな好奇心が宿る。
だが次の瞬間、また剣の舞が始まった。
風と閃光の戦い。
蒼真の地獄は、まだ終わらない。
――そして
蒼真は、ついに一年を生き延びた。
どれほど斬られ、折れ、血を流したか覚えていない。
苦痛も怒りも、もはや感情として認識できなくなっていた。
ただ一つ、心に残っていたのは、
「強くなりたい」
という、あの日の純粋な願い。
それが彼を支え、ここまで導いた。
地は、赤黒く乾き、風は何も運ばない。
この空間に、音が生まれる。
――足音。
静かすぎるほどの一歩一歩が、蒼真の前に姿を現す。
その女は、何の気配も纏っていなかった。
だが、蒼真は直感した。
(……この女性こそが、最後の幻影)
風がそよぐように、目の前に現れた一人の女性。
腰に帯びた一本の白鞘。
長い黒髪は静かに揺れ、その瞳はどこまでも遠い。
「私は、剣聖サクラ。最後の幻影」
その声は、血の臭いに満ちたこの空間に不釣り合いなほど優しく透き通っていた。
だが、その優しさの奥にある絶対の重みに、蒼真は息を呑む。
(この人は……何も構えていないのに、逃げ場がない)
立っているだけで、空気が支配されている。
静かに、サクラが剣を抜く。
白鞘から放たれた光刃は、一切の装飾もない。
ただそこにあるのは、完成された静の極地。
「ならば、見せなさい。あなたが一年かけて積み上げた剣を」
次の瞬間。
蒼真は吹き飛ばされていた。
何が起きたのかすら、わからなかった。
斬撃の気配すらなかったのに、腹から血が吹き出し、地を転がっていた。
(な……にが……)
「斬撃とは、心を動かした瞬間に届いているものです」
サクラの声が響く。
「技を読むのでは、遅い。氣を察しても、遅い。
すべてを感じる前に終わっている。それが、私の剣です」
蒼真は血を吐きながら、それでも立ち上がる。
「……なら、感じる前に動くだけだッ!!」
蒼真の剣が閃く。
一年で研ぎ澄まされた技と氣が、魂の一撃となって放たれる。
だが――
シュン
次の瞬間、サクラの姿が消えていた。
蒼真の背後。わずかに風が揺れる。
――そして、
「お見事です。ですが、それでは足りません」
薄く、冷たい声とともに、蒼真の背に斬撃が走った。
膝をつき、歯を食いしばる。
だが。
「まだ……終われない……!」
彼の剣は、折れていなかった。
「あなたは剣に、何を想いを乗せている?」
剣聖サクラの問いに、蒼真はわずかに眉をひそめた。
だが迷いはなかった。
「負けたくなかった。ただ、それだけだ。何があっても折れない自分の剣を振るうのみ」
静かな答え。
だが、その声には火が宿っていた。
サクラの表情がわずかに揺れた。
「ならば、その想い、この剣で受け止めよう」
刹那。
蒼真が駆ける。
足が地を裂き、魂のすべてを一太刀に込めて振り抜いた。
「――うおおおおおッ!!」
白刃と、血をにじませた剣がぶつかる。
ガキィィィィン!!!
振動が大地を駆け、風が後ろへと爆ぜる。
その衝撃の中、蒼真は踏みとどまり――
剣聖サクラの刃が折れた。
彼女はそっと剣を納め、目を閉じる。
「よくぞ……たどり着きました。己だけの意志を貫く剣に」
蒼真は、膝をつきながらも剣を離さなかった。
「俺はあんたを超えたなんて少しも思ってない。でも、届いた。あんたに一太刀が」
サクラは、最後に小さく頷く。
「届きましたよ。……その証に、私はここで消える」
光の粒が空に舞い、静かに剣聖サクラの幻影は消滅した。
そして――
《無明の扉》が閉じる。
長き一年の地獄が、幕を下ろす。
その刹那、蒼真の眼差しには、かつての少年らしさはもうなかった。
あるのは、剣を貫いて生き延びた者の眼。
そして、これから始まる現実という戦場への――準備だった。




