第100話:見えざる脅威
アメリアが静かに掌をかざすと、淡い炎が生まれた。
小さな炎は氷像の表面をなめるように広がり、仄かな光と熱があたりを包み込んでいく。しかし――。
「……駄目ですね。まったく溶けません」
炎は確かに氷を覆っているはずなのに、氷像は一片の水滴すら流さない。
むしろ、炎の熱を吸い込むかのように、凍りついた表情はさらに青白く強張っていく。アメリアの眉間に皺が寄り、背後で兵士たちが不安げに息を呑んだ。
氷はびくともしないどころか、逆に冷気を深く吐き出した。
隼人が眉をひそめ、氷の表面を軽く叩く。
「ただの氷じゃねぇな。内側に魔力が練り込まれてやがる。……これをやった奴は只者じゃなさそうだ」
セリスも静かに頷く。
「はい。これは魔術的な氷結。単なる凍結ではありません。時間が経っても解けない。むしろ、触れるほどに氣を吸われていく危険すらあります」
「人間業じゃないな。魔族の仕業と見て間違いなさそうだ」
セリスが氷像から手を離し、深く息をついた。
「……ですが、レグナの遺体とは明らかに殺害方法が異なります」
アメリアがすぐに頷く。
「そうね。レグナは殴り殺されたって聞いたけど、こっちは氷に閉じ込められてる。死因も恐らくは窒息死」
隼人が口元を歪め、低く笑った。
「敵は一人じゃないってことだ」
その声は、重苦しい沈黙を切り裂いた。
「殴り殺されたレグナ。そして、氷に囚われた仲間たち……」
淡々と告げられる言葉に、場の空気が一段と凍りついていく。
「少なくとも、従者レベルでは到底歯が立たない仲間がもう一人はいると考えるべきだ」
蒼真は氷像の前で足を止めたまま、左眼を押さえた。
布の奥で燐光が揺らぎ、鋭い痛みが走る。
「……いや、違う」
低く呟いた声に、朱音とセリスが同時に振り返る。
「蒼真?」
彼は苦しげに息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に映るのは、常人には見えぬ残滓の光。
「もう一人……いや、ここには三つの氣がある。殴殺した力。氷を操った力。そして……」
言葉を切った瞬間、背筋を凍らせるような瘴気が脳裏をかすめた。
「……影のように潜む、第三の氣が」
隼人が目を細め、口角を吊り上げる。
「三人も魔族が揃ってやがったってのか。随分と贅沢な歓迎じゃねぇか」
「なぁ蒼真、その左眼で後を追えねぇのか?」
蒼真は眉をひそめ、しばし沈黙した。
やがて、ゆっくりと首を振る。
「……無理だ。相手の氣があまりに穏やかすぎる」
「穏やか?」
朱音が怪訝そうに繰り返す。
蒼真は氷像を見据え、低く言葉を紡いだ。
「普通なら戦闘の後には荒れた氣が残る。怒り、憎しみ、焦り……どんな者であれ、余韻が残るものだ。だが――」
「この場にはそれすらない。ただ、静けさしか感じられない」
隼人は鼻を鳴らし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「余裕たっぷりで去ったわけか。……そりゃまた厄介だな」
蒼真は氷像から視線を外さず、静かに言葉を落とした。
「おそらく尋常な相手じゃない。残滓ひとつ残さず氣を収めるなんて、常人には到底できない」
朱音が険しい表情を浮かべる。
「つまり、それだけ力の差があったってこと?」
蒼真は小さく頷き、帯に差した刀へと手を添えた。
「あぁ。かなりの力の差があったはずだ。しかも戦闘の気配すら掻き消している。そんな芸当……僕にも真似できない」
セリスは胸元で祈るように両手を組み、震える声で続けた。
「もし本当にそうだとすれば……このまま放置すれば、王都全体が危険に晒される可能性があります」
隼人はしばし無言で氷像を見下ろし、やがて口元を吊り上げた。
「力の差ねぇ……なら逆にワクワクするじゃねぇか。どんな奴が待ってるのか、楽しみだ」
蒼真は隼人の軽口を横目に見やりながら、深く息を吐いた。
その眼差しは、ただ一つ。強敵との対峙を覚悟する光を帯びていた。
「……ここで深入りするのは得策じゃない。一度、王城に戻ろう」
朱音が眉をひそめる。
「戻るの? 敵を追える手掛かりがあるのに?」
「焦っても仕方ない。相手は戦闘の痕跡を消すほどの手練れだ。簡単に後を追えるとは思えない。下手をすると待ち伏せにあう可能性すらある」
蒼真の声は落ち着いていたが、その瞳には決意の光が宿っていた。
セリスも頷き、静かな声で続ける。
「……そうですね。王城に戻って体制を立て直し、そこから敵の場所を辿りましょう。いずれにせよ、私たちだけでなく兵を分けて探す必要があります」
隼人が肩を竦め、皮肉気に笑う。
「ったく、堅実だねぇ。でもまぁ、それが正解かもな。分散して探る方が網も広がるしな」
蒼真は仲間たちを見渡し、短く言葉をまとめた。
「城に戻ったらすぐ報告だ。そして……そこから別々に動いて敵の痕跡を洗い出す」
冷たい風の中、全員が小さく頷く。
彼らの決意が固まると同時に、氷像の青白い輝きが背中に不気味な影を落としていた。




