09
「もう警戒はしないのか?」
眼下で陸が途切れて海になった頃、風を切って聞こえた低い声に、秋は後ろを振り返った。フードを取った視界は広く、星を背景にしたフィリアスがこちらを見ている。
「はい。とりあえずは」
まだ信用するに足るとは思っていないが、フィリアスは最低でも優梨のように秋を殺そうとは思っていないだろうから。
そう思って答えると、フィリアスはそうかと答えた。
「……ここが異世界だということは?」
「信じない訳にはいきませんね。私の世界にはこんな生物はいませんから」
龍の背中を軽く叩いて言うと、フィリアスは何か聞き慣れない言葉を言った。
「え?」
聞き返せば、今度ははっきりと聞こえた。
「翼龍、と言う。こいつの名前はロダ、だ」
「翼龍の……ロダ?」
「ああ。空という意味だ」
「空……」
小さく言えば、前方でロダが満足そうに低い声を鳴らすのが聞こえた。
空。
中々かわいい名前だ。秋はさっき秋の手にロダが鼻を寄せてきたのを思い出した。始めて出会った生物だし、短い付き合いではあるだろうが、仲良くなれそうだった。
異世界で未知の生物と仲良くなれるなんて素敵なことではないか。
二時間程飛んだ頃、視界の先の方に再び陸が見えてきた。もしかしてあれがと思うと同時に、フィリアスの声が聞こえる。
「あれがフィアナだ」
じっと見つめる。輝く星空の下、民家の明かりらしき光がぽつぽつと見えた。それは陸の奥へ行く程多くなり、ずっと遠く、中央に密集している。フィリアスの話によるとどうやらそこが国の中心部、王城がある場所らしい。
国の上空へ入り眼下を見下ろせば、やはり見たことのない形の家々が建っていた。どう思っても日本の住居ではない。もう異世界であると認めたのでがっかりはしなかったが、ただ物珍しかった。
またしばらく飛ぶと、少しずつロダが高度を下げて行った。その頃にはもう城郭で囲まれた町の上空に入っており、台地の上に建てられた遠目にも立派な城が見えていた。白い石でできた城塞に囲まれ、同じ材料でできたいくつもの塔が連なった形のその城。屋根は鮮やかな青で塗られていた。城も、それを囲む城塞も、実際に見たことはないが中世ヨーロッパそのものの、見とれるような眺め。
再び見られるかどうか分からないので、秋はその光景をしっかりと目に焼き付けた。分からないが、多分城に着いたら元の世界に帰されるだろうと思っていたのだ。いや、むしろそうでないと困る。はっきりとした時間は分からないが、もう夜で、しかも結構遅い時間帯だ。心配性の上にシスコンの兄と義姉は今頃ぎゃあぎゃあ騒ぎ合っているに違いない。
ロダは城の端の方にある円柱の形をした塔の上で旋回を始めた。落ちると危ないと思ったのか、フィリアスの腕が秋の腹に回される。他人に触られるのに慣れていない為少し体が強張ったが、どうやらフィリアスはそれに気付いていないようだった。安心する。
塔の上には細い人影が一つあった。すぐにフィリアスがロダの上から下りた為、腕が離されたことにほっとしながら秋もそれに習う。長い間ずっと地面に足が付いていなかった為か少しバランスがぶれた。フィリアスが再び腕を伸ばしてきたが、それに支えられる前に持ち直した。一応フィリアスに頭を下げておく。
静かに近付いてきた足音に顔を上げれば、月の光に似た長いストレートな金髪を首の後ろで一纏めにした青年が立っていた。優しく細まる瞳は理知的で、ロダのそれよりも色素の薄い緑色。武官というよりは文官といった様子の、いかにも好青年と言える男だった。
青年は地面に立ったフィリアスを見て頭を下げ、男としては少し高めの、けれど耳になじむ声を出した。
「ご無事なようでなによりです、王」
「ああ」
そっけなく返したフィリアスはロダの鼻を撫でた。
「俺はこいつを厩舎に連れて行く。お前はシュウを連れてけ」
「分かりました」
フィリアスに背中を押され、青年の前へ押し出される。青年の目が秋にそそがれ、やがてその口元が綺麗に弧を描いた。一応初対面の人への礼儀正しい挨拶として、秋は頭を下げた。
「シュウ・カンザキと言います」
「これは丁寧に。わたしはクレイジュ・リディアヌスです。クレイジュとお呼び下さい、シュウ殿」
敬称をつけられて驚いたが、クレイジュと名乗った青年がこちらへ、と歩きだしたので急いでその後ろに付いて行く。
ふと視線を感じて振り返れば、フィリアスの後を厩舎らしき方向へ向かおうとしていたロダが秋を見つめていた。その翡翠の瞳に思わず腕を伸ばせば、とてとてと歩いて近寄ってきたロダの硬い鼻が強く押し付けられる。犬よりはずっとずっと巨大だとは言え、やはりかわいい。
自分の頬が緩むのを感じながら、秋はロダの鼻を撫でた。その目が細まる。と、突然鋭く尖った牙がのぞき、そこから出てきた湿った何かが秋の頬の上を滑った。
……どうやら頬を舐められたらしい。ますます超大型犬のようだ。
後ろからクレイジュがこちらを見ているのに気付いて、秋はこれが最後とロダの鼻を一撫でした。その時ふと思い出して、近くにいたフィリアスに顔を向けた。視線と視線がぶつかる。
フィリアスは祭壇のある部屋で会った時から秋的にいけ好かない男ではあるが、殺されそうだった現状から救ってもらったことに変わりはない。
どんな相手にでも、何かしてもらったら礼儀正しくお礼を。
秋は背筋を伸ばして頭を下げた。日本人の感謝の示し方だ。
「助けて下さって、ありがとうございました」
はっきりと一言告げてから慌てて背を向け、数歩先の、なぜか吹き出しそうな顔をしているクレイジュの元へと駆け寄る。何かおかしかっただろうかとフィリアスを振り返れば、文字通り苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、何だか見てはいけないものを見たような気がして秋はクレイジュへと顔を戻した。
「すみません」
「……いえ」
クレイジュは秋が謝るとくしゃりと破顔し、秋の頭を手のひらでそっと叩くと塔の中へと歩き始めた。
やっと兄と義姉の待つ家へ帰れるだろうかと期待した秋の予想に反して、クレイジュは松明が赤々と燃える長い廊下を抜け、いくつかの階段を上って秋を城の内部の客室のような部屋へと連れて行った。草花の模様が刺繍された赤い絨毯が引かれ、天蓋付きのどこぞの国のお姫様が寝るようなベッドが設置された無駄に高そうな部屋だ。中では四十近い女性が何やら忙しげに動いていた。てっきり魔法陣の書かれた怪しげな部屋に連れて行かれると思っていた秋は肩透かしを食らったような気分になる。
「ここが、秋殿のお使い頂く部屋です」
クレイジュの、まるで秋が長期滞在するかのような口ぶりに戸惑った。
横に立つクレイジュを問うように見上げれば、彼は秋の困惑した瞳に気付いてきょとんと見返した。が、すぐにまさかと口ごもる。しばらくどう言い出せばいいのか分からないのか床に視線を彷徨わせていたが、やがてクレイジュは決心したように顔を上げ、おそるおそるというように口を開いた。
「まさかとは思いますが、その、……王は秋殿に何も?」
「何をですか?」
心底分からないという秋の口ぶりに、クレイジュは片手で顔を覆った。
一拍置いて、その形の良い口が、あの馬鹿王が、とかあの野郎押し付けやがって、というような、笑顔の似合う好青年には到底似合わない言葉をぶつぶつと吐き始める。
一つ大きなため息を吐いて、クレイジュは真剣な瞳で秋を見下ろした。
「詳しいことは明日にでも王から説明があるとは思いますが、その……」
口ごもるクレイジュに嫌な予感がする。その予感は当たっていた。
「秋殿が元の世界に帰れる可能性は、全くと言っていい程ありません」
「そうですか」
頭を殴られたような強い衝撃。
足元が冷えるような感覚。
それにも関わらず、秋の声は落ち着いていた。頭の中もはっきりしている。
一般的な女子高生ならここで気を失ったりするのだろうかと、冷えた頭で考えた。秋には頑張ってもそれはできなさそうだった。泣き喚いてみるとか?それも無理だ。どうにもならないのなら泣いても喚いても意味はないではないか。
どうやら脳みそは、衝撃に対して麻痺することを覚えたらしかった。
思い出してみれば、昨日の優梨のお引っ越し宣言から始まり、一体幾つの衝撃を受けたのか分からない程なのだ。いい加減秋の脳みそが衝撃に対して麻痺してもおかしくはない。人間成長する生物で良かった。……脳の麻痺を成長と言うのか分からないが。
すまなそうに、心配そうに秋を見下ろすクレイジュに、秋は自分は大丈夫だというように頭を下げた。何にせよこの青年は悪くない。まあ、誰が悪いと言うこともできないだろうが。
はっきり言ってしまえば、秋も優梨のお引っ越しに巻き込まれ、強制的にお引っ越しさせられたと、そういうことだろう。それも、戻れないお引っ越しだ。これはもう国外亡命よりも大変なのではないか。
秋は内心で頭を抱えたくなった。
いやいやいや、本当に、どう反応すればいいのだろう、これは。




